第24話 スサノオノミコトの左耳

「スサノオノミコト」


 その言葉が発せられた時、パムの頭の中に蠢いていた、形のないふわふわとしたものが一気に形をなし、過去の思い出が始まった。


 あの子どもの頃の雨の日。

 人だかりのなかで見てしまった、ソシモリと彼の母が受けていた虐待の一部始終。

 ツノのある幼い子どもとその母親が、兵士たちに蹴られ、殴られていたあの日。

 兵たちに指示を出し、笑みを浮かべていた上官。

 周囲の大人たちは弱い母と子どもを助けることもせず、その様子を笑って見ていた地獄のような記憶。

 その思い出の最後に響いてくるのは、いつもこの言葉だった。


「あれは、スサノオだよ」


 パムは、無意識に口の中で繰り返していた。


「スサノオ、スサノオ、スサノオ……」


 そして少し離れた場所で同じ言葉を繰り返している男がいた。


 ソシモリである。


 ソシモリは


「スサノオ、スサノオ、スサノオ、スサノオ、スサノオ、スサノオ、スサノオ、スサノオ、スサノオ、スサノオ、スサノオ、スサノオ、スサノオ、スサノオ、スサノオ、スサノオ、スサノオ、スサノオ、スサノオ、スサノオ、スサノオ、スサノオ、スサノオ、スサノオ、スサノオ、スサノオ、スサノオ、スサノオ、スサノオ、スサノオ、スサノオ、スサノオ、スサノオ……」


 とただ繰り返しながら、つぶやいていた。

 パムはしばらくぼんやりとそのソシモリを見ていた。おそらく同じ思い出が頭の中にぐるぐると回っているのだろう。そしてやっとパムが過去の幻から現実に戻り、ソシモリのその様子がおかしいとおもったときにはすでに遅かった。







 ソシモリがその手につかんでいた赤銅色に輝く剣を、スサノオの背中に刺していたのである。







 あっと思った時には、すでにスサノオは刺された後だった。

 スサノオはゆっくりと顔を後ろに向けると、ソシモリの血走った目を見つめた。

 そして思いもかけない言葉がその口からこぼれでた。





「息子よ」





 スサノオはなんと駕洛語でそう言った。

 ソシモリはその意味がわからぬ、といったように、目を丸くして剣を刺した相手を見ていた。

 背中に剣が刺さったまま、スサノオはもう一度言った。


「息子よ……おぬし……大きくなったなあ」


 ソシモリは剣をそのままに後ずさった。

 パムも何がなんだかわからない。

 スサノオはソシモリのことを息子だと言っている。

 自分のことを刺した相手を懐かしげに見つめ、挙げ句の果てに「息子」と呼んでいるのだ。それは、怒りや悲しみや絶望とは正反対の優しいまなざしで、まるで迷子になっていた仔熊を見つけた母熊のようであった。


「ずっと、お前のことが気掛かりじゃった。あのとき、母を失ったおぬしを。つらかったなあ。でもちゃんとわしのところまできたじゃねえか。よく来たな、小僧」


 ソシモリは首を横に振りながら、つぶやいていた。


「その耳じゃねえ。その耳じゃねえ。左耳じゃねえ! お前は誰だ」


 パムはその言葉を聞いてスサノオの耳を見た。

 ギザギザになっている耳を見たのだ。スサノオは右耳が欠けているが、パムは勘違いしていたのだ。

 幼い頃のあの悪夢の出来事。

 あのときソシモリはスサノオの左耳を食いちぎったのだ。しかし、スサノオの左耳は、遠目に見てもきれいな形でソシモリが食いちぎった耳ではなさそうだった。パムは混乱した。パムだけではない、ソシモリも同じだったろう。


 ずっと母の仇だと信じてきた男をここまで追ってきて、刺してみたら、自分のことを「息子」と呼んでいるのだ。


「いいか、ソシモリ……憎しみはもうこれで終わりじゃあ。おぬしはこんなところで小さく終わるなよ……いいか……おぬしは、おぬしは……」


 スサノオは次第に呼吸が苦しくなってきたようだ。息も絶え絶えになり、声を出すのも苦しそうになる。スサノオはソシモリに手を伸ばしたまま、地面に倒れ伏した。

 ソシモリが立ち尽くしていると、耳をつんざくキンキン声で笑う声が河川敷に響く。


「ひゃーっはっはっはっはっ! よくやったわ、ソシモリ。遠い昔、この日のためにあなたを泳がせていた甲斐があったってものよう。よくぞ、憎きスサノオを殺してくれたねえ、私のために!」


