第二十七話 『公園』② 星野魁

 その男は八月だと言うのに、パーカーの上から黒のトレンチコートを羽織っている。奇妙な服装だが、この山の異常な寒さの中ではちょうどいいかもしれない。


 昌樹の表情は見えないが、僕と同じ様に唖然としているに違いない。


 立ち止まった男はひとしきり僕らを眺めた後、まるで迷子の子供に声を掛ける様な慈悲を含む声で話しかけてきた。


「どうかされましたか?」


 僕と昌樹は顔を見合わせ、どう答えるべきか無言の相談を始めた。


 陽子の呻き声が激しさを増す。


「その方、随分辛そうにされていますが」


 暗闇の中から唐突に現れた得体の知れない男に、素直に状況を説明しても良いものか迷った。


 僕はもともと用心深い。


 だから昌樹の信号無視も理解出来ないし、初対面の人には氏名以外の情報は教えない。

所属している大学名や、出来れば年齢も言いたくない。携帯電話の位置情報サービスですらオンにするのがなんとなく嫌で常にオフ状態にしている。


 慎重というか、ただの臆病者と言われればそれまでなのだが、山奥での異常事態の中で警戒心が一層強まっている。


 この男が親切を装って僕らを騙し、何か良からぬ事を企てているのではないかと考えている僕を余所に、昌樹が話し始めた。


「よくわかんないんですよ。急に頭が痛いって言い出して」


「頭痛ですか?」


「そうっすね。最初はお腹が痛いって言ってたんですけど」


「お腹?」


「はい、最初は。今は頭が痛いって言ってて」


 男はゆっくり陽子に近付くとしゃがみ込み、地面に突っ伏して息を荒くしている陽子を観察した。


 容態を確認している医者の様に見えなくもない。


 それでも僕の警戒心が解ける事はなく、この男が妙な動きを見せたらすぐに対応出来るように心の準備をする。


 男が、初めに声をかけて来た時よりももっと優しい声を発した。


「聞こえますか? ゆっくり呼吸をして下さい。落ち着いて、ゆっくり息を吸って、吐いて」


 男の声が届いたのか、陽子は頑張って呼吸を整えようとしている様だ。


 不規則に乱れていた息が、次第に一定の間隔に戻っていく。


「おい、しっかりしろ。まだ頭痛いか?」


 昌樹が問いかけると、陽子は少し顔を上げた。


「わかんない。今は胸のとこがイタイ、心臓かな。すごい苦しいよ…… どうしよう、あたし死んじゃうのかな」


 陽子はそう言って再び地面に額をつけ、両手で胸を強く押さえた。


 少しだけ見えた陽子の辛そうな表情と弱気な発言を受けて、昌樹の不安は更に肥大した様だった。


「車に頭痛薬置いてあるんですよ。俺ちょっと取ってくるんで」


「頭痛薬は…… 効かないと思いますよ」


 男がそう言ったのを聞いて、駐車場へと走りだそうとしていた昌樹は足を止めた。


 僕は気になっていた疑問をぶつけた。


「医者なんですか?」


「いえ、そんな大層な者ではありません。失礼ですが、お聞きしてもよろしいですか?」


「はい?」


「皆さんは、ここへ何をしに来たのですか?」


 良識のある大人に不都合な質問をされた時、なるべく叱咤されない様に工夫して説明するのは、昌樹の方が得意だ。


 僕は昌樹が話しだすのを待ったが、彼はペンライトを持ったまま立ち尽くしている。


 今更、体裁なんて気にしても仕方ないか。そもそも深夜の山奥で大学生が数名いる状況なんて、ふざけて肝試しに来る以外に理由が思いつかない。


「いろいろ危険だとは解っていたのですが、ちょっとふざけて、肝試しをしていたんですよ」


 そう言ってから、前半部分の言い訳は必要なかったなと思った。


 この男がまだ何者かも解っていないのに、僕は何を萎縮しているんだ。


「肝試しと言いますと、具体的にどんなことを?」


 その質問に答えることで今の状況がどう好転するのだろうか。


 この男は実は刑事で、これはもしかして職務質問なのかも知れないと僕がいぶかしんだ時、昌樹が返答した。


