第24話 終曲の調べ

 廊下はまるで突然の砂嵐でも発生したかのような有様だった。それはゼジッテリカの知っている屋敷の中ではなかった。仕方なく部屋へと引き返したゼジッテリカは、シィラに守られながら床に座り込み震える。

 一体何が起こっているのか? 状況が全くわからず、ただ短剣を抱きしめながらじっとしているのは辛い。恐ろしい考えばかりがすぐに脳裏に浮かんできた。

「退路が断たれましたね。もしここに直接乗り込まれるとまずいです。かといって気を消すわけにもいきませんし」

 ゼジッテリカの頭を抱えながら、シィラは独りごちた。彼女が何を案じているのかは定かでなかったが、まずい状況なのはゼジッテリカにもわかる。他の護衛たちは大丈夫だろうか? 使用人たちは生きているのか?

「仕方がありません。中庭に降りますか」

 するとシィラは意を決したようにそう述べ、立ち上がった。そして座り込んだままのゼジッテリカへと両手を差し出してくる。ゼジッテリカはきょとんと目を丸くし、その白い手を見つめた。

 中庭へどうやって降りるというのか? 残念ながらここは二階だ。梯子なしでは安全に移動できない。しかし廊下があの状況なので、梯子を持ってくるわけにもいかなかった。

「リカ様、掴まってください」

 だが優しくそう声をかけられて、ゼジッテリカは頷いた。もはや正常な思考が働かなかった。それでもシィラの言うことなら信じられる。それだけは変わらなかった。

 そっとシイラの手を握ると、そのままふわりと引き上げられる。いや、そう思った次の瞬間には抱え上げられていた。

 前にも同じことがあったが、その度に驚いてしまう。華奢に見えるのにシィラの腕には力がある。不安定なところもなかった。

「じゃあここから庭へ飛び降りますから、びっくりしないでくださいね。あ、この短剣は腰からぶら下げておきましょう。落としたら困りますから」

 ついでシィラはゼジッテリカの短剣を器用に腰のベルトからぶら下げた。実に手慣れている。黄色のドレスとは不釣り合いな武器が、ゼジッテリカを奇妙な心地にさせた。

 母が好んでいた色のドレスと、シィラがくれた短剣。日常と非日常の象徴。それが今ゼジッテリカのもとにある。

 シィラはそのまま窓際へと寄り、静かに鍵を開けた。大きな窓が開け放たれると、そこからやや強い風が部屋の中へと入り込んで来る。夜の訪れを感じる冷たい風だ。なびく髪を手で押さえながら、ゼジッテリカは目を細めた。

「行きますよ」

 すると突然体にかかる重みが消え、目の前に空が広がった。それは瞬きをする間すら惜しむような、一瞬の出来事だった。何が起こったのかわからず目を回し、ゼジッテリカは慌てふためく。

「わわっ!?」

「大丈夫ですよリカ様」

 シィラに抱えられたまま、ゼジッテリカの体は宙に浮かんでいる。いや、上昇していると言ってもよいのかもしれない。今まで体験したことのない感覚が心許なくて、ゼジッテリカはシィラにしがみついた。

 揺れるシィラの髪が頬へと触れた。少しくすぐったかったが、それでも腕の力を抜くことはできなかった。

「降りますよ」

 そのままゆっくりとシィラは地を目指す。恐れるような落下感はなかった。次第に近づいてくる草原を見つめ、ゼジッテリカは瞬きを繰り返す。

 もうすっかり夜だ。厚い雲のせいで月明かりも乏しい。先ほどまであった空の赤い光もなくなっていた。それがいっそう不気味に感じられて、ゼジッテリカは肩を震わせる。

 地上に降り立つと、奇妙な静けさが辺りを包み込んだ。地響きもない。風に吹かれる木々のさざめきだけが、ゼジッテリカの鼓膜を揺らした。

 いや、そこに何者かの靴音が混じった。はっとしたゼジッテリカはシィラを見上げる。一体誰だろう? 使用人? 護衛? それとも魔物だろうか?

