2-4 信心の行方

 軍部の食堂には、いつも決まった時間に軍人たちが怒涛のように押し寄せる。そして決まった時間に、さっと波がひいていくのだ。彼らが時間に忠実に動いている証拠といえた。それに、早く動かなければ体を清める時間も自由時間も短くなってしまう。彼らにとっては、三度の飯と同じくらい大事な問題だった。

 キリクはそこまで自由時間に執着するたちではない。だからと言って食堂に長居する理由もないので、いつも早めに引きあげる。けれども、この日はぎりぎりまでとどまって、麦粥をすすっていた。いろいろ考えこんでいるうちに、時間ばかり経って飯が減らなかったのだ。ふと顔を上げたとき、いつの間にか食堂が静かになっていたことに気づき、慌てて退室した。

 考えていたのはもちろん、先ほどの会議と、中隊の裏の顔のことである。ラフィア、セルフィラ、教会に女神の中隊。おそらくは、警備中に不審者と揉みあわなければ知ることもなかったであろうことばかりだ。

 キリクは目を細めて、頭を押さえる。隊長に教えてもらったこととは別に、アーサー公の言葉が、いつまでもこだまして消えてくれない。

『君ならば、思い当たる節があるのではないか?』

 キリクが司祭の次男だと知っているような口ぶりだった。いや、事実、知っているのだろう。公は仰っていたではないか。自分の方から呼び出した、と。キリクが教会やラフェイリアス教と縁が深い人間だからこそ、あの場に呼び出したに決まっている。

 ひょっとしたら、皇室師団に転属させられたことじたい――そこまで考えて、キリクは舌打ちした。

「なん……だよ、それ。ここまできて、また女神さまか。ふざけんな」

 思わず吐き捨ててしまってから、かぶりを振る。かたい床を、軍靴のつま先で蹴った。

「ただの、やつあたりだよな。そんなの」

 頬は嘲笑にひきつった。胸が、ちくりと痛む。夜へ向かっているからか、ひとけのない廊下は、やけに暗く感じられた。


 兄が教会を継ぐことじたいは、なんら問題ではなかった。問題だったのは、キリクが聖職に就かなかったことだ。

 ラフェイリアス教会の聖職者の子として生まれたものは、なにか教会の仕事を受けもつことが通例だった。彼がそれを破ったのは、単純に宗教というものになじめなかったからだ。

 彼にとって、教会は狭い牢獄だった。だから、逃げだしたかった。それだけの理由でも、親の反対を押し切って帝都に飛び出す理由としては十分な気がしたのだ。

 一年してからようやく両親と和解して、しがらみから抜けだせた。その矢先、軍のなかで知らされた真実は、少年の心の殻に容赦なくひびを入れた。

 怒りはふつふつと殻の隙間から吹き出してくる。けれども、それを誰にぶつけることもかなわない。自分の中で落とし所を見つけるしかないのだ。

 凝り、煮え立つ感情を持て余した少年は、あえて足音をさせて廊下を進む。だが、間もなく、誰かとぶつかった。一瞬の衝撃によろめいた彼は、踏みだした右足に慌てて力をこめた。謝ろうと口を開きかけたが、相手がそれをさえぎった。

「うわ、キリク?」

 覚えのある声に名前を呼ばれ、キリクは息をのんだ。熱を帯びていた頭が、一気に冷えてゆく。

「……クリス」

「どうしたんだ? 何かあったか」

 愛嬌のある丸い瞳が、少年をまっすぐに見おろしてくる。気を削がれたキリクは、「いや、なんでも」と力なく頭を振った。一言謝ってから、こんなところでどうしたのかと訊いてみると、クリストファーは髪の毛をいじくりながら笑った。

「いや、そろそろお風呂があくから、キリクを呼んできてって頼まれて」

「は? 誰に」

「坊主頭の奴」

「シモンか……」

 同部屋の少年の顔を思い浮かべて、こめかみをつつく。それからキリクは、クリストファーの後に続いた。


 お風呂の時間があるのは三日に一度だ。湯船に浸かることはまずない。体を流して少しふくだけで終わってしまうが、それだけでもずいぶん違うと兵士たちには歓迎されている。さすがのキリクも、このときばかりはすなおに喜んだ。今日はいろいろありすぎたのだ。ぬるま湯でもいいから体を流して落ちつきたかった。

 ほかの兵士たちに混じり、男たちの熱気のなかで体を洗い終えた新兵たちは、先輩が怒鳴りこんでくる前に、と、足早に浴室を出る。ここまでは、ありふれた軍隊の日常風景だった。

 キリクとクリストファーがふつうでない光景に遭遇したのは、再び軍服に袖を通し、独身寮に向かう途中のことだった。

 皇室師団本部の正面入り口。かつてヴィナードと出会ったそこに、人だかりができていた。士官以上の軍人ばかりが集まって、険しい顔で何事か言い合っている。出入りも激しく、低い天井にばたばたと足音が反響していた。はりつめた空気のなか、少年二人は顔を見合わせたが、人垣の外側に見知った背中を見つけると、クリストファーの方が駆けだした。

