四 賑やかで、幸福で、穏やかな日々 その4

 幸福の絶頂期。

 大小の違いや、いつ起きるかと言う違いはあるけれど、少なくとも誰もが経験する事だと津村稔は考えている。

 もちろん幸福に気づかない人もいるかもしれない。毎日が幸せだと断言する者もいるだろう。あるいは幸せな事など何もなかったという人も存在するに違いない。何を幸福とするかは人によって違うのだ。それを否定する事は誰にも出来ないのである。

 だが忘れてはならない。何かが起きる時、誰かの都合のことなど一切考慮に入らないと言う事を。伏線も前兆もなく、唐突にそれは起きると言う事を。

 そしてそれは、幸福への始まりなのか、不幸への始まりなのかは、明確ではないと言う事を。


 ようやくかよっ、と思わずスマートフォンに向けて突っ込んだ車田良光に対して、

『なんだよ、それ。好きだって気づいたのは今日が初めてなんだぞ』

 と、むすっとした声で、相手の津村稔が言った。

「アホかお前」良光は呆れるように言う。「そんなの、周りで見てた奴ら全員、とっくの昔に気づいていたさ」

『はあ、そんな訳が』

「あるんだよ」

 ため息を吐くように良光が言うと、う、と息が詰まるような音が聞こえてきた。

 良光は、続ける。

「それでどうするんだよ?」

 相手から返事が返ってくる気配はなかった。だから、

「告白、するんだろう?」

 と、言ってやる。

『……けどさ、もしも振られてしまったらさ』

 スマートフォンから発せられた稔の声は、煮え切らない。気弱である。

 もう少しだけ稔が色恋沙汰に敏感であったなら、と考えるのは野暮だろう。何しろこの友人は、つい今まで自分の感情にすら気づかなかったのだから。

「良いか良く聞け。告白するなら早い方が良い。つまり、明日だ。明日しろ。お前は知らないだろうが、あいつはもてる。すごくな。この前はあの和田島先輩に告られたそうだ。それ以前にも多くの人から告白されてる。全部断ってるがな。だが安心しちゃあいけないぜ。もしも明日彼女が別の人に告白されたとする。その時、彼女がその告白を受けるかどうかは誰にも分からないんだ。だから告白するなら早ければ早いほど良いんだよ。ぼやぼやしていると他の誰かに奪われてしまうぞ」

