第22話

 オリヴィアが部屋に到着をすると、ほぼ全員が揃っていた。

 父とポーレット、数人の使用人と、そしてシャルル。

 一人遅れて到着をしたオリヴィアの背中を、ポーレットが突いた。

「お嬢様、お夕食も摂らずにずっと寝ていたのですか?」

「そうみたい、ごめんなさい」

 オリヴィアの謝罪に、ポーレットは大げさにため息を吐いた。

「シャワーも浴びずにお昼寝とは……まったくみっともない」

 責めるような視線を送るポーレットにオリヴィアはたらりと眉を下げた。

「ごめんなさい。本当に申し訳ないと思っているわ。ただ、本当に疲れていたみたい」

 なんとも呆れたような表情をするポーレットに再度謝罪し、前を向く。

 業者によって綺麗に貼りかえられたはずの床には、再び巨大な魔法陣が描かれていた。

 例の如くその中心にいたのはクマのぬいぐるみのラミントン。サークルの上に並べられた百本超の蝋燭が、赤いワインと一切れのパンを照らしている。

 白いローブを着こんだシャルルは、一同が揃ったことを確認すると、両手をさっ、と天に掲げた。

「大変お待たせしました。前回は、私の不手際のため皆様にご迷惑をおかけしてしまい大変申し訳ありませんでした。今度こそ、間違いなくこのぬいぐるみに憑りついた悪魔を祓って見せましょう」

 そこで大げさに一礼し、顔を上げた。

「それでは皆さん、ご清聴をお願いします」

 ぱっ、と本を広げぶつぶつと呪文を唱え始めるシャルルの背中に、相変わらずなんとも芝居かかった男だと思う。ここにもしウィルがいたら鼻で笑い飛ばしているところであろう。思わずその様子を想像し、一人で思わず口元を緩ませた。けれどそれ以上にこの部屋の寒さが気にかかり腕ばかりを擦っていると、なんとも硬い表情で佇んでいた父に声を掛けられた。

「寒いか」

 単調な問いかけに、オリヴィアは頷いた。

「ええ。どうしてかしら、さっきこの部屋に入ってから、とても寒いの」

 オリヴィアの返答に、フリッツは正面を向いたまま肯定した。

「わたしもだ。ラウンジは暑いくらいだったのに、この部屋だけ震えるほどに寒い」

 そう呟いたフリッツの視線の先にいる白いローブのエクソシストは、いつぞやのように片手に本を持ち大げさな口調で呪文を唱え始めた。

「漆黒に惑わされしものよ……暗闇に生まれ暗闇を住処とし鮮血に喜びを見出しものよ、 煉獄の炎を纏い犬の遠吠えに呼ばれしものよ……」

 空気が冷たさを増し、不穏な風が部屋全体を支配した。赤々と燃える炎が大きくなり小さくなり、未知の魔物の存在を訴えた。シャルルの纏ったローブの下を風が潜り、ひらりひらりと翻した。カタカタカタとグラスに注がれたワインが揺れる。不安定な蝋燭の明かりがクマのぬいぐるみを怪しく照らした。

「混沌を崇めしものよ……月の神ケリドウェンの名に於いてここから立ち去れ!」

 シャルルのその声を合図にしたかのようにして、ワイングラスが破裂した。それと同時に百本超の蝋燭の炎も一度に消える。オリヴィアが目を瞑ってしまったのは仕方のないことだった。ここまでは以前と同じだ――そして、暗闇に満ちた部屋に灯りが灯る。誰もランプに触れていないのに。蝋燭はすべて消えているのに。

 目を開けたオリヴィアは慄いた。姉の形見、ラミントンという名を持つクマのぬいぐるみの後ろに巨大な影が立っている。“それ”がなんなのか、オリヴィアは理解することができなかった。なぜなら彼女は、今までの人生の中で“そのような”存在を見たことがなかったからだ。

 ごわごわとした黒い体毛のようなもので覆われた巨大な体。頭部には二本の飾られていて、大きさで言えば二メートル超。むき出しの目玉が周囲を警戒するかのようにぎょろぎょろと動いている。耳まで避けた灰色の歯茎からは唾液と思われる緑色の粘着性のある物質を垂れ流し、それがぼたぼたと床に模様を作っている。二本の腕と二本の脚。その先にあるのは三本の指で、鍵爪のように鋭い刃が光っている。剛毛で覆われている尻尾の先には赤く炎が燃えていて、灯りの消えたこの部屋を明々と照らしていた。