「ねぇ、シィラ――」

 だが問いかけるよりも早く、その主は姿を見せた。暗がりの木々の向こうから飛びだしてきたのはテキアだった。ゼジッテリカはあんぐりと口を開ける。

「テキア叔父様!」

 まさか心配して駆けつけてきてくれたのだろうか? シィラの腕の中から飛び降りたゼジッテリカは、その勢いのままテキアへと駆け寄った。テキアが無事だった。そのことがとにかく嬉しい。

 何も考えず飛び込んだが、片膝をついたテキアはしっかりと受け止めてくれた。その大きな腕に安堵を覚えて、ゼジッテリカは息を吐く。一番安否を心配していた存在が目の前にいるのが、こんなに喜ばしいこととは。

「ゼジッテリカ、怪我していないか?」

「うん、私は大丈夫。叔父様は?」

「大丈夫だ」

 ゆっくり顔を上げると、切れ長の瞳を細めたテキアは優しくこちらを見下ろしていた。ゼジッテリカは頬を緩める。すると後ろから草を踏みしめる音が聞こえてきた。シィラだろう。

「ご無事で何よりですが、テキア様……バンさんは?」

 そう言われて、あの怪しい男が傍にいないことに気がついた。バンは直接護衛だから、いつ何時でもテキアと共にいるのが当然だ。魔物が襲撃してきたのならなおのことだった。

「ああ、すみません。置いてきてしまいました」

 顔を上げたテキアはシィラの方を見上げたようだった。あっさり告げられたが、それは実は大変なことではないか? ゼジッテリカは驚いてテキアとシィラを見比べる。

「バンさん……困ってらっしゃるでしょうね。きっとじきにこちらに気づくでしょうけれども。魔物も一旦退却したようですし」

 半分呆れたような、それでいて笑い出しそうな声を出したシィラは、つと空を見上げた。突として放たれた退却という言葉に、ゼジッテリカは喫驚する。ずいぶん静かだと思ったが、まさか魔物はいなくなっていたのか?

「ですが魔物はまたすぐにやってくるでしょうね。これだけ派手に暴れたのであれば、もう隠れている理由がありません」

 ついでシィラは頭を振った。ゼジッテリカの鼓動は跳ねた。屋敷の一部が壊され、護衛たちの状況もよくわかっていない。こんなところにまた魔物が攻めてきたら? 今度こそ終わりではないのか。

「テキア様、すぐにバンさんのところへ向かいましょう。この状況で、テキア様とリカ様が一緒にいるのは危険です」

 続くシィラの冷静な提案に、テキアはおもむろに立ち上がった。奇妙な沈黙が辺りに満ちる。テキアの神妙な眼差しに、ゼジッテリカは何故だか落ち着かない気持ちになった。空気がぴりぴりと張り詰めていく。

「あなたに任せろと、そういうことですか?」

「私はリカ様の直接護衛ですから。そう任命したのはテキア様です」

 ゼジッテリカがテキアを心配するように、テキアも心配してくれているのか。ゼジッテリカは口をつぐみ、腰からぶら下げた短剣に触れた。

 ゼジッテリカも、できればテキアと共にいたい。しかし標的が揃っているという状況が危険なことは、言われるまでもなく想像できた。テキアはバンに、ゼジッテリカはシィラに守ってもらうのが一番いい。

 ただしそれは、バンやシィラを信頼していなければ成り立たない。

「私の力は信用なりませんか?」

「いえ、そうは思っていません。ただこれは……私の我が侭ですね」

 ふっとテキアは相好を崩した。纏う気配も変わったように感じられた。ゼジッテリカは胸を撫で下ろす。この二人の間に不穏な空気が漂うのは見ていられない。

「我が侭ではないですよ」

 そうシィラが答えた時だった。再び向こう側の茂みが、がさりと音を立てて揺れた。はっとしたゼジッテリカが振り返ると、また見覚えのある男が顔を出す。

「バン殿」

 驚いた様子もなくテキアが振り返ったところを見ると、二人は気づいていたのだろうか? 『気』でわかっていたのか。

 バンは青い顔をしながらもこちらへと駆け寄ってきた。彼もそんな表情をすることがあるかと思うと不思議な気分になる。それだけ、テキアがいなくなったことは大事なのだ。

「テキア殿!」

「バン殿、すみません。勝手な行動をして」

「本当ですぞ。一体どういうつもりですか。さすがのわたくしも焦ります」

 ゆらりと長衣を揺らしながら駆けつけてきたバンは、足を止めて眼鏡の位置を正した。どうしてここがわかったのかとゼジッテリカは訝しく思ったが、もしかしたらテキアの行動を読んだのかもしれない。