 例えば俺とかが。良光は、思わず口から出そうになったそんな言葉を、かろうじて飲み込んだ。

『……分かった』意を決するような稔の声が聞こえてくる。『明日、俺は雫に告白する』

 世話のかかる奴だと、良光は思った。


 翌日の放課後。外は気持ちのいい快晴だ。

 教科書を鞄に詰め込んでいる雫に、稔は声をかける。

「し、雫」

 緊張のあまり、声が上擦ってしまった。普段通りにしようと意識すればするほど、平静ではなくなってしまうのだから、おかしなものだ。

「何よ」

 対して雫は、憎たらしいほど普段通りである。

「き、今日、これから空いてるか?」

「……んー、大丈夫だけど」

「だったら、ちょっといっしょに帰らないか?」

「いいけど?」

 とりあえず、ここまでは予定通りだ。稔は胸を撫で下ろす。

 それから雫と一緒に駅に向かって歩いて、電車に乗った。その間、稔は必死な思いで会話を続けている。

 いつもなら意識せずにやっていたことだ。だが今は必死にならなければできなかった。

 変に思われていないだろうか。警戒されていないだろうか。不安が頭の中で駆け巡る。

 そうこうしているうちに、電車は晴嵐駅に着いてしまった。稔にとってあっという間だった。心の準備は満足に出来ているとは到底言えなかった。

 電車を降りて、駅から出て、しばらく歩いて喧噪から抜ける。

 閑静な住宅街の一角で、稔は立ち止まった。

 雫は数歩歩いてから、隣にいた人が後ろにいることに気がつき、足を止めた。振り返って稔の顔を見てみると、斜め上を見上げて頬をかいている。

「どうしたの?」

 雫は首を傾げて尋ねると、

「あー……。その、さ。公園に、寄って行かないか?」

 歯切れ悪く稔は言った。

「公園? 青嵐公園?」

 うん、と稔は頷く。

「どうして」

「い、いいじゃないか、たまにはさ」

「……そう。そうね。たまには、いいかもね」

 稔が先導して歩き始める。ゆっくりとした歩調にも関わらず、心臓の鼓動が早く、顔が熱い。

 今は後ろを振り返りたくなかった。赤くなっているに違いない顔を、雫に見せたくないのだ。

 言葉はなくなっている。雫も何も言わない。ただ心臓の音だけがやけに大きく聞こえていた。

 程なくして青嵐公園にたどり着く。

 足を踏み入れても稔のスピードは変わらない。雫も横に並ぼうとしない。稔の後ろをぴったりとついてくる。

 青嵐公園は広い。通路があり、いくつかのブロックに別れている。広場のゾーン、遊具のゾーン、砂場のゾーンなどなどだ。

 稔が向かった場所は噴水とベンチがある区画だった。幸いな事に人がいない。

 稔は噴水の前で止まった。水は噴き出していなかった。

 ごくり。稔は生唾を飲み込んで、一握りの勇気を振り絞る。

「懐かしいな。覚えてるか、ここ」

 と、稔は振り返らずに言った。

「うん、覚えてるよ。ここで、初めて出会ったんだよね、私たち」

 声だけが後ろから返ってきた。もちろんお互い表情が見えない。だけど見なくても稔には何となく分かる。そしてそれは雫も同じだと思う。

「あの時は、確か夏だったよな。すごく暑くて、蝉の音がうるさかったのを覚えているよ」

 稔は当時の景色を思い出しながら喋る。子供の頃の記憶はほとんど覚えていないけれど、この事だけはやけに鮮烈に覚えていた。

「うん。それでわたしは白いワンピースを着てて、稔は半袖シャツに半ズボンを履いていたよ。あと、虫取り籠と網を持っていたっけ」

「ああ。そうだった。蝉を捕まえようとしていたんだった」

「だけど稔は捕まえる事が出来なくて、すごく悔しがってたんだっけ」

「それで、その時一人でいた雫に声をかけて、一緒にがんばって」

「それでようやく一匹だけ捕まえられた」

 稔は振り返って雫を見た。雫はまっすぐ稔を見つめていた。稔も見つめ返す。

「好きだ、雫。多分、あの時からずっと」

 稔は言った。一言一言に、自分の感情がこもるように。自分の想いが伝わるように。

 雫は笑った。

「遅いよ、ばか」

 それから、涙を一滴だけ目から零す。

「ずっと。ずっと待ってたんだよ。あの時からずっと」

「悪い。俺、頭悪くてさ」

「知ってる」

「それに、恋愛沙汰には疎くってさ」

「むかつくぐらい、分かってる」

「それで、返事は?」

「知りたいなら、捕まえてみせろ」

 雫は意地悪な笑みを浮かべた。

 稔はゆっくりと歩く。雫は逃げない。

 稔はゆっくりと手を伸ばす。雫は動かない。

「捕まえた」

 そう言って、稔は雫の手を優しく握った。細く、柔らかく、ほんのりと冷たい手だった。

 雫は微笑する。

「捕まえられちゃった」

 噴水から、水が噴き出した。春の光を受けて、飛沫がきらきらと輝いている。

 傍らには、小さな虹が出来ていた。何だか二人を祝福しているようだと、稔には思えた。


 それから、週末になった。稔は早速デートの約束を取り付けていて、青嵐公園の誰もいない噴水の前で待ち合わせている。

 公園の時計を見ると、待ち合わせた時間の三十分前である。もちろん雫はまだ来ていない。いくらなんでも早すぎるし、そもそも家が隣近所なのにわざわざ離れた場所で待ち合わせるなんて馬鹿じゃないかと稔は思う。