「……なんだ、あれは」

 皆が皆呆然とする中で、最初に我に返ったのはフリッツだった。

「シャルルくん、なんだあれは」

 その問いかけに、シャルルは暫しの間目を開いたまま固まっていた。そして、ふっ、とニヒルな笑みを浮かべ

「心配しないでください、ミスター……このシャルル・ロワイエが見事祓って見せましょう。漸く姿を現したな下級悪魔! 神の名に於いてここから――」

 その悪魔は人差し指を突き立て懸命に呪文を唱えるシャルルを、ぎらぎらとした二つの目玉で凝視すると、どろどろとしたヘドロのような唾液の垂れる口を開いた。

『……お前が、私を呼んだのか……』

 地に響くような低い声だ――身も心も思わず震えてしまうような恐ろしい声。シャルルは、ぶるりと背中を一度震わせて、それからその恐怖を払うようにして頭を振った。

「そ、そうだ――私が、私がお前を呼んだのだ!」

『……何用だ』

 ぎろり、ときつく睨み付けられ、シャルルは思わず息を飲んだ。それから、いつ抜けてもおかしくないような足腰にしっかりと力を入れ、主張した。

「お、お前だろう、このぬいぐるみに憑りついて、この家の住人たちに迷惑をかけていたのは! いいか――今ならまだ観念してやる、痛い思いをしたくないなら早く――」

 シャルルの言葉は、彼の体が壁に叩き付けられたことにより終わりを告げた。オリヴィアはこのとき初めて知った。悪魔というのは、人間の体に触れることなく目の動きだけで宙に浮かすことができるのであると。

 あまりの出来ごとにオリヴィアは口に手を当てたまま固まって、慌ててシャルルの傍に駆け寄った。意識は失っているが怪我はない。心音もしっかりしていることにほっとする。が、安心していられる時間は幾秒もない――くるくると目を回している彼をポーレットに預け、オリヴィアは悪魔に向き直った。

「待って!」

 オリヴィアの呼びかけに、悪魔の目玉がぎょろりと動いた。

『……何者だ』

 この世の恐怖をすべて凝縮したような声色に腰が引けながらも必死で耐える。

「そのぬいぐるみの持ち主の、双子の妹よ」

 ぴっ、と彼女の指し示した先。椅子から転げ落ちたクマのぬいぐるみが赤いワインで濡れて、びしゃびしゃになり転がっていた。

「お願い聞かせて――どうしてこのぬいぐるみに取り憑いたのか、なんでこんなことをしているのか」

 オリヴィアの懇願に、悪魔はぴくぴくと反応するかのように尻尾を動かした。途端吹き荒れる旋風に、窓ガラスが割れ本棚が倒れ、オリヴィアの軽い体は紙切れのようにふっ飛ばされた。

「きゃあっ!」

「オリヴィア!」

 壁に直撃する直前で父親に受け止められる。

「やめなさいオリヴィア! お前の手に負えるような相手ではない!」

 自分を守ろうと叱咤する父親の腕をどかし、オリヴィアは立ち上がった。ふっ飛ばされた衝撃と恐怖で頭がくらくらする――正直どうにかあってしまいそうだ。が、そんな弱音は吐いていられない。

「ねぇ、お願い。わたし達とても困っているの。だからここから、この家から――」

 再度自分の前にやってきたオリヴィアに、悪魔は品定めでもするかのようにぎょろぎょろと目玉を動かした。

『お前――そうか、あの小娘の――』

 悪魔は緑色の舌でべろりと唇を舐めると、まるで楽園でも思い出したかのような、下劣な笑みを浮かべた。

『最高だったぞあの娘は。若く、清らかで、美しい――俺は女が好きだ! 穢れを知らぬ女が好きだ! 肉も、魂も、この上なく美味なものだ! あいつは俺のものだ! 俺の女だ!』

