世界が君を壊すまで

壬光

第一章 硝子の剣



『私はずっと、貴方にとって不要な存在になりたかったのです』



 人々が遠乗りに出かけるような快晴の空の下で、不意に頭の中を過ぎった言葉に、青年は小さく舌打ちをした。

 普段ならば牛や羊が放牧されていそうな広大な草原の大きな岩に身を寄せた彼の頭上では大きな影がいくつか動き回っていて、彼はそれを表情を歪めたままじっと見上げていたところだった。なぜ彼がその言葉を思い出したのかといえば、それはあの日もこんな晴天だったからとしか言いようがなかった。

 晴れ渡る空の下で言われた、不要な存在で在りたかったという言葉は、彼の心に重しのようにのしかかっていた。







「チっ……マジで役に立たない新人だな」

 青年――月折漠夜つきおり ばくやは脳内に残響する言葉を振り払うように忌々しそうに吐き捨てると、片手に携えた細見の長剣を握り直して空を睨みつける。

 彼の頭上を飛び交う影は鳶のようにも見えるが、よくよく目を凝らしてみるとそれは鳥なんかではない事が明白だった。細い触手のような六対の足に、固い外角に覆われた丸みのある体、そしてトンボのように薄くて半透明の羽を広げて飛翔するそれは、紛れもなく異形の生物そのものだった。普段ならばこの牧場に放牧されている家畜たちを狙ってやってきたのか、それらはまるで獲物を探すように上空を旋回し続けている。

「おい、くたばってねえで数を数えるくらいしとけ!」

 上空を飛び交う異形の甲殻生物を睨みつけていた漠夜が、身を寄せていた大岩を勢いよく蹴り上げる。靴底の硬度が高い特別製の靴は大岩に僅かな亀裂を生じさせ、がつんと大きな音すら立てて、反対側で岩に寄り掛かっていた華奢な少年の身体を揺らした。

「はい! すみません!」

 少年は漠夜の声に驚いたように肩を竦ませると、腰まで伸びた金色の髪を靡かせながら慌てたように飛び起きて両目を瞬かせる。

「ええと……」

「周囲に気を配れねえのかお前は! 隙だらけだぞ」

 無傷である漠夜とは対照的に顔や手を擦過傷だらけにした少年の背後で、怒号と共に大きな落下音が響く。それに驚いた彼が更に身を縮こませながらそちらを見遣ると、たった今数えていたばかりの甲殻生物が頭と胴を寸断されて落下してきたところだった。

「すみません少佐、気をつけます」

「いちいち謝るくらいなら最初から着いてくんじゃねえよ」

 謝罪の言葉に対し、漠夜は心の底から面倒くさそうな言葉を返す。それに対して謝罪の言葉を重ねようとした少年を一睨みで黙らせて、彼は大岩を足場にして高く跳躍して頭上の甲殻生物を一刀両断にしていった。









 大小様々な島が並ぶ大海洋の中心に位置する一大帝国。中央大陸と呼ばれる広大な大地を有するそこには、その他の国々とは一線を画する特殊な組織が存在している。

 その名は【帝国魔天軍】

 軍という名称を持ってはいるが、帝国に仕える軍隊――正規軍とはまた違った役割と権限を持っており、その存在は帝国の中で異彩を放っていた。

 主に国家間の争い事に駆り出される正規軍とは違い、魔天軍には人間を殺め、傷付ける権利は与えられていない。人ならざるものを人知を超えた魔術と称される能力で討伐していくために編成された組織であり、彼等が敵として定めるのは『魔物』と『魔術を使って帝国に仇なす者』のみ。そしてその特性上、帝国摩天軍は入隊条件がひどく特殊な軍隊として広く知られていた。

 魔術師であること。それが、帝国魔天軍に唯一設けられた入隊条件。

「お疲れ様でした月折漠夜少佐、葉邑冷はむら れい一等兵」

「あ、お疲れ様です」

「ごくろうさん」

 長距離移動用転送装置――通称トランスポートの響かせる特殊な作動音が止むと同時に声をかけられた言葉に冷と呼ばれた少年はお辞儀を返すが、漠夜は見向きもせずに一言だけ告げて去って行く。

