第8話 そして船はまた走り出す (2)

 地球到着まで残り四ヶ月を切ったこの時期、「しきしま」の船内は非常ににぎやかになる。というのも、今回の旅で船を降りる乗務員が後任者への引継ぎを始めるため、約六百人以上にも及ぶ後任者たちが、高速輸送艇に乗ってやってくるためである。


 艦内の飲食店たちが、格好の稼ぎ時だと手ぐすね引いて待ち構えていた歓迎会ラッシュが一段落すると、艦内ではあちこちでガヤガヤと前任者が後任者に業務を説明し相談しあう声が飛び交うようになる。


 しかし、そんな風に前もって人事が確定し、四ヶ月間もかけて念入りに引継ぎを行うのは部長層までである。艦長・副長・監査役の人事は、「しきしま」が地球に到着した後に開かれる取締役会で承認されるまで正式には確定しない。

 それなのに、長尾取締役が二ヶ月半も使ってわざわざ「しきしま」を訪問し現地視察をするという事は、自分が次期艦長に就任する事について、相当確実な情報を得ているに違いなかった。


 また、見方を変えればこの視察は、入社以来ずっと企画管理畑で、輸送船での実務経験が全くない長尾取締役の内心の不安の表れともいえた。艦の運営という未知の業務に自信がないから、わざわざ早めに自分の目で確認して安心したかったし、それと同時に、艦の乗務員達に自分の存在を印象付け、あわよくば熱意のある人だと好意的に思われたいという思惑もあったことだろう。


 もちろん、この出張に意味が無いとは言わない。長尾取締役に積極性と熱意があるかといわれれば、確かにある。

 ただ、いかに定期の輸送艇への相乗りとはいえ、この距離の宇宙飛行は往復で四百万円近くの渡航費用がかかるのである。それを費やしてまでわざわざ出張するかどうかというと、その判断にはその人の性格や、仕事に対する思想が自然とにじみ出てくる。


 この費用は必要経費だというのが長尾取締役の感覚で、こんな出張は単なる無駄な社内パフォーマンスだというのが鍋島艦長の感覚だった。

 当然、抜け目のない長尾取締役は、社内には鍋島艦長のような感覚の人もいるという事はちゃんと理解している。だから、出張を申請する前に、周到にこの出張の意義を全役員に懇切丁寧に熱い口調で説明し、了解を取り付けていた。

 そのため取締役会ではむしろ、長尾取締役は熱意ある若き艦長候補という好意的なイメージで捉えられており、出張を申し出た事でむしろ彼の株は大いに上がっていた。


 そんな取締役会の雰囲気を伝え聞いていたので、鍋島艦長は今回の出張について、何も言うのをやめたのだった。

 もしここで彼がこの出張に批判的な事を言ったら、地球から遠く離れている事をいいことに、長尾取締役はきっとある事ない事を役員達に吹き込んで、鍋島艦長を引きずり降ろしにかかるだろう。それは避けねばならなかった。


 鍋島艦長が出張の受け入れを了承してから約一ヶ月後。長尾取締役の乗った高速宇宙艇が、大量の物資を積んで「しきしま」に到着した。長尾取締役はそのまま、自分のスーツケースの中身も開かずに艦橋オフィスに直行し、鍋島艦長と木下副長に挨拶をした。


「それはそうと鍋島さん。地球に帰った後はとうとう専務ですね。おめでとうございます」


 挨拶もそこそこに開口一番、長尾取締役がニヤニヤしながら最初に口にしたのがこの言葉だった。


「俺は聞いてないよ」

「またまた。でも南野専務は今年でご退任ですし、今の常務以下のメンバーを見ていると、経歴・年齢・資質どれを取っても鍋島艦長以外に専務にふさわしい方は見当たらないじゃないですか。地球じゃ誰もが次の専務は鍋島さんだって言ってますよ」


 鍋島艦長は、不機嫌な時は不機嫌な顔をする人だ。出会ってまだ数分。それなのに、鍋島艦長は目にみえて虫の居所が悪そうな表情に急変していった。

「光速度通信で自分の人事の話を聞くなんて事、あるわけないだろ。地球に着いて、社長から直接面と向かって言われるまでは全部憶測でしかないさ。今から悶々としても仕方ない」

「そんな。鍋島さんご自身にとってはそうかもしれませんが、この人事次第で会社の将来や自分の未来がガラッと変わってしまうかもしれませんから、社員はみんな悶々としていますよ」