 だけどデートをしようと提案した時に、わざわざこの場所を指定したのは雫だ。

 彼女曰く、「待ち合わせをしないデートは前菜を欠いたフルコースだ」そうである。

 別に稔は前菜何てなくても良いと思うのだが、雫は妙にこだわっている様子だった。

 それで同じ時間に家を出ると待ち合わせた意味がなくなってしまうので、稔はこうして早めに来て、律儀に雫を待つ事になった、という顛末なのである。

 雫が来たのは約束した時間の五分前だった。雫は稔の姿を見つけると、小走りで駆け寄って、

「ごめんね。待たせちゃった?」

 と聞いた。

「凄い待ったよ」

 稔は深く考えずに答えると、雫が頬を赤い風船みたいに膨らませる。

「何よもー。そこは今来た所だよって言う所でしょーが」

「なんだよそれは。大体、俺の方が先に家を出たのは雫も知ってるだろーが」

「そーゆー問題じゃないの。世の中にはお約束ってやつがあるのよ。何で分からないのかなー」

「んだとー」

「なによー」

 両者は顔を見合わせた。互いの眉間に皺が寄り、目から火花が出そうなほど睨み合う。

 今、正に喧嘩が勃発するかと思われたのだが、

「ぷー」

「クスクスクス」

 数瞬した後に、二人はどちらともなく吹き出したのだ。

「付き合い始めても変わらないね、私たち」

 笑いながら、雫は言った。

「本当だよ。進歩がないっていうか、何て言うか」

「でも、これでいいのかも」

「そうだな」

 稔と雫は大いに笑い合った。そして自然に手をつなぎ合うと、同じ歩調でゆっくりと歩き始める。

「それにしても、びっくりしたなー」

 雫は歩きながら、笑顔を崩さずに言った。

「なにが?」

「だって稔が告白して来た次の日の朝に、クラスのみんなからおめでとう! なんて言われるなんて思わなかったんだもん。告白された事も、それを受けたことも、誰にも言ってなかったのにさ」

「あー、確かに。と言っても俺の方は、前日に良光に相談してしまったしなあ。でも、結果は誰にも言ってなかったんだけどなあ」

「わかんないわねえ」

「わっかんないなあ」

 こうして二人の初デートは始まった。

 とは言っても、稔の財布の中はほとんど入っていないために、適当なアパレルショップや雑貨店を見て回るくらいだ。けれどそれだけでも楽しかった。

 雫との会話も、これまでも数えきれないほどの言葉を交わしているのに、一向に飽きる気配はなかった。

 ああ、今までの人生の中で、今が一番幸せなんだ。そしてこれからもっともっと幸せになるんだろう。

 漠然とした予感が稔の中で生まれた。二人の未来の事を考えるだけで胸が躍る。

「何笑っているの?」

 と、雫は稔を見て尋ねた。

「うん? だってさ、幸せなんだ。今がすっげー幸せなんだよ」

 虚を突かれたみたいに、雫は大きく目を見開いた。それから稔の手を強く掴んで、嬉しそうに笑う。

「私も!」


 

 付き合い始めてからちょうど一週間が経った。

 放課後、稔と雫の二人はここ最近はいつも一緒に帰っている。周りからはやし立てられるが、二人が付き合っている事実は校内に広まりきっているせいで、開き直るしかなかったのだ。

 そういうわけで二人は今日も手をつないで一緒に帰路についていたのだが、晴嵐駅から出てしばらく歩いていると、

「お兄ちゃん?」

 と、聞き慣れた声が背後から聞こえて来た。振り返ってみれば、案の定実花がいる。

「その手、どうしたの?」

 実花はなぜだか不安そうな顔をして尋ねる。稔と雫は、実花がいる時はいつも手をつないでいなかったのだ。それに稔も、実花や自分の家族に、雫と付き合っている事を打ち上げていなかった。

「あーそれは、な」

 バツが悪そうに稔は声を出して、ちらりと横目で雫を見た。雫も困っている様子だった。そもそも雫が実花の前ではこういうことをしないでおこうと言い出したのである。理由としては、実花にばれたら大変だから、とのことで、稔にはよく分からなかったが断る理由もなかったので了承したのだった。