 気が付いた真実に、オリヴィアは自分の体温が急激に下がっていくことを感じていた。

 体が震えている。歯がカチカチと音を鳴らし、爪が食い込むほどに両手の拳を握っていた。心臓が今にも凍り付いてしまいそうだ――それでも血液は音を立てて体中を駆け巡った。

「あなた、まさか――」

『あの女は最高だ! あの女は俺のものだ! 肉も魂も髪の毛一本足りとも渡さん!』

「まさかお姉ちゃんを――」

『俺は処女が好きだ! 男を知らぬ柔らかい肉を食うのは最高だ!』

「お姉ちゃん――」

 頭を過る、姉の声。姉の表情。脳の一番遠いところで何かが切れる音がした――動いてはいけない。頭ではそうわかっているのに、足が、もう一人の自分が理解をしてくれない。気が付いた時には花瓶を持って駆けだしていた。思わず投げつけたそれが、悪魔の硬い爪の先に当たり、割れる。

「……最低」

 泣いていると気が付いたのはそのときだ――花瓶を投げつけたままの体制で、悪魔を睨み付けた。

「お姉ちゃんが何をしたの? お姉ちゃんはただただ、毎日精一杯生きていただけよ? ただ一緒に学校に行きたくて、一緒に買い物に行きたくて、一緒に遊びに行きたかったの。ただ友達を作って恋人を作って結婚をしたかっただけなの。お姉ちゃんは、生きたかったの。生きていたかっただけなの。それの何が悪いの!? お姉ちゃんが一体何をしたの!?」

 オリヴィアの叫びは命の叫びだった。

 大切な友人を、家族を失った、もしくは共に生まれ共に過ごしてきた半身を失った哀れな魂の叫びだった。シルヴィアはオリヴィアの片割れであり、もう一人の自分であり、または魂でもあった。姉であり友人ですらあった。

 けれど、その嘆きの絶叫すら甘美であるというようにして、悪魔は嘲笑を繰り返した。

『俺は人間が好きだ! 憎しみ、苦しみ、悲しみ、嘆き、嫉妬! 人間は馬鹿だ、そして醜い! 長い間床に伏せっていた娘が嘆いていないと思うか? 嫉妬をしていないと思うか? 人間とはなんと無知なことよ!』

「……っつ――!」

 考えるよりも先に無造作に置かれていた辞書を手に取り、振りかぶった。

 が――

 攻撃を放つのは、悪魔のほうが速かった。

気が付いたときには、椅子の下でワイン塗れになっていたクマのぬいぐるみが守るようにしてオリヴィアの前に存在していて、そのふわふわの愛らしい体は哀れにも引き裂かれていた。べしゃり、という音を立てて落下したそれと同時に、オリヴィアはずるずると床に座り込んだ。

「……なんで……?」

 あの鍵爪は、間違いなく自分に向かい飛んできていたはずだ。そして突き刺さり、血まみれになっていたはずだった。けれど、代わりにこのクマが、ぼろぼろに引き裂かれている。綿が飛び出て、ビーズの目は転がり落ち、首は半分もげかけている。一体誰が飛ばしたのだろう。父もポーレットも、もしくはシャルルができるはずがない。なぜなら皆、自分より後ろにいるのだから。

「……守ってくれた?」

 それはあり得ない発想だった。クマが動くはずがない。ただのクマのぬいぐるみがオリヴィアの危機を察知して、守ってくれるはずがない。けれど、もし、もしも――


『ねぇオリヴィア。わたしたち、ずっと一緒よ』


「……守って、くれて、た」

 やっと知った。漸く気が付いた。姉はいつも、ここにいた。いつだってどんなときだって、シルヴィアは自分を、ずっと守ってくれていたのだ。

「お姉ちゃん、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 気が付かなくてごめんなさい。大切にできなくてごめんなさい。こんなにずっと近くにいたのに、いつだって守ってくれていたのに、気が付かなくてごめんなさい。無下にして、邪険にしてごめんなさい。ただただ愛しくて申し訳なくて、抱きしめて泣くことしかできなかった。片方だけになってしまったビーズの目。ぼろぼろになった赤いリボン。つやつやの腹からは綿がはみ出て、首は半分取れかけている。右手などすでにもげてしまっていた。