 オロチの頭上で揺らめく巨大なククチヒコの口が、耳まで裂けているようだ。大きく開いた口から、気持ちの悪い声で笑い声が響く。ククチヒコの顔が揺らめいている。すっとその揺らめきが静かになった一瞬、パムは見たのだ。ククチヒコの左耳を。


「ソシモリ! ククチヒコの左耳が!」


 ソシモリがパムの声に反応して天上に揺らめく巨大な顔を見た。蜃気楼のように揺らめくために見にくい。


「ククチヒコ!」


 パムが叫ぶと、ククチヒコがひょいとこちらを向いた。パムのいる方、右を向いたのである。そのとき、左耳がはっきりと映った。かぎ裂きになった左耳が、大きくオロチの頭上に映しだされたのである。


「ソシモリ、もしかしたら、あいつじゃないのか?」

「あいつってあの顔デカがなんだってんだよ、てめえ」

「あの顔デカがお前のお母さんを殺したやつかもしれない」

「一体なんなんだよ。スサノオをずっと仇だと思ってたんだぜ。ずっとずっと、スサノオを殺すことだけを考えてきたんだぜ? 一体何がどうなって……だから、何がなんなんだよ!」


 ソシモリは、ワーーーーッと大声で叫んで、落ちていた剣を拾うと、やたらめたらに剣を振りまわしだした。


「あっぶねえ! 俺を切るんじゃねえ!」


 近くにいたジリが二度剣を交える。ガンガンと剣がけたたましく鳴る。ソシモリは相手が誰なのかもわかっていないようだった。ジリは舌打ちして隙をみて逃げだした。ソシモリはまだ剣を振りまわしている。周囲にいた出雲兵たちもあおりを食ってはいかんと散り散りになって逃げる。

 オロチの上に揺らめくククチヒコが「ひゃーっはっはっはっはっ」と気持ちよさそうに笑っていた。


「斬れ斬れ、斬りなさああああい!」


 その言葉に踊らされているのか、勝手に動いているのか、ソシモリは剣を振りまわし、オロチの下でくるくると剣を振るう。


「落ち着きなっ」


 その言葉とともに、突風がビュオオオッと吹くと剣を振りまわしていたソシモリを、ドンッッッと吹き飛ばした。ソシモリは、塵のように舞いあがった。弧をえがいて、地面にドサリと叩きつけられる。

 風の吹いた方をみると、そこには、赤い比礼を構えたカヤナルミが立っていた。


「いい加減にしなっ」


 相変わらず威勢がいい。巨大なオロチに、いや、頭上で揺れる顔を睨みつけると、麻袋を肩に担いでソシモリの方へと歩み寄る。あの麻袋は見たことがあった。たしか、金海を出るとき、アカルがこの袋を持っていたはずだ。


「あらあ、カヤナルミじゃなあい? ちょっとシワが増えたんじゃなあい? おばさん」


 ククチヒコがニヤニヤと笑うと、カヤナルミはすかさずその方向に赤い比礼をパンっと振った。たちまち風がヒョウッと巻き起こると、あの巨大なオロチが風に煽られて山の方へとのけぞり、ズウウウウウンと重々しい音とともに土煙をあげて倒れた。

 強い。

 カヤナルミのまじないもすごいが、あのお宝も桁違いである。あの汚い麻袋にはそんなすごい宝が入っていたのか。


 思い起こせば、アカルも一度あんな比礼を使っていた。

 金海を出るときに海を割った、汚い布である。あの時はひどい目にあったが、あの袋があれば、オロチもククチヒコも倒せるんじゃないか。


 ソシモリは地面に大の字になったまま動かない。パムは、オロチが倒れて動かなくなったのを見て「ソシモリ!」とそばに駆け寄った。

 カヤナルミもソシモリのそばにスタスタと歩み寄ると、麻袋から白い玉を出して見せた。


「これを見よ」


 ソシモリは呻きながら、ちらりとその白い玉を見る。カヤナルミが呪文を唱えだすと、白い玉が鈍く光りはじめた。そばにいたパムも思わず光る玉を見ると、その鈍い光が全身を包んでいくように感じた。斐川も、河原の石も、倒れているオロチも、出雲兵たちも、ソシモリもカヤナルミも白い光の中に消え、気づくとパムは真っ白い光の中に立っていた。

 



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