「バンさん、テキア様を頼みますね。きっと間もなく魔物は動きます」

 そこでシィラが口を挟んだ。穏やかではあるが意思を感じさせる、凜とした声だった。バンとテキア、二人の視線がシイラへと注がれる。

「間もなくですか?」

「上で動きがあります。たぶん総攻撃でも仕掛けてくるつもりでしょう」

 夜の静寂に、不穏な言葉が染み入った。バンは眼を見開き、テキアは息を呑んだ。総攻撃という響きの実感が湧かずにゼジッテリカは自らの腕を抱きしめる。

 先ほどの襲撃よりも、さらにひどい戦闘が起こるというのか?

「まさか……」

「救世主の動きがないからでしょう。バンさんが魔物だったとしたら、どうします?」

「そうですな。――攻める立場となれば、今しかないと考えるでしょう。何らかの理由で救世主が動けないのなら、最大の好機です」

 空気が凍り付いた音が聞こえたような気がした。瞬きもできずにゼジッテリカは固唾を呑む。恐ろしすぎて、現実感が伴わなかった。しかし魔物が救世主を警戒しているのが本当なら、納得の流れだ。

「屋敷外の護衛は誰もが疲弊しています。疲れを見せていないのはアース殿くらいでしょう。屋敷の一部も壊されいる今なら、隙を突くことも可能かと。――奴らの言うレーナが動かないのならば、今しかありません」

 バンはふっと笑った。と、テキアが怪訝そうに顔をしかめるのが見えた。ゼジッテリカはまた短剣に触れる。不意に吹き荒れた風が、彼らの髪と衣服を揺らして音を立てた。

「レーナ?」

「先ほど殺された魔物が口走っていました。救世主の名前のようです」

 バンは大きく首を縦に振った。魔物が救世主の名前を知っているというのも驚きだ。レーナというのも魔物の名前なのだろうか? やはり噂の通り仲違いなのか?

「そうでしたか。魔物の間では有名なのでしょうかね」

「さぁ、魔物なのかどうかもわかりませんな。ともあれ彼らがあぶり出そうとした救世主はどうやら今はいないようです。少なくとも動かないようですので、期待してはいけませんな」

 ひらひらとバンは袖を振る。頷いたテキアの手が、そっとゼジッテリカの肩を叩いた。まるで心配するなと言われているようで、急に泣きたくなってくる。いつもゼジッテリカは心配をかけてばかりだ。

「そうですね、私たちの力だけで何とかしなければなりません」

 会話が途絶えたところでシィラは首肯した。当たり前の、それでいて重い現実が、ゼジッテリカの耳に強く残った。




 黒い煙がくすぶる中、アースはひたすら剣を振るっていた。落ち着いたと思った魔物の襲撃は、突然再開した。彼らは音もなく前触れもなく、集団で上空に現れた。

「冗談じゃないな」

 思わず文句を口にしてしまうのも致し方ないことだろう。他の護衛たちや依頼人が無事であるかを気にかけている暇もない。この状況では空を飛ぶのも危険だった。

 仕方なく、地上で魔物を待ち受けることになる。今はひたすら目の前にいる敵を打ち倒すことのみに集中しなければならない。

 地に降りた魔物は実に色とりどりだった。いきなり屋敷に突撃してこないのは、まだ救世主の動きを恐れているせいかもしれない。日も落ち、夜の気配が色濃くなっている。救世主が動き出す時間が近づいているとも考えられる。

「もう、何なのよこの数は!」

 と、右手からマラーヤの悲鳴じみた叫びが聞こえてきた。これだけの魔物を見てしまえば戦意喪失するのが普通だが、彼女は違うらしい。そうならないだけましだが、どれほど戦力として数えてよいのかアースには判断しかねた。