「オリヴィア!」

 フリッツの咆哮により、再び悪魔の刃が自分に飛んでくるということを知った。けれど、避けるには彼女の動きはあまりにも遅すぎたし、涙溢れる彼女の瞳は、ラミントンを抱きしめる彼女の足は、そこから動くことを拒んでいた。

 死ぬのか、と思う。

 この家で。愛する姉の死んだ部屋で。姉の大切にしていたぬいぐるみを抱きしめたまま。自分を守り、ぼろぼろになったクマのぬいぐるみを抱きしめたまま。

(……違うわ)

 彼女の脳裏に、一人の男の姿が思い浮かんだ。黒い髪に黒いサングラスをした、口の悪い、赤い瞳を持った男――

『しんどくなったら、俺の名前を呼んで』

 鋭い鍵爪がこちらに向かって飛んでくる。もう駄目だ。もうあと少しで、あと数秒で死んでしまう。お願いだから、本当にお願いだから――

「ウィリアム・レッドフィールド――!」

 刹那、ぬいぐるみを抱きしめたオリヴィアを中心とするように、白い光が周囲を覆った。それはまるで神聖なる壁のようにしてオリヴィアを守り、悪魔の鍵爪を跳ね返した。悪魔がひどく醜い叫び声をあげている――ぬいぐるみを抱きしめたまま床を見ると、そこには光で描かれた巨大な魔法陣が存在していた。周囲を照らしているその光は徐々に形を変え、一人の人間を形成する。いや、正確には、一人と一匹、か。

「……ウィリアム……?」

 記憶の中とも一寸の違いもない、黒い髪に黒いサングラスを掛けたウィルは、抱えていたウサギのぬいぐるみを床に下すとすぅっ――と大きく息を吸い、そして叫んだ。

「おっ……せぇんだよこのポンコツウサギが!」

「遅くないもん! ウィルがへなちょこなのが悪いんだもん!」

「おせぇだろうが! ただ召喚に応じるだけなのにどんだけ時間かかってんだよ!」

「仕方ないもん! ウィル重いんだもん! わたし悪くないもん!」

「まともな人間の成人男性なんだからぬいぐるみのお前より軽くて当たり前だろアホタレ!」

「いやー! 耳引っ張らないで―!」

 周りの状況など気にもせず騒ぐ二人と一匹に、オリヴィアは暫しの間拍子抜けをする。が、すぐに我に返り、声を発した。

「ウ、ウィル!」

「あ? なんだよ」

 乱暴に投げつけられたその言葉に、少しばかり委縮する。が、すぐに立ち戻り、問いかけた。

「どういうこと? 今の光は? あなたたち、一体どうして? どういうことなの?」

 畳みかけられるオリヴィアの疑問に、ウィルは再びプリンセス・トルタの耳を引っ張った。

「やめてぇ!」

 ぎゅっぎゅっと力を込めるたび白ウサギがひどく悲痛な叫びを上げるのだが、ウィルはそんな声など聞こえないとばかりにひどく淡々とした様子で答えた。

「言っただろ。困ったら呼べって」

 ウィルはぽいっ、と捨てるようにしてプリンセス・トルタを離した。自由になった白ウサギは、ててててと逃げるようにしてオリヴィアの元にやってきた。真っ赤なビーズの目の先にいるのは、かわいそうに八つ裂きにされたクマのぬいぐるみのラミントンだ。

「ラミントン……」

 プリンセス・トルタはラミントンを追憶するかのように、そして甘えるようにして、ラミントンを抱えるオリヴィアの腕に抱きついた。

 そんな感動的ともいえる光景を少しばかり離れたところから鑑賞し、ウィルは悪魔に向き直った。

「どーも。あんたが、この家についていた悪魔さん?」

 その声に頷くかのように――頷いてなど決してないのだろうが――悪魔はぐるりと喉を鳴らした。剥き出しの歯茎から零れる緑の唾液が床の上に模様を作り、まるで飢えた獣のようだ。

