遙河アズマは魔術師じゃない

普楽八十八

思索の太陽は沈まない

夕陽が沈もうとしていた。

夜の帳が、理科準備室の本棚を、デスクに置かれたフラスコを、オブジェと化して長らくたったナウマンゾウの牙の標本を包んでいく。

闇が世界を包むまで、そう長くはかからないだろう。だが、朝が来ればまた日が昇り、世界は新たな運行を始める。

夜の静寂は、時として世界の死に例えられる。しかし、夜が死に絶えた世界などとは夢にも思ってはならない。夜こそ生きるものがいるのだ。何も俺は吸血鬼やら幽霊のことを言っているわけではない。我々研究者にとっては、夜こそ思索が進む時なのだ。アタマが回転するこの感覚こそ、生きている証だと俺は思う。


アルコールランプに火を灯し、お湯を沸かし始める。どうもいかん。恩師から譲り受けたデータと今夜もにらめっこになりそうだ。俺を世話してくれた西塔さいとう先生は、大学院を出るときに俺にこう言ってこの書類の山を託した。


遥河はるか君、研究を続けたいなら在野でやってみたまえ。真の学問は、世界のどこにいたってできるものなんだ。」

西塔先生は、そう言って葉巻に火をつけた。

「私はいま、君の修了と時を同じくして退官する。

君には、次に会う時までの宿題を出しておこう。この書類のデータは、私の研究の骨子をなすものだ。」

ゆっくりと煙を吐く西塔先生。まるで昨日のように思い出せる。

伊那いなの高校で教鞭を執ることになった君に、次に会えるのは何年先になるかわからない。しかし、それまでに私の発表した理論に基づいて一本論文を書いてみたまえ。」

そこで少し言葉を切ってから、先生はこう続けた。

「私には君の中に希望が見える。君には理科学の根幹の全てを教えたつもりだ。どうか、未来へ向けて大きく羽ばたいてほしい。」


グラグラとビーカーから気泡が上がっているのに気がつき、俺はアルコールランプを消した。

申し訳ありません、先生。あれから十年経ちますが、未だにデータはアタマの中で踊っているだけで、何もまとまりません。

卵をビーカーの中にそっと落とす。

こうしておけば、温泉卵が出来上がる頃にはお湯がちょうど冷めてきて、インスタントコーヒーを入れるのにちょうどいい温度になるというわけだ。


壁にそっと目を見やる。絵の一つもかけてあれば少しは華になっていただろう。しかしながら、かけてある額にはただ一枚、証書が入っているだけである。

曰く「遥河アズマ殿 貴殿を理科学修士と認める。 昭和四十一年三月二十日」


遥河アズマ。それが俺の名だ。太平洋戦争後、日本の学制が改まって修士という学位が出来た。同門の学友は、大学で職を得たり、博士になって何冊も本を出した者もいる。けれども、そうした華々しい経歴は俺にはない。俺は高校の教員となったが、これで十分なのだ。伊那、白馬はくばと赴任先が移り、今は長野市にいる。しかしまあ、西塔先生はあの時俺を買い被っておられたことは否めないと思う。


俺は書類の中から一枚の地図を取り出す。

この十年間、何百回となく眺めてきた地図。他ならない、長野県の北にある野尻湖周辺の地図だ。ナウマンゾウやオオツノジカの骨が塚となって見つかっているポイントが、西塔先生から託された発掘データに基づいて記入されている。

