その11 女神の告白

 外は夕暮れ時。

 きっとオレンジ色だ。


 けれど、ここは別世界。

 ナースステーションは色温度最高の昼白光で満たされている。

 いつもは人が交錯して四方八方に声が飛ぶ、フロアの中心。

 けれど今は、奇跡的に看護師たちがみんな出はらい、もぬけのカラ。


 耳鳴りが聞こえてきそうな無音の空間は、まるでポッカリとあいた時空のポケットのよう。

 

 ひとりきりで、先生がいた。

 デスクに向かう彼女の背中は、神々しくもあり、痛ましくもあった。

 白く、白く、天上のような世界。

 何もせずにいれば、静寂は永遠に続きそうだけれど。

 ぼくらは、それを破ることでしか、前に進めない。

 

「渋谷先生」


 いつもと違うぼくの低い声。

 しかし、いつものようにふり返る彼女。


「なに、ミツルくん」


「指の患者さん、血行がいいですね。さすがです」


「指神経をまったく繋いでないの。わたしの限界」


 完璧主義者は自身を非難した。

 

「で、なに? ミツルくん」


 先生はお見通しだった。


「プライベートなお話なのですが、大事なことなので、いいでしょうか」


 彼女はゆっくりとうなずく。


「旭先生と面談された時、先生は同席されましたか?」


 あまりに唐突。

 せっかちでストレートな本性を、ぼくは隠さなかった。

 なのに、先生は頬をほころばせた。

 この人は、やっぱり並みの人間ではない。


「うん。病状説明と治療方針を、父とわたしは、すべて聴いた」


「旭先生の話の内容は、いつもひどいものだとか」


「いま思えば、その通り。でも、医学生だったわたしには、ありがたい名医のお説教だったわ。それにしても、しゃべり方は汚かったけれど」


 渋谷先生はその時メガネをしていたんですね、外していれば女たらしの旭先生の態度は違ったはずです、といいそうになったが、なんとかノドもとで止めることができた。

 かわりに、ぼくは違うことを口にした。


「肝胆膵センター計画に反対です、ぼくは」


 彼女の瞳の深い湖。秘密で満ちたその湖面に、ぼくが映った。


「別の問題よ。旭先生が医師の倫理に背いていることと、センターのことは」


 彼女が確固としたその言葉を向けたのは、しかしぼくではなかった。

 彼女自身だった。


「別の問題なのに、大バカだったわ」


 いとしい人は晴れ晴れとして、さらにいった。


「医師失格」


 ああ。

 いったい。

 いったい、どうすればいい?

 どうすれば、この人を救えるだろうか?


 ぼくの灰白質ニューロンは、おびただしい数の無益な発火をしたに違いない。

 エネルギーを費やし、熱を生じ、非典型的なパターンの脳波を放ちつつ、数秒後に脳ミソが探し出したものは。

 深い深い、敗北感。


 それでもぼくは声を発した。


「先生は最初の肝臓がサユリさんの犯行だと気づいた。2回目に分娩室に置かれた胆嚢を、直後に先生は耳鼻科外来に移した」

 

「その通りよ」


「なんでそんなことをしたんですか? あのままサユリさんにやらせておけば良かったのでは?」


「彼女が密かに行ける場所は、分娩室しかないわ。みんなに警戒されて、3回目は見つかってしまう。わたしがもっとうまく実行しようと思った」


「最後の膵臓は、受付で発見される朝の何時間か前の夜ではなく、そのさらに前日の晩に置いたと、ぼくは推測します」


 先生はメガネを外す。この世のものとは思えない気高い瞳が、刺すような光を放つ。


「鋭いわね、ミツルくん。やっぱり頭がいい」


「ちなみに、先生は膵臓をどこに置いたんですか?」


 彼女は少し間をとった。

 女神の魂は、数日の時間を遡っただろう。

 いや、時空を超えて、幾年も前の世界に繋がったのかもしれない。

 もう戻らないセピア色の情景が、孤独な瞳の奥に広がったに違いない。


 白い現実世界に帰還すると、彼女は口をひらいた。


「外科外来に置いた。旭先生がたまに来て診察する時に座るイス、そのものよ」


 頭上に覆いかぶさる何本もの長大な蛍光灯たちが、彼女に現世の光線を浴びせる。


「それは、あり得たかもしれない父の時間を断った張本人のイス。また、私欲のために他人の命を犠牲にする医者のイス。そして、医者としても人間としても許せない人物の座るイス。何も知らなかった愚鈍な学生を、地獄の底でずっと苦しませることになった男のイス。そうね。よくわかってる。わたしのしたことは、くだらなかった。心底、くだらなかった。父がこんなことで喜んでくれるはずがないのに。こんなことしても、なんにもならないのに。バカだった。大バカだった。いつまでたっても、ほんとうに愚かだった」


 いい終えた先生は、顔を伏せていた。

 身体を小きざみに震わせていた。

 けれど、とっくにぼくは泣いていた。

 誰も見ていないから、全然いいのだ。

 いや、もう誰に何をいわれたっていい。 


「ごめんなさい。ケガをさせてしまった。ごめんなさい。ほんとうにごめんなさい」


 伏せた彼女のまぶたから、悔恨と自責の水滴がしたたっているのが、ぼくには分かった。

 トキおばちゃんは心身ともに頑丈だから大丈夫です、恨んでもいませんよ、先生のことが今でも大好きですよ、といいたかったが、ぼくは嗚咽ばかりでちゃんと発音できなかった。


 その時、遠くで声がした。


「外科外来にモツが散乱してるらしいわよ!」


「またか!」


「もう、いいかげんにしてほしいわ!」


 悲恋の主人公になりきっていたぼくに、横ヤリが飛んできた。

 ああ、これは絶対トキおばちゃんだ。

 決まってる。


 え? トキおばちゃんって誰だって?

 葛城トキエ。耳鼻科外来主任で、総副婦長。

 ぼくの叔母。

 探偵を気どっているぼくだけど、やっぱり、おばちゃんには到底かなわない。


 いいところで冷たい水をかけられた。

 ぼくは渋谷先生を見た。

 顔を上げた彼女は、頬を濡らす塩水をぬぐって、声のするほうを向いた。

 愛する人を前にして、ぼくは思った。

 このこっけいな事件のことを、いつの日か忘れてくれるだろうか。

 そんな時は来るだろうか。

 来てほしい。


 ぼくと先生は目配せして立ち上がった。

 ふたりで走ってその場に向かった。

 着いてみると、もう閉まっている外科外来の前に車イスの女性がいた。何人かに囲まれながら、声を響かせている。


「ごめんなさいねえ、こんなにブチまけちゃって。もう、病院じゅうが内蔵だらけになっちゃったわねえ、おホホホホ」


 髪をアップにしてまとめた総副婦長、トキおばちゃんだった。


「せっかく大好きなモツ煮込みが病院食に出たっていうのに、台無し! わたしも悲しいわ、おホホホホ」


 ひとり分の病院食にしては、モツの量が多すぎる。

 しれっとした目の副婦長が左右を見回して、ドスの効いたセリフを放つ。


「肝、胆、膵と来て、今日はこの腸。なんだかこの病院は内臓で難儀しているわねえ。外科では昔からいうじゃないの、ケチがついたらもう関わるな、なーんて。わたし思うんだけど、センターはムリじゃないのかしら?」

 

 

 

 



 

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