 鍋島艦長は、本心を隠すための演技とかではなく、本当に心の底から、地球到着後の自分の処遇については全く興味を持っていなかった。

 悶々とするどころか、長尾取締役から話を振られて初めて、あぁそういえばそんな話もあったなと思い出したほどの無頓着ぶりである。

 しかし長尾取締役のような人間には、鍋島艦長のような思考が世の中に存在するという事すら理解できない。会社に勤めている以上、全ての人間は人事を気にするものであり、全員が必ず、自分が昇進できるかどうかを気に病むものだと彼は信じて疑わなかった。


 そんな長尾取締役が、むしろ彼なりの親切心から色々と本社の貴重な最新情報をベラベラと話してくれるのを、鍋島艦長は心の中では面倒臭がりながら、熱心なふりをして聞いていた。

 そして早くも、この男は艦長に向いていない、本社の管理組であればこういうタイプの人間も必要かもしれないが、少なくとも艦長業にはむしろ邪魔となる資質だ、という冷徹な診断を下していた。


 長尾取締役の視察は、翌日から始まった。朝から晩まで、各部署の課長層を順番に個室に呼び出しては仕事の内容を聞いていく。

 長尾取締役からは事前に、「今は引継ぎでみんな忙しいだろうから、手持ちの資料で簡単に説明してくれればいい」という現場に配慮した申し入れがあった。

 しかし、わざわざ二ヵ月半かけてまで視察にやって来るような情熱に満ち溢れた取締役である。そんな人への説明に、ろくな事前準備もせず手持ちの資料だけで臨もうなどと考える軽率な管理職など、誰一人としているわけがなかった。


 結局、各部署三十分ずつの説明のためだけに、どの部署もかなりの時間と労力を割いて専用の綿密な資料を作成したのだが、管理職たちのその判断はやはり正しかった。

 いざ説明が始まると、長尾取締役は持ち前の熱意がむくむくと湧き上がり、「手持ちの資料で簡単に」などという自らの事前の言葉はすっかり頭から抜け落ちていた。

 最初の課の説明ですでに予定は十分遅れとなり、結局初日は、予定していた全ての課の説明が終わりきらなかった。


 視察初日の様子はまたたく間に噂となって艦内に伝えられ、乗務員たちの心をどんよりと暗くした。今後四年間、この新艦長に付き合わされる後任者たちは、今からでも異動希望出せないかなと愚痴を吐き、それを気楽な前任者がなぐさめて励ますという光景が、艦内の居酒屋のあちこちで繰り広げられるようになった。

 まさに、艦長一つで艦の雰囲気は大きく変わるのだった。


 二週間の視察の後半は、実地視察が行われた。

 これには鍋島艦長も同行したが、どこの実地視察先の説明も「嘘は教えていないが、本当の事も教えていない」というギリギリの線を突いて、できるだけ自分の部署の本当の限界を教えまいとする内容だった。

 ここで長尾取締役に正直に真実を教えてしまったら、彼の性格からいって、艦長着任後にはどうせ、それ以上の成果を出せと平気な顔で言ってくる可能性が非常に高い。

 勝手知ったる鍋島艦長の目からすると、誰もがその時に備えて、ヘソクリを密かに貯めておこうとしているのがまさに一目瞭然で、鍋島艦長は内心噴き出しそうになるのを無表情でこらえるのに必死だった。


 しかし、そんなきわどい説明の一つ一つから、その部署が日頃抱えている苦労が嫌というほど伝わってくるので、色々指摘すべき点は数多くあったが、鍋島艦長はあえて沈黙する事にした。

 説明中、多くの部課長が、長尾取締役よりもむしろ鍋島艦長の方を不安げな目でチラチラと眺めていた。おそらくその誰もが、穴だらけの苦しい説明に対して鍋島艦長が何も口を挟んでこない事を意外に思っていたことだろう。


 状況を熟知している鍋島艦長さえ黙っていてくれれば、さすがは百戦錬磨の現場の管理職たちである。輸送船での実務経験のない長尾取締役をご満悦させつつ、いざという時に備えて、自分達の部署の余裕しろを残しておくよう巧みに説明する事など呼吸のように簡単な事であった。


 二週間の日程を終え、実に有意義な視察だったと満足して、長尾取締役は一足先に地球に帰っていったが、「しきしま」艦内には大きな徒労感と、次の旅は前途多難になりそうだという重苦しいムードが残された。

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