「この先に池あるじゃないですか。そこに行こうと思って。この公園って全体が有名な心霊スポットなんですけど、その池が特にヤバいって聞いたんで」


「ヤバい、と言うのは?」


「あ~、なんか水死体とかがよく見つかるって」


「あなたがその池に行こうと言い出したのですか?」


 男の質問に昌樹が『はい』と即答すると思っていた。


 僕は昌樹に誘われたし、他の2人も昌樹に誘われたものだと思い込んでいたからだ。


「いや、俺じゃないっす。もう一人来てるんですけど、俺の彼女が。その子がみんなで池に行きたいって言い出して。さっき急にいなくなっちゃって。ここに来る途中に女の子見ませんでしたか?」


「そうですか…… いえ、誰も見ませんでしたね」


 男はそう言った後、まるで首を絞められているかの様に悶える陽子に視線を戻して黙り込んだ。


 僕と昌樹は再び顔を見合わせた。


 失踪した成海を探すべきか、男の意見を無視して陽子の為に薬を取りにいくべきか。


 救急車を呼ぶ事も考えた。


 圏外でも、緊急電話は繋がる事があると聞いた覚えがある。


 おもむろに立ち上がった男がコートの内側に手を入れた。


 僕と同じく、救急車を呼ぶしかないという選択肢に至ったのだろう。きっと携帯電話を取り出そうとしているのだと咄嗟に思った。


 しかし、コートの裏ポケットから男の右手に握られて出てきたのは予想外の物だった。


 百円ライターと煙草の箱。


 男は箱から煙草を一本取り出すと口に咥え、ライターで火をつけた。


 ゆっくりと息を吸ってから、煙草を挟んだ指を口から放す。


 開かれた口から飛び出した煙がペンライトの光に照らされ、風に吹かれて消えていった。


 匙を投げたのだ、と思った。


 突然山奥に現れた怪しい男が、この悪い状況を都合よく解決してくれる訳はないだろうとは思っていた。しかし、まさかこのタイミングで一服しだすとは思っていなかったので少し呆気に取られてしまった。


 業を煮やしたのか、昌樹が早口で喋りだした。


「とりあえず、薬取ってきますよ。もしかしたら効くかもしれないし」


「下手に動くと危険ですよ。それより、ライトをもう少し右に動かしてくれませんか」


 食い気味にそう言われ、昌樹は怪訝な表情を浮かべながらも男の指示に従った。


 昌樹のペンライトが、地面に突っ伏している陽子の頭上の空間を照らし出す。


「そうです。そのままにしておいて下さい」


 男はもう一度、煙草を咥えた。


 そして一度目より勢い良く煙を吸い込んだ後、煙草を挟んだ指を陽子の頭上に突き出した。


「あの…… 何やってんすか?」


 昌樹の声に苛立ちが込められているのが解った。


「タバコの先から立ち昇る煙を照らして下さい。良く見えるように」


 そろそろマズいんじゃないかな。僕は目で昌樹にそう合図した。


 男は風に揺らぐ煙草の煙をじっと眺めている。


 こうしている間にも陽子の呻き声は大きくなり続けている。姿を消した成海も、森の中を彷徨いながら僕らに見つけてもらうのを待っているかも知れない。 


 これ以上、怪しい男の奇行に付き合っている暇はなかった。僕は意を決した。


「一体、何してるんですか? そんなことやってる場合じゃ……」


 僕が言葉を止めたのは、尻込みをしたからという訳ではない。


 見たのだ。


 昌樹のペンライトの明かりに照らされた煙草の煙が、明らかに不自然な動きをしたのを。


 煙草の先から立ち昇り僅かな風に揺らめいていた煙が、突然ぐるりと螺旋状に動いた。


 そして煙は風向きに逆らい、まるで何かに吸い込まれるかの様に森の中へと引っ張られている。


「え? なにこれ、どうなって……」


 昌樹が前のめりになり、明かりを煙の先へと向けた。


 冷たい風を吐き出す暗闇を纏った木々が、一本の煙を飲み込んでいる様に見えた。


「どちらか、一緒に来てくれませんか。お友達を探しましょう」


 男は森の中に吸い込まれる煙草の煙を見つめながらそう言った。

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