セーラー服魔女 姫里

雨猫

第一章

1-1

 白昼にもかかわらず、住宅街は無人に見えた。

 授業を終えた星谷姫里ほしやひさとは、姿勢よく、規則的な足取りで自宅へ向かった。人の声がない。鳥も鳴かない。地味なデザインタイルの敷かれた歩道に差す街路樹の影は、震えもしない。車の通りも途絶えていた。緩い上り坂だ。姫里は息を乱さず歩いた。家は坂の終わりにある。

 黒い鉄柵の門扉をあけ、玄関の前で、セーラー服のスカートのポケットに手を入れた。

 ドアの脇に置かれている、ホコリまみれの鉢植えが目に入った。ドラセナの鉢がずれている。コンクリートに黒く湿った三日月型の跡があった。

 星谷家には、ここに鍵を隠す習慣はない。

 鞄のショルダーベルトを握りしめ、通りを振り返った。

 相変わらず人影がない。

 星谷姫里は十五歳の高校一年生、色白、黒髪の美少女だ。学校ではクールぶって、無表情で過ごすことが多かった。笑う時でさえ、唇に全世界を軽蔑するような、ひねり、がある。

 今は、おびえた顔をしていた。大きな目いっぱいに不安を浮かべていた。

 鉢植えのずれ。なんでもない出来事なのに、胸騒ぎを覚えていた。

 改めてスカートのポケットから鍵を取り出す。ドアを開けた。

 屋内から吹きつけてきた空気が生温く感じられる。体臭めいた匂いを嗅ぎとった。

「ただいま」

 この時間、母親はいない。普段はそんなことをいわない。

 声は、虚ろに響いた。

 家の奥から、床のきしむ音でも聞こえたら、すぐに家から離れたろう。そんな音はしなかった。

 家に上がった。自分の部屋へ行かずに、リビングのドアを開けた。

 体臭を含んだ空気が、また顔にあたった。

 身体が固まった。リビング、キッチン、人の気配はない。あちこちに目をやる。おずおずとリビングに入った。

 唐突に電話が鳴る。

「ぎゃっ」と悲鳴を上げ、ソファの背もたれにしがみついた。

 そのまま様子をうかがう。

 なにもない。電話は鳴り続ける。

 疲労したみたいにのろのろ立ち上がり、電話を見下ろした。ディスプレイに母親の携帯番号が表示されている。

 姫里は受話器をとった。「もしもし」

『姫里?』

「そうだよ」

『あのね、良く聞いて。落ち着いて聞いてね』

 母親の声は、少し慌てていた。

「落ち着いてるよ、わたしはね」

 さっきまでのおびえが消え去り、姫里はいつもの皮肉めいた笑みを浮かべた。「どうかした?」

『お母さんね、誘拐されちゃった』

「は?」

『車に乗せられて、いま、高原台のお屋敷にいるから。お店のほうはね、さっきカコちゃんに電話してクローズしてもらったから大丈夫。心配しないで』

 お店、というのは母親が経営しているレストランだ。

 カコちゃんはそこの従業員である。

「お、お、お店のことなんか心配してないよ!」

『姫里、姫里。落ち着いて。それでね、わかってると思うけど……』

「誘拐?」

『姫里、いいから聞いて。わかってると思うけど、警察にだけは連絡しちゃ駄目』

「わかってるよ!」

『姫里、しっかりして。泣いちゃ駄目』

「泣いてないってば!」と、手のひらで涙をぬぐう。「どこで誘拐されたの?」

『お店の駐車場。大丈夫?』

「こっちの台詞だよ! これって、身代金ってこと?」

『ううん。違うみたい。いい、簡単なことだから。姫里、聞いてる?』

「聞いてる」

『おばあちゃんのお仏壇の引き出しにね、たぶん、一番上の引き出しに、十センチ四方くらいの木箱があるはず。わかる?』

「わかる。お仏壇の、一番上の引き出し、十センチの木箱」