だが、わからない。

西塔先生の論文を全て読み返してみても、地図を何度データと照合させても、何も浮かび上がってはこない。


卵をビーカーから出してインスタントコーヒーの粉をカップに入れ、お湯を入れようとしたその時だった。

夜の帳と俺の思索とを破る、かすかな音がドアから聞こえた。


ノックの音に他ならない。

嫌な予感がする。

夏の陽は長い。あたりが薄暗いということは、もうそれなりの時間である。

ポケットから懐中時計を取り出す。

長針は三十を、短針は七と八の間を指していた。


「セーンセ!」

ドアの向こうから、ハスキーだが弾んだ声が聞こえてきた。

やはりお前か。

鷹原たかはらか。今日も下校時刻無視だな。」

「先生だって、職員会議が終わってるのに帰らないじゃない」

ビーカーのお湯をカップにゆっくり注ぎながら、俺は応える。

「俺はいいんだよ。教員だから。君は生徒なんだから帰れ。」

「スライド見たらすぐ帰るよ。」

「つまりは?」

「見せてくれるまで絶対帰らない。」

「言うと思ったよ。まあ、入れ。」

「はーい。」

ガラガラと音を立てて、理科準備室の引き戸が開く。全く、今日も研究は進みそうにない。

「うわ、相変わらず暗いのが好きなのねえ。灯りくらいつけなさいよ。」

入ってきた女子生徒は開口一番そう言って、部屋の電灯のスイッチを入れた。

「読書灯で十分だ。明るすぎると思索がアタマから逃げる。」

カップのコーヒーを一口すすって、俺は言葉を続けた。

「君こそその髪を束ねたらどうだ。長すぎるぞ。風紀委員がよく黙っているな。」

「あたしは特別なのよ。」

どう特別なのか、聞いてみたいところだ。

「それで、今日はどのスライドにする?」

大きな目を、まるで星雲がいくつも入ってるんじゃないかとばかりに輝かせながら、この女子生徒は尋ねる。

「何でもお好きなものを。そもそも俺には決定権はないだろう。」

「解説してくれるのはセンセじゃない。今日はセンセが選んでいいわよ。」

「そいつは寛大なことで。」


鷹原ユウリ。それがこの女子生徒の名前だ。俺は生徒の名前と顔とを頭の中で中々合致させられないという教員としては欠点となるアタマをしているのだが、こいつの顔と名前は授業初日に覚えた。いや、強制的に覚えさせられたというべきだろう。誰にでも苦手なものはある。俺はこいつに初めて会ったときのことを決して忘れはしない。

デスクから立ちかがり、部屋の脇に転がっているダンボールを小脇に抱えて俺は鷹原の方を向き直った。

「では、お嬢さん。こうしよう。俺はこのダンボールを選ぶ。君はこの中から見たいスライドを選べ。」

「結局あたしに選ばせるのね。」

「何か問題でも? それとも何も見ずに今日は帰るか?」

「センセったら、本当に何にも選びたがらないわよね。この優柔不断男!」

「俺が選ぶのは昼飯の献立と給料の使い方くらいでいい。」

「そんなんだから未だに独身なのよ。」

「ほっとけ。家庭よりも俺には研究の方があってる。」

「ねえ、センセ。ホントにそろそろ真剣にお嫁さんもらうこと考えた方がいいわよ。いつまでも若くないんだから。みんなセンセのことなんて呼んでるか知ってる? 魔術師よ、魔術師。一生研究に没頭してそれで何がつかめるの?」

「大きなお世話だな。それに生徒が俺をなんと呼ぼうが俺には関係がない。第一、俺は魔法なんぞ使えん。」

ダンボールをデスクの上に置くと、俺は温泉卵を手に取った。棚から茶碗を取り出し、卵を割って入れる。ふむ。どうやら少し固く煮過ぎたようだ。転がっている食卓塩の小瓶を手に取り、蓋を取ってふりかける。

「またそんなものばっかり食べて。コーヒーも飲み過ぎ。偏ったものばっかり食べてるとカラダに悪いわよ。」

「言っただろうが。余計なお世話だと。俺はカフェインを摂らないと頭痛がするんだよ。それに温泉卵には微量の硫化水素が含まれている。血管がそれによって広がって、アタマの血行が良くなる。タンパク質も取れるしな。思索を巡らすときには俺はこうすると決めているんだ。」

「卵と間違えて、その懐中時計を煮ることにならなきゃいいんだけど。センセって、なんかに没入してる時は全然周りが見えなくなるから。」

「『プリンピキア』執筆中のニュートンか、俺は。」

温泉卵を飲み込むと、俺は残ったコーヒーを一気に煽る。

「それで、どのスライドにするんだ?」

「そうねえ。」

鷹原はダンボールの蓋を開くと、中から白い小箱をいくつか取り出した。小箱の蓋の文字を指先でなぞっていく。お気に召すものがなかったのか、更にいくつか小箱を取り出す鷹原。ようやく気に入ったのが見つかったのか、嬉々とした表情で俺にその小箱を差し出した。

「これにするわ。」

箱のラベルにはこう刻まれていた。S49 白馬にて。

「一昨年、俺がまだ白馬にいた頃のやつだな。」

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