 少年――冷も慌ててその後ろ姿を追いかけるが、トランスポートの管理者である青年が漠夜を見て顔を顰めたのがはっきりと目に入ってしまった。

「Aランクの任務で傷一つついてないのか……化け物」

 その小声までしっかりと聞き取ってしまった冷は、こちらを振り返らない背中を見返してみる。漠夜は真っ白だったはずの軍服を緑とも紫とも形容しがたい液体で染めてしまっており、肉片までこびりついているので衛生的ではないだろう。しかしそれ以外にも、冷は漠夜の何が青年の気分を害させたのかをよく理解していた。


 漠夜は、この摩天軍において前線担当である【皇】に分類される隊員である。

 魔術師にもいくつか種類があり、漠夜のような攻撃系魔術に特化した者と、防御・回復などの支援系に特化した者の二種類に大別されている。二つの特性が正反対という事もあり、攻撃に長けたもの、通称・タイプSには支援系の魔術を使えないというのが大きな特徴だ。当然ながら逆も然りで、支援専門の隊員である冷――通称タイプMにはタイプSのような能力を使う事は不可能であるとされている。

 そのため摩天軍の隊員にはタイプS【皇】とタイプM【陵】の二名以上でペアを作らなければならないという不可侵の規則があるが、漠夜は長い間、必要であるはずのパートナーを持たない事で有名だった。

「少佐、待ってください」

「なんだ。報告なら俺がやるから、お前は勝手にしてろよ」

 百八十を越える長身の漠夜は、百七十にも満たない冷とは歩幅が全く違う。その背を追いかけるうちに良きを切らしてしまった冷の事を鬱陶しそうに振り返るが、やはり言葉の中身は素っ気ない。

 海を映したような美しい青をした切れ長の瞳も、まるで絹糸のように透き通った銀髪も、どちらも冷めた印象を与える原因の一端を担っている。精巧につくられた人形のようだと賛辞を受けるその容姿も、口を開けば全て台無しになってしまうため、彼に対する周囲の評判はあまり芳しくない。

「……おい、あいつもう帰って来たぞ」

「相変わらず澄ました顔だな……格下には興味ありませんってか」

 ただ歩いているだけなのに、あちこちで漠夜に対する負の感情が交わされる。口があまり良くない事に加え、パートナーも必要としない。さらに漠夜は身体能力値が全ての項目でAA以上を誇る白鷺一番隊のエースであるため、嫉妬や嫌悪などを集めやすい人間なのだろう。

 入隊して一か月にも満たない一等兵である己が、どうして白鷺一番隊のエースとペアを組むことになったのか最初こそ悩んだものだが、その理由はこの嫌われぶりを見れば察することが出来る。

 しかし、白亜の回廊を硬質なブーツの足音を響かせながら颯爽と歩く姿は美しい以外の何物でもない。それなのに何故こんなにも嫌われているのかと、冷は彼に対して疑問も抱いていた。能力は折り紙付きなのだから彼に対して『すごい』という感情こそ抱いても、それが百八十度変わって『化け物』という感想になる理由がさっぱりわからない。

「昔は大佐だったらしいけど、だからってあれはないよな」

 悪意の言葉に漠夜も気が付いているだろうに、それでも彼は一度も歩調を緩めることなく真っすぐ前だけを向いて歩いていた。




「――よう、戻ったぞ」

 長い回廊を抜け、硝子張りのエントランスホールを出た更に遠く。基地から歩いて十分ほどの小高い丘に来た漠夜は、その一角に作られた小さな墓地に来ていた。彼は任務から帰ると時々こうしてこの墓地に来ており、何かを語り掛けている。漠夜の後を追いかけるうちに、つい別れるタイミングを逃してついて来てしまったが、彼は冷がいてもいなくても何も言わない。存在を無視されていることはすぐにわかったが、それ以上に彼の雰囲気の変わり方が少し気になったので、三歩後ろからその光景を眺めることにした。

「今回も駄目だったよ」

 深いため息と共に、漠夜が小さく零す。この墓地に着た時だけは彼の雰囲気は少しだけ柔らかなものになっており、口調も心なしか優しい。なんとなく問いかけた事は無かったが、きっとこの墓地には彼にとってとても大切な人が眠っているのだろうと思った。