『それを持って外に出て。黒い外車が止まってるから、それに乗って』

「わかった」

『大人しくしてれば乱暴はされない。車の行き先は、高原台のお屋敷のはず。姫里、やれるよね?』

「やれる。もちろん」

 通話が切れた。おそらく、携帯を奪われたのだ。

 姫里はもういちど涙をぬぐう。急いで日本間へ向かい、スリッパを脱ぎ散らかして飛びこんだ。

 祖母の仏壇は、九十センチほどの小箪笥の上に安置されている。

 手をあわせてから、小箪笥の一番上の引き出しを引いた。樟脳臭い布地や、丸められた障子紙、お線香やロウソクなどともに、小さな木箱があった。

 木箱を畳に置き、リビングへ戻った。

 学生鞄を持って、今度は階段を駆けあがる。自室のベッドに鞄を投げ、クロゼットを素早く開いて、こんな時のためのバッグを引ったくると、けたたましい音を立てて階段を下りた。

 そのまま玄関へいきかけたが、すぐに日本間へ引き返す。

 置きっぱなしの木箱を手に取った。木箱を耳に近づけて振ってみる。軽い音がした。

 木箱をバッグに入れる。

 深呼吸してから、今度は歩いて玄関へいった。靴を履き、ドアを開け、外に出て、鍵をかける。

 門のほうへ目を向けると、黒い車が駐車されていた。

 礼装の、真っ白な髪をした老人が品よく立っている。


 姫里は、誰かの下心、というものが好きだ。それを見抜くと安心する。かれが、我が身の安全を気にしているのか、それとも我が身の欲望をかなえたいのか。それが見透かせれば、姫里はやっと薄笑いを浮かべるし、軽蔑を目に宿らせて、無言で相手を責められる。

 相手のことを見透かすのは得意だったはずだ。

 それがここ一番で失敗するとは、どういうことだろう。

「草上と申します」老人は名乗り、高級外車の後部座席のドアを開けた。

 微笑をふりまいている。

 犯罪者が犯罪を行なう時、もっと焦燥に駆られているものではないのか。

 老人はニコニコ笑って、姫里を促すのだ。なにも見透かせない。

「いきましょう。お母様がお待ちです」

 姫里はバッグを抱き、後部座席に座った。ドアが静かに閉じられる。家の中で嗅いだのと同じ匂いがあった。

 助手席に、女がいた。煙草を吸っていた。体臭じゃなかった。この匂いだ。

 女が振り向いた。「いわれたもの、持ってきたのか?」

 不機嫌そうな、低い声だった。

 姫里はバッグを抱き締めた。

 二十四、五歳、外国人の女性だ。肌が浅黒い。まぶたは眠そうで、瞳が冷たく光っている。目の閉じ加減に、余裕がある。眉は少年っぽく凛々しい。ショートカット、前髪のひと房が垂れ下がって、短い顎のあたりに毛先が触れている。丈の短い杢グレーのTシャツを着ていて、下は色褪せたデニムだ。

「ビクビクすんな。いわれた通りにしてりゃ、どうってことねぇ」

 姫里はいっそうビクついた。

 女の声が低くて、恐しかった。

「参りましょう」

 草上と名乗った老人が運転席につく。車は、ゆっくりと発車した。

 高級外車は、住宅街を抜ける。

 住宅地の侵食をまぬがれたことで、取り残されたような印象を与える田園地帯がある。水田がキラキラと日差しを反射していた。国道を横切る。高速道路の高架をくぐる。道は狭くなる。緩い登りになった。高原台、と呼ばれる月夜市の山の手に向かうのだ。道はカーブが多く、森に視界がさえぎられて見通しが悪い。

 道を登りきると、景色は一変する。野放図に繁っていた森は消え失せて、残された木々と草花は、区画におさめられ、統制され、美しく刈りこまれている。日を燦々と浴びながら、雑然とした月夜市の町並みを睥睨する、ここが高級住宅地・高原台だ。