「会って早々に悪いんだけどさ。この家から退いてほしいんだわ。大したことじゃねぇだろ? あんたほどの魔力を持つものは、いくらでも住む場所なんてあるんだろうからさ」

 首を傾げ、身振り手振りで交渉をするウィルは傍から見ても明らかに緊張感のないものであった。その彼の仕草に、悪魔もまた、跳ね上がらせていた尻尾を下げた。

『……貴様、悪魔祓い師か』

「似たようなもんね」

『我は地獄から参りし煉獄を司るもの……低俗な人間風情が愚かなことを』

「あのなぁ、俺、馬鹿だからさ。できればもう少し言葉を噛み砕いてくれたらうれしいんだけど」

 ウィルは腕を組み首を傾げ、その場に似合わない、ひどく緊張感のない口調でこう言ったのだ。

「それって、退居してくれないってこと?」

 その問いかけに、悪魔は再度ぐるりと喉を鳴らした。

『笑止』

 瞬間、吹き荒れる疾風にオリヴィアは思わず頭を抱えて目を閉じた。わかるものは、肌で感じる風の強さ、ガラスの砕け散る音、家具の倒れる音――そして悲鳴。その悲鳴が自分のものなのか、もしくは他の誰かのものなのかどうかはわからなかった。目を開けたそこに広がっていたのは元の美しい部屋からは想像もできないほどに散らかった姉の部屋と、赤い炎。

 炎!

 なんということだ! 悪魔の尾に灯っていた炎が、窓に揺れているカーテンに引火したのだ!

「きゃあぁあぁ!」

「た、大変だ!」

 それに気が付いたポーレットとフリッツが悲鳴を上げる。その間にも炎はカーテンから壁、ベッド、枕と着々と広がっていく。

「ポーレット! 今すぐ屋敷中の使用人達を起こして外に避難させるんだ!」

「はい!」

「私はシャルル君を背負っていく――オリヴィアも早く!」

 ポーレットが転がるようにして部屋を出ていく。そのあとに続くようにしてシャルルを担いだフリッツが怒鳴るようにしてオリヴィアを呼んだ。

「パパッ……」

「ほら、早く……早くしないと火が廻る!」

「待って、まだ彼が――ウィリアムが!」

「早くしろ! シルヴィアだけではなく、お前もパパを置いていくのか!」

 腹の奥から激高され、思わず肩を震わせた。が、それ以上に燃え盛り広がっていく炎が、そこに聳える悪魔の姿が、それと向かい合う黒いサングラスを掛けた彼の姿のほうが、恐ろしくて恐ろしくて堪らなかった。

「ほら! 早く!」

 父に腕を捕まれ、引きずられるようにして部屋を出た。数メートル先を、寝間着姿の使用人達が争うようにして走っている。廊下の途中まで来たところで後ろを振り向くと、炎はすでに部屋の外まで到達していた。

「オリヴィア!」

 階段を下りる途中、急に足を止めた娘にフリッツは叫んだ。煙はすでにここまで来ている――もう、あと幾分も時間はないだろう。呼吸をするたび肺に舞い込んでくる煙を咳で追い出しながら、フリッツは言った。

「どうした! 早くしろ! もうすぐに火に追い付かれるぞ!」

 フリッツから娘の顔は見えなかった。彼の場所からは三つ編みをした後ろ髪しか見えていない――お転婆で機関坊でじゃじゃ馬だった下の娘は、かつて上の娘の部屋があった方向を見つめていた。火はどんどん迫っている――こんなところで立ち往生している暇など、一秒もない。

「オリヴィアっ……!」

 ぐっ、と娘の肩を掴んだところで、漸くその顔がこちらを向く。何かを決意したかのような、意志の強い瞳。オリヴィアはぐ、と一度唇を噛むと、ひどく申し訳ないような表情で、自分の肩を掴む父の手を振り払った。

「……ごめんなさいっ……!」

「オリヴィア!」

 フリッツが伸ばした腕はもくもくと漂う煙を掴み、落ちた。オリヴィアの栗色の髪が、赤々と燃える廊下の向こうに消えていく。愕然とするフリッツを使用人達が呼んでいる。

「旦那様!」

「早く! 早くこちらへ!」

 フリッツは、未だ意識を取り戻さないシャルルを背負い直し、毒づいた。

「……死んだら許さんからな、馬鹿娘が」


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