第1話 たった一度の憂鬱 (4)

「珍しく、ずいぶんと熱くなっておられましたね。」

 会議の後、艦長室に戻った鍋島艦長に、穏やかな微笑を浮かべた木下副長が優しく声をかけた。鍋島艦長は艦長机のディスプレイを眺めたまま「む」と声を発しただけでそれには答えない。

「花木君の困りきった顔が、会議中ずっと面白くて仕方なかったですよ私は。」


 相変わらず、鍋島艦長は木下副長の言葉には答えずにディスプレイを眺めながら普段と変わらない表情で何か作業をしている。それは、「いま俺は『声をかけるなオーラ』を出しているぞ」という非常に分かりやすいサインだったが、木下副長は全く気にせず続けた。


「血が騒ぎますか?」


 鍋島艦長の眉間が一瞬だけ動き、また何事もなかったかのように元の顔に戻った後、鍋島艦長はディスプレイから一切目を離さないまま、無表情でボソリと言った。


「騒ぐね。」


 木下副長はニコニコと微笑んだまま


「でしょうね。」


とだけ言うと、「この件は艦長にお任せします。でも花木君にあまりきつく言い過ぎるのは。」

そして何だか嬉しそうに、「彼はまじめですから」とだけ言い残して艦長室を出た。


 木下副長が部屋を出た後も、鍋島艦長はディスプレイをずっと凝視し続けていた。そこには日々艦内の各部署から上がってくる報告書のタイトルが何十行にもわたり表示されている。


「六月度動力課 燃料収支報告」

「一―三月収支 差額補正戻し額について」

「共生会長との懇親会日程(確認)」

「七月度安全活動報告」……


 その報告書のほとんどは未読のマークが付いていたが、鍋島艦長は手早く何十個ものタイトルを選択すると、読まずに一気に「処理済み」の区分マークを付けた。


 一通り処理済みのマークを付け終わると、そこで鍋島艦長は始めてディスプレイから目を離し、天井を向いてフッとひと息吐くと、ボソリと独り言を言った。

「騒ぐに決まってんだろうがよ。バカたれ……」

 そして艦内電話の受話器を取ると手早くダイヤルした。


「あぁ、阿部君?鍋島だけど。連絡見たよ。ロシアの奴ら、面談に応じてきたね。うん、何考えてんだろうねあいつら。まぁ、ステラ・バルカーの艦長がまさか自分から出てくるなんて思ってなかっただろうから、あっちも面食らってんだろきっと。

 うん。面談の時間と場所はそれでいい。

――そうだね、メンバーは、私と君と経理部長でいいんじゃないかな。護衛は保安課日勤の第1班だけで十分。こういうのは護衛があんまり多いとまたおかしくなるからね。

 木下君と航法部長は留守に残しておくよ。ホラ、万が一って事もあるだろう一応。

・・・うん。うん。了解。それじゃ十時出発で。」


 そう言って電話を切った時の鍋島艦長の表情は、何十通も溜まった報告書を黙々と振り分けていた今さっきまでとは別人のように生き生きと輝いていた。


「失礼します。」

そこに、艦長秘書の竹田さんが艦長室に入ってきた。

「艦長、『しきしまフードサービス』の片山社長がお越しです。第二応接室にお願いします。」

「あぁ、今行きます。・・・で、片山社長との面談の次は何だっけ?」


「十五時から『敷島金属加工』の田辺専務とのご面談、十六時半からはエンジニアリング部門の月次ミーティング。あと今晩は共生会の労働部会長との会食がありますので。」

「何時?」

「『割烹 和田倉』に十八時ですので、近いですし十七時四十分に出発すればよろしいかと。お土産は人数分ご用意して厚生部長にお渡ししておきます。」

「わかった。ありがとう。」

 鍋島艦長は、軽いため息を一つだけ吐くと、立ち上がってハンガーに掛かった上着に手を伸ばした。

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