 ひときわ目立つ西洋建築がある。市民が「お屋敷」と呼ぶ白い洋館だ。駅のホームからも、姫里の家からもよく見える。夜になっても灯りがともることはめったにない。謎の多い館なのだ。外国の富豪の別邸、という話を姫里は聞いたことがある。

 お屋敷は、要塞めいた高さの、ベージュ色の塀に囲まれていた。

 草上さんが車を停車させた。威圧感のある鉄扉が、電動で開いていく。

 庭が広大だったせいだろう、目に入ってきたお屋敷は予想より小さく見えた。


 そうではなかった。全然違う。近づけば、その大きさは圧倒的だった。日本のサイズを越えたスケールだ。城みたいだ。外壁が高すぎて、アーチ型の玄関を押しつぶしそうに見える。

「そのままで結構です」

 と、案内された。土足でいいらしい。

 邸内は薄暗かった。窓が小さい。教会のような雰囲気があった。

 姫里は草上老人の小さい背中に続いた。後ろから、浅黒い肌の女がついてくる。足音は、赤いカーペットに吸われて響かない。

 廊下のつきあたりのドアを、草上さんが開けて、かしこまった。

「どうぞ。お飲み物を持ってまいります」

「入れ」背後の女がいう。

 広い部屋ではない。大きめの窓があり、こじんまりした感じのテーブルがあり、豪華なソファが一組置いてある。瀟洒な応接間、といったところ。

 姫里は、ドアに近いほうのソファに、浅く腰掛けた。

 女はぞんざいな動作で、向かいに腰を下ろす。ブーツカット・デニムの長い足を組んだ。「質問なんかすんなよ。わたしが許すまで口を閉じてろ」

 中東や、インドの人らしく見えた。美人といえる。日本語は完璧だ。

 まつげで翳った瞳でこちらを見ている。威圧感があった。

 姫里はやすやすと屈服した。

 自分のことを骨のある女、と思っていた。そうでもなかったらしい。

 目の前の女が発している雰囲気は、日常でたまに感じる険悪さと質が違う。得体の知れない感じがある。

 学校での姫里は、冷たい壁を作り、誰とも親密にならないようにしてきた。どちらかといえば、相手を威圧する側であり、機嫌をとってもらう側だった。

 今は、女の顔を直視できない。

「わたしは、ヤモリ女っていうんだ」

 女が唐突にいった時は、さすがにその顔を見た。

「ヤモリ、女、だ」

「わたしは——」

「ヒサトだろ。知ってるよ」

 姫里は横を向いた。肩に頬をすりつけるようにして、流れてきた涙をぬぐう。目の前の女の、鉄色の瞳が怖かった。瞳に宿るのは、暴力の気配と、姫里を値踏みする心底からの軽蔑の光だ。それが怖い。姫里は見透かされている。虚勢で隠してきた本当の自分、ちっぽけな自分がいま、女の前にあらわになっている。

 自称ヤモリ女は舌打ちした。

「泣き虫」

 草上さんが戻ってきた。姫里の前にアイスティーのグラスを置く。

 草上さんはソファの後ろに回り、ヤモリ女の背後に直立した。

「じゃあ始めるか」ヤモリ女が膝を叩き、身を乗り出す。「例の物を出せ」

 母親のいっていた、木箱のことに違いない。

 姫里はバッグから木箱を取り出して、テーブルに置いた。女のほうへ滑らせる。

 浅黒い肌の女は、木箱に目もくれない。

「ちょいと事情があってな。ミサさんをここへ招待した」

 星谷ミサ、は姫里の母親の名前である。

「その事情ってのが、だいぶややこしい。わたしは説明が下手だし、まぁ、お前とわたしで協力しあって、話を進めていこうってわけだ。お前が集中して話を理解してくれれば、そう長くはかからない」