「……もしかして……付き合ってるの?」

 実花は恐る恐る聞いた。

 誤摩化せない、と稔は思った。

 もう一度雫を見て、目で問うと、雫は頷いて答える。

 稔は腹を決めた。

「ああ、そうなんだ」

 稔は肯定する。他に道はなかったし、何よりもいつかはばれることだった。ただ、それが遅いか早いかの違いだけだった。

「やっぱり」

 実花は目線を足下に落とし、暗い声で呟いた。

 稔と雫は何も言わなかった。何と口に出せば良いのか思いつかなかった。

「いつから?」

 二人の反応を少しも気にせずに、実花は追求する。

「……ちょうど、一週間前だよ」

 答えるのは稔。それが義務のように感じられた。

「誰から告白したの?」

「俺からだよ」

「そう……」

 と言って、実花はより一層顔色を沈ませた。しかしそれも一瞬の事だった。

 実花は顔を上げた。その表情は笑顔だった。

「よかったじゃない、お兄ちゃん」と、実花は言う。「きっといつか、こうなるって、私、何となく分かってた」

「……実花ちゃん」

 雫は沈痛な面持ちで言った。

「おめでとう、お兄ちゃん。雫さんも」

 実花は笑顔を絶やさずに言う。けれど、その笑顔は、傍目には無理矢理作ったかのように見えた。何だか今にも泣き出しそうだった。

「ごめん」と、雫は唐突に言う。「私、ちょっと急用を思い出しちゃった。だから悪いけど、稔は実花ちゃんと一緒に帰ってね」

 早口で捲し立てた雫は、半ば無理矢理に稔と手を離し、足早にその場からは離れて行った。稔が何かを言う間もなかった。あっという間だった。

「ごめんね、お兄ちゃん」実花は顔を下げて謝る。「私、邪魔しちゃったね」

 稔は、何も言わずに頭を振って、

「……しばらく、一緒に遊んでなかったな」

 と言った。

「え?」

「だから今日は、一緒に遊ぶか?」

「う、うん!」

 とても嬉しそうに、実花は言った。

「じゃあ、帰るか」

 と、二人は歩き始めた。


 家までの距離が半ばまで来た所で、二人は足を止めた。

「なに、あれ?」

 実花は、前にあるそれを指差して訝しんだ。

 どこまでもどこまでも深い闇色の長方形が、道路の上で直立している。ちょうどそれは、人が一人すっぽりと収まりそうな大きさだった。

 しかし奇妙な事に、それは物体ではなかった。

 それは、穴であった。

 空間に、穴が空いているのである。

「なんか、こわい」

 と、実花は身体を震わせて言った。

 稔も同感だった。

 何か、怖い。理由は分からないが、恐ろしい。気味が悪い。

 生理的嫌悪感だろうか。あるいは本能めいた何かか。

 逃げた方が良いのだろうか。それすら分からない。無害な存在なのか違うのか、判断が出来ない。およそこの世の中で起きるような現象とは思えない。

 穴に、変化が起きた。中から、黒い触手めいた何かが、数本、音もなく伸びて来た。

 金縛りにあったみたいに、二人の足は動かない。

 触手は、まっすぐ実花に向かって伸びて来ている。

「え?」

 と、実花は恐怖に彩られた呟きを漏らす。

 触手は既に、実花に触れようとしている直前だった。

 危険だ。

 訳もなく稔はそう思って、気がつけば身体が動いていた。

 どん。と、実花を突き飛ばす。

「きゃあ!」

 実花は背中からアスファルトの道路に倒れ込んだ。

 痛い。だけどそれどころじゃない。

 実花は上半身を起こして、稔を見た。

 身体に黒い触手が巻き付いていて、稔はそれをひっぺがそうともがいている。だけど触手は、いかに稔が抵抗しても剥がれない。さらには、稔の身体が少しずつ、穴に向かってずるずると引き込まれているようだった。

 現実離れした光景である。

 恐かった。

「あ、あ、あ」

 実花の身体はがたがたと震えていた。涙が両目から零れて流れて行く。

 稔は必死の抵抗を続けている。けれど触手の力は尋常ではなかった。

 このままではお兄ちゃんが連れ去られてしまう。

 立ち上がろうとしたが、腰が抜けて動けない。

 次に実花は、精一杯腕を伸ばした。この手を掴んで欲しかった。

 稔は実花の手に気づいて、手を伸ばそうとした。だが直前になって、その手を引っ込める。

 唖然とする実花の視線と、稔の視線が合った。

 稔は笑んだ。

 そうして、そのまま、稔は穴の中へと引きずり込まれた。穴はすぐに塞がって、元の現実的な光景に戻っていた。

「……え」

 伸ばした手をそのままにして、実花は力なく呟く。

「……おにい、ちゃん?」

 しかしその声に答えられる者は、誰もいなかった。

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