 とにかく相手の数が多い。これだけの魔物を動かせるとなると、今回の首謀者は相当高位のものに違いなかった。前代未聞の規模だ。

「とにかく目の前の奴を倒せっ」

 仕方なく声を張り上げながら、アースは迫ってきた黒い獣を切り捨てた。耳障りな断末魔の悲鳴が上がり、鮮血が頬をぬらす。

 長剣の血をふるい落とし、アースは瞳をすがめた。切れ味の衰えないこの得物があるからまだましだが、皆がそうとは限らないだろう。長期戦になればこちらが不利なのは明白だ。

 刹那、地を揺るがす轟音が響き渡った。片膝をついたアースは、焦げ臭い煙の中を素早く見回す。

 炎系の光弾でも落ちたのか? 左手から上がった炎が、強い風を受けて灯火のように揺れていた。その下では魔物のものとおぼしき、銀色の髪が地面へと広がっている。かすかに聞こえる呻き声から、死にかけていることは明らかだった。

「仲間割れか……?」

 アースは顔をしかめた。今のは地上から放たれた攻撃ではない、上から降り注いできたものだ。気の動きでわかる。しかし上空に普通の技使いがいるはずがなかった。そんなところに突っ込むなど、魔物の巣に飛び込んでいるようなものだ。

 ならばやはり魔物の中に派閥争いでもあるのか。それとも無差別攻撃なのか。どちらにせよ奇妙なことだった。

「まさか救世主か?」

 首を捻りつつ、アースは迫り来る水色の光弾を結界で弾き返した。空に向けてだ。普段なら相手に向かって跳ね返してやるところだが、どこに護衛がいるかわからない現状ではそれも難しい。

 舌打ちしたアースは立ち上がり、剣を横薙ぎにした。それは左手へ突き進もうとしていた光の帯を一刀両断する。

 気を探る暇もないため、誰が無事なのかも定かではない。ほぼ反射的に攻撃をいなし、魔物を殺すしかなかった。

「近寄るなっ」

 怒声を上げながらアースはまた剣を振るう。切羽詰まった状況で、こちらへと近づいてくる何者かの気配があった。人間だとは思うが、ここで接近されるのはまずい。自由に動けなくなる。

「アースさんっ」

 すると声がした。聞き覚えがある。おそらくシェルダだ。アースは振り返ることなく、頭上から落ちてくる白い帯を一刀両断する。技を切り裂くとき特有の耳障りな高音が、空気を震わせた。

「煙が濃すぎてまずいです。負傷者が巻き込まれています」

「うるさい、お前がなんとかしろ。こっちはそれどころじゃないんだ」

 ちらと横目で見れば、黒い煙の向こうで金髪が揺れていた。やはりシェルダだ。わざわざこちらまで走り寄ってくるとは、一体何のつもりなのか。ここが一番混戦していることは傍目にも明らかだろうに。

「それはそうなんですが。またバンさんがテキア様を見失いそうだと」

「はぁ……?」

 剣を構えつつ、アースは眉をひそめた。バンは先ほどゼジッテリカのもとへと向かっていったはずだが、合流できていたのか。――しかしまた見失いそうというのは実に馬鹿げている。

「役立たずめ」

 これだから頼りにならない。つい、長らく行動を共にしていた仲間たちがいればと考えてしまう。魔物絡みの依頼は嫌だと言って別件を受けた者、以前からの依頼の方を義理立てた者。ここに彼らがいれば、このような体たらくはなかったかもしれない。

「そう言わないでください。テキア様は気を隠していらっしゃいますから、この煙では」

「ならお前が風でも使って煙をはらせ」

 だが全て今さらのことだ。とにかくやれるだけのことをやるしかない。テキアを守るのはバンの務めなのだから、任せるより詮無いだろう。

 それにアースは広範囲の技はそれほど得意ではない。煙をどうにかするならば、シェルダの方がうってつけだった。こういった場合も適材適所が基本だ。

「あーもうシェルダさんそんなこといいから! 早く動いて! 敵! 魔物!」

 と、煙の向こうからマラーヤの悲鳴じみた叫びが聞こえた。確かに、呑気にお喋りをしている余裕はない。

 アースは左肩を回して嘆息すると、また長剣を振るった。全身に広がる気怠さには、あえて意識を向けなかった。

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