 はい、とはいいたくなかった。

 姫里はうなずいた。泣いたせいか、しゃっくりが出た。

「飲めよ。毒は入ってない」

 女がアイスティーを顎で指す。

 姫里は、首を横に振った。

「遠慮すんな。力を抜け。いいか? まずはおまえだ。おまえはこれまでの人生、自分のことずっと普通だと思ってたろ。普通の子供時代、普通の小学生・中学生時代、そして今は普通の高校生の、平凡な毎日か。それな、大間違いだ。お前は普通の高校生じゃない。おまえのお袋さん、ミサさんな。彼女が早いうちに、教えておくべきだったんだ。ミサさんはおまえに隠していた。おまえの秘密を」

「ミサ様はあなたを守ろうとなさったのです」草上さんがいう。

 姫里は振り返ってドアを見る。また目を戻した。

「お母さんに会わせてください」

 ヤモリ女は身を乗り出す。

「大事な話だから聞け。おまえは普通じゃない。おまえは人間ですらない。それに気づかなきゃいけない時が来た。おまえが目覚める時がきたってわけだ」

「姫里さま、あなたには特別な才能がおありなのです」

「やめてください」姫里は怒鳴った。「なんなんですか? お母さんに会わせて!」

「びーびー泣いてんじゃねぇ」ヤモリ女がいう。「まぁしかし。きゅうにこんな話されても困るわな。論より証拠だよ。こいつを手に握ってみろ」

 ヤモリ女はおもむろに木箱を手にとった。蓋を開け、中身を姫里の前に置いた。

 ピンセットだ。銀色のピンセット。姫里はピンセットをつまみ上げた。

 女は、背中を背もたれに戻した。眠そうなまぶたで、こちらを見ている。

「そいつを握ってこう言うんだ。『ノートルダム』。なんのことかと思うだろう。合言葉だよ。おまえがそれを唱えれば、魔法としかいいようのないことが起こるはずだ」

「なにが起こるんですか?」

「なんだっけ?」

 草上さんが答える。「危険なことはございません。そのピンセットが杖に変化するはずです。星谷の家のおばあ様が残された、魔法の杖なのです。ミサ様によれば、杖の名前はカジモド。合言葉は『ノートルダム』、とのこと。唱えてみれば、わたくしどものいいたいことが少しはご理解いただけるはず」

「マホウ? なんですか? ……魔法?」

「唱えろよ」黒い肌の女は薄笑いを浮かべる。「結果を見ようじゃねぇか」

「唱えれば、お母さんを返してくれますか?」

「まずはお試しください」草上さんは、にこやかな表情だ。

「今、ここにお母さんを連れてきてください」

「駄目だ」ヤモリ女がいう。「おまえが、自分のことを完全に理解するまでは、会わせられない。いいから唱えろ」

「お母さんを返してください」

「駄目だ。とっとと唱えろ」

「お母さんは本当にこのお屋敷にいるんですか?」

「ああ、ちゃんといる。この部屋の真上で、屋敷の主人と仲良くお茶してるよ」

「そうですか」

 姫里は立ち上がった。ピンセットを、部屋の隅に投げつける。流れるような動作で、額に手をやり、前髪を留めていたヘアピンを引き抜く。優等生らしい額に、前髪が散りかかった。

 ヤモリ女と老人は、投げ捨てたピンセットの行方に目をやっている。

 姫里はバッグからゴーグル付きの防塵マスクを取り出し、素早くかぶった。ガスマスクと違い、防塵マスクは、かさばらない上に、値段が安い。アマゾンで買える。

 さらに発煙筒を取り出し、マッチをする要領で蓋の裏のザラ紙で火をつけ、床に転がした。突如煙を噴きだした発煙筒を見て、褐色肌の女は、飛び上がった。草上さんを押し倒して、ソファの後ろに隠れる。姫里はかまわず、前髪をとめていたヘアピンを見つめた。

「ノートルダム」姫里は唱えた。

 ヘアピンだった物は、むくむくと動き出し、太くなり、長くなって、木製の、古びた杖に変化する。

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