「あ、おい、クリス!」

 キリクは慌てて叫んだが、遅かった。

「隊長、何かあったんですか?」

 人々の背中をにらんでいたステラが、弾かれたように振り返る。クリストファーの赤毛を認めると、彼女はあからさまに顔をしかめた。新兵たちを追い払うように、手を振る。

「少しね、帝都の方で騒ぎがあったの。あなたたちが出ることじゃないわ。戻ってなさい」

「え、でも」

「戻っていなさい」

 クリストファーは珍しく食い下がったが、改めて命令口調で言われると、青ざめた顔でうなずいた。ようやっと追いついたキリクも、敬礼のかわりに頭を下げて、踵を返そうとした。

 彼が完全に体を返したその瞬間――耳もとに、やわらかな風とささやきの声が吹きこんだ。


「あの男、死んだの」


 一言。

 たった一言が、少年を凍りつかせた。


 キリクは立ち止まった。寒気がする。背筋に氷柱をさしこまれたかのように。ステラの顔は見ない。振り返るのすら、恐ろしかった。

 言葉をのみこむ余裕さえない少年に、中尉はさらなる事実を突きつける。

「警察の独房で、自害したらしいわ」

 上官の声が胸を打ちすえ、繰り返しこだまする。

 自害。つまり、自分で自分の命を絶った。そんな決断を下すほどに、彼にはなにか強い思いがあったのか。それとも、セルフィラ信仰に何かを狂わされたのか。いくつもの思考が、頭の中で渦巻いて、彼の自我を凍らせた。キリクを引き戻したのは、同期の少年の、鋭い声だった。名前を呼ばれて、キリクが顔を上げると、クリストファーが心配そうに瞳をのぞきこんできていた。

「キリクってば、どうしたんだよ、ぼうっとして。怒られる前に早く戻ろうぜ」

「あ、ああ……」

 キリクは、ぼんやりしたまま、うなずいた。クリストファーは彼の手をひいて、足早に歩き出した。同期の一等兵が心配なのも、ステラ・イルフォードが怖いのも、本心なのだろう。背を丸めているクリストファーにキリクは苦笑したが、冷えきった胸のうちは、簡単には温まらない。

 やっと、去り際にステラを振り返る。美しく伸びた背中からはなんの感情も読みとれなかった。しかし、その立ち姿は、ひどく痛ましかった。


 結局、騒ぎは消灯時間になってもおさまらなかったらしい。兵士たちの間ではさまざまな憶測が飛び交ったが、なんにせよ、真実を知るのはひとにぎりの人間のみである。

 キリクは、寝台に寝転がったままため息をついた。明日になれば事後処理をせねばならない。警察への追及も始まって、ディーリア中隊の古参兵たちは忙殺されるに違いない。実情を知る一人として、上官たち――特に我が中隊の隊長――に同情せずにはいられなかった。

 少年たちの挨拶を最後に、部屋からはいっさいの音が消える。明かりも消されて、月光と、遠く街の明かりだけが、夜を照らしている。

 キリクは目を閉じ、何度も寝がえりを打った。今日はいろいろありすぎた。ふつうなら、沼に沈むがごとく眠りに落ちるはずだ。しかし、いつまで経っても眠気の波は寄せてこなかった。

 いくらかの時が過ぎた頃。キリクはため息とともに目を開く。周囲からは三人分の寝息が聞こえてきた。うつぶせのまま頬杖をつき、ほのかに明るい窓の外をながめていた少年は、ふと、あるものに気づいて、上半身を起こした。

 枕元に置いてある、小さな写本。題名の金色が、薄明かりを反射して、己を主張している。――母が「せめてこれだけは」とキリクに持たせた、ラフェイリアス教の聖典の小型本だった。一応持ってきたものの、慌ただしい軍隊生活の中で存在を忘れ、敷布の一部となりかけていた。

 キリクは、一年半ぶりに写本を手に取った。上等な装丁をなでてから、開く。古びた紙のにおいが立ちのぼって、少しだけ心を落ちつかせてくれた。

 ページをめくる。わずかな明かりを頼りに、幼い頃から何度も教えこまれた文言を目で追ってゆく。キリクはいつも、他人事のようにそれらをながめていた。けれど、今は、己のものでもなく、他人事でもない、何かとても大事な言葉のように思えた。


『汝ら、慈悲と正義の心をもって、祈りを捧げよ』


 聖典の途中に書かれた一文に、明るい色の瞳が縫い止められる。顔を上げ、一文をそらんじた少年は、音もなく嗤った。

「正義、か……」

 呟きに応じる者はいない。キリクはため息をのみこんで、またページをめくりはじめた。

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