 墓石に刻まれた名は〈如月未羽きさらぎ みはね〉。噂で聞いた、一年以上も前に事故で死亡した漠夜の前パートナーである。

『――業務連絡です』

 墓前で任務の報告をする漠夜の後ろで手を合わせていた冷は、突如聞こえてきた声にはっとして顔を上げた。常に装着を義務付けられている二連ピアス型の通信機から聞こえるのは、入隊してから何度も聞いた一番隊総司令官の声だ。

『月折漠夜少佐、葉邑冷一等兵。いますぐ執務室まで来てください』

 通信機を通した無機質な声に、冷はおろおろと両手を彷徨わせて漠夜の動向を窺う。任務から帰還してすぐに総司令から呼び出されるとなれば、用件は一つ。任務に関しての報告書を提出するようにとの催促だろう。

 パートナーである漠夜は一事が万事あの調子なので、冷はまだ処理の仕方を教わっておらず、彼が動かなければどうする事も出来ない。かと言って今の漠夜に話しかけるのは憚られる気がして戸惑っていると、舌打ちを一つ零して踵を返した。どうやら呼び出しにはきちんと応じてくれる気のようだ。


 先ほど通ってきた道のりを、今度は総司令官である如月輝大佐の執務室に向けて歩き出す。トランスポートの管理室は東館の二階にあるが、彼の執務室は本館Aブロックの三階に存在しているため、先ほどより少々移動距離は長くなる。入隊して間もない冷は漠夜の後ろをついて行かなければ迷ってしまいそうになるため、その背を見失わないよう必死に足を動かしてついて行った。

「これが今回の資料です」

 漠夜が執務室に入ると、挨拶もそこそこに分厚い書類が手渡される。

 この執務室の主である如月輝きさらぎ かがや大佐は、弱冠二十三歳にして総司令にまで上り詰めた生粋の天才であり、聞くところによると漠夜と同期に当たるらしい。金の髪に青い瞳をした彼は悠然と指を組みながら、当然行ってくれるだろうという余裕を全面に押し出しながら微笑んでいる。

 どちらも気心知れた仲であるからなのか、彼から資料を受け取る漠夜の仕草からも遠慮は感じられない。冷はたどたどしい手つきで敬礼をし、輝が話し始めるのを後ろ手に手を組みながら静かに待った。

「まずは葉邑一等兵、初任務お疲れ様でした」

「あ、いえ……恐縮です」

 彼から直接かけられた労いの言葉に冷は何と答えていいかわからず、わずかに口ごもってしまう。輝はそんな様子も意に介さない様子で漠夜へ一瞥を送ると、微笑みを崩さないまま再び口を開いた。

「戻ったばかりで恐縮ですが、貴方がたには再び任務に出ていただきます。ランクはA、本土の東部に位置する森林地帯の一角にて発生した連続殺傷事件の元凶を討伐する事」

 漠夜が手元の資料を開いたのを見て、隣から冷も覗き込む。右上に描かれたアルファベットは任務の危険度を表しており、最低のDから最高の特Sまで段階的に区別されている。Aということは、それなりに危険性の高い任務ということになる。

 二度目の任務でそんな大それた任務が与えられると思っていなかった冷は、身震いする心地で下の概要を読み進めていく。

 東部の森林で発生した殺傷事件は、猟師や商人のキャラバンなどの襲撃から始まり、その勢力を徐々に拡大していっているという。範囲は森のほぼ全域。一か月ほど前から毎日のように死体が発見されるようになり、今日に至るまでに約百人は犠牲になっているのだという。

 犠牲者の数を増やす原因となったのは、獣の牙や爪による咬傷・裂傷が見当たらなかったことから人為的な事件と判断され、初動捜査に正規軍が出動したことだ。人の立ち入る頻度が増えたことにより、被害は目に見えて膨れ上がっていった。そうした末に危険度がAまで跳ね上がり、魔天軍にお株が回ってきたという事である。

「今はAランクの任務に就ける隊員が貴方しかいません。受けていただけますね?」

「一葵と月華はどうした?」

「彼らもそろそろ戻る頃あいかと思いますが、事は一刻を争います」

 先ほどの任務で魔力を消耗していることは輝も十分承知の上だろう。それでも彼が漠夜に任務を渡すしかないのは、Aランクの任務を請け負う事が出来るのが今は漠夜しかいないからだ。

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