三 賑やかで、幸福で、穏やかな日々 その3

 西尾良枝に誕生日プレゼントを渡して、無事に喜んでもらえたのは昨日の話。

 今日は月曜日なのだ。

 いつものように津村実花を集合場所まで送り届けた兄の稔と西尾雫は、電車で高校に向かう。自転車に乗っている良光と合流して、からかれるのもいつものことだ。

 普段通りの授業。普段通りの休憩時間。そして放課後。けれどその日は少しだけ違っていた。

「カラオケに行こーぜ」

 良光が唐突に提案したのだ。それは稔にとって心惹かれる案であったが、

「無理。金ない」

 と、即座に拒否した。事実、財布の中には十円玉が三枚と一円玉が四枚しか入っていない。もちろん全財産である。

「えええ」

 驚きの声を上げたのは良光である。どうやら断るとは思ってもみなかったらしい。それでも良光は、信じることができなかったらしく、あらぬ嫌疑を稔にぶつけた。

「嘘だろ? なあ、嘘なんだろ?」

 稔は答えの代わりに、黙って財布の中身を見せてやった。

「うへえ」

 と、良光は思わず唸った。困惑と同情とが入り交じったような、何とも言えない表情を浮かべている。

「悪いな」

 稔は少しも悪びれずに謝った。

「そ、……そうだちょっと待っててくれ」

 良光はひきつった顔を浮かべて踵を返す。向かった先には井上春香と山崎加奈がいた。良光はひっそりとした声で二人と何やらしゃべっているようだったが、教室のざわめきでその声は埋もれてしまい、稔にまで届かない。

 けれど、

「ええっー!」

 という二重の声が、唐突に喧噪を引き裂いた。教室の中が一瞬静かになる。クラス内にいる同級生たちが、揃って声を上げた二人に注目する。春香と加奈である。

 なんだ、またか。そんなささやき声が聞こえてきたかと思うと、すぐに教室内は元の賑やかさを取り戻した。

 ただ一人静かなのは稔だけだ。何やら胸中には不安が渦巻いている。

 春香と加奈という劇薬に、良光という毒を加える事で、どのような化学反応が起きるのかが想像できないのだ。

 何しろこの三人は、自分たちが楽しむためならどんなことでもするという厄介な性質を持っている。しかも、他人の不幸すらも自らの享楽のために利用する節があるのだ。

 稔が固唾を飲んで待っていると、良光がさも楽しそうに笑いながら近づいてきて、

「じゃあ、俺の家でゲームしようぜ。メンツは俺と、春香と、加奈だ」

 と言った。

 稔は春香と加奈の様子をうかがった。二人とも、にたにたとした邪悪な笑みを、その顔に張り付かせてメールを打っている。

 嫌な予感しかしなかった。冷たい汗が背筋に沿って流れて行った。

 稔はもはや諦めるしかないのである。


 晴嵐駅から二駅先にある西瀬良川駅で四人は降りた。そこから五分程度歩いた先に、二十階建てのマンションがある。良光の家は、十五階目の西側にあった。

「今日は親いねーから、好き勝手にできるぜ」

 良光はそう言って、玄関の扉を開く。稔が良光の家に入るのは、これが初めてだ。

 中は4LDKの広さで、奇麗に掃除されている。普段からとても気にしているのだろう。フローリングの床がピカピカと輝いていた。

 親がいないと分かっていても、稔は緊張を覚えてしまった。靴一つを脱ぐのにも、気を遣う。

 良光の部屋は、玄関から上がってすぐの所にあった。

 稔は中を見て、思わずここは本当に良光の部屋なのか疑ってしまう。

 何しろ奇麗に整頓されているし、塵一つ落ちていないのだ。良光の事だから、部屋は汚いのだと稔は勝手な想像をしていたのである。

「すごーい。ここ本当に良光の部屋なの?」

「実は他の家族の人の部屋なんじゃないのー?」

 遠慮のない女子二人が、ずけずけとそんな事を言う。

「失礼だね君たちは。ここは歴とした俺の部屋だよ」

「いやいや、嘘だろ? 正直に白状しろよ」

 とりあえず稔は、この流れに乗る事にした。何しろいつも雫との事でからかわれるのだ。たまには仕返しをしてやらないと割にあわない。

「だー、お前らいいからとっとと中に入れ!」

 良光は手を振り上げて声を荒げた。三人はそれでようやく部屋の中に入る。

「適当に座っててくれ」

 そう言って良光は、ゲームソフトが並ぶ棚の前に立った。意見を聞きながら選んだのは、二頭身のキャラクターがゴーカートのような車に乗ってレースをするソフトだ。これなら一度に全員でプレイする事が出来る。

「コントローラーはあるの?」

 ふと気になって、稔は聞いた。

「もち」

 答えた良光は、戸棚を開いてコントローラーを取り出した。きっちり三個だ。

 こうしてゲーム大会は始まったのである。


 三十分ほど楽しんでいると、チャイムが鳴り響いた。

 ゲームを一時停止させて立ち上がった良光は、一言断ってから居間に向かう。

 戻るのを待つ間に、春香は稔に尋ねる。

「ねえねえ。津村君ってさ、好きな人いるの?」

「へ?」

 脈絡のない質問に、稔は耳を疑った。質問の意味を推し量りながらも、

「い、いない、よ」

 ようやくそれだけを答える。

「ふーん。そーなんだ」

 春香は興味深そうに稔の顔を覗き込んだ。彼女の視線が稔の目とかち合った。稔は思わず目をそらす。しかしその先には加奈がいて、今度は彼女と目が合ってしまう。

「じゃあさ」と、今度は加奈が尋ねる。「雫のことはどう思ってるの?」

「……どうって?」

「二人って確か、長いんでしょ? 幼馴染みって奴じゃん。定番中の定番だしさ、何かあってもおかしくないし」

「別にあんな奴、なんでもないよ」

「そうなの?」

 と、加奈は首を傾げた。

「でもさ」次に口を開いたのは春香だ。「今、相手いないのなら、雫と付き合ってみるのも手だと思うよ。最初はやっぱり気心知ってる相手の方が付き合いやすいと思うし」

「いや、そもそもあいつが俺と付き合いたいと思わないだろ」

「それは、多分、大丈夫だと思うよ?」

 稔は困惑を誤摩化すかのように、頬を掻く。

 雫と付き合っても大丈夫だって? そんな馬鹿な。そんなわけがない。

 そもそも雫と付き合うなんてことを、これまで稔は考えた事がなかった。

「私もそう思う」

 援護射撃みたいに、加奈が言った。

「いや……けどさ」

 しどろもどろに稔は言うが、その後の言葉が続かない。

「で、どうなのよ?」

「どうするのよ?」

 二人の女子は、ほぼ同時に身を乗り出して言ってくる。

 稔の口が、意味もなく開閉する。何かを言わなければならないのに、言葉が出て来ない。否定する事はとても簡単なのに、言う事が出来ない。

 と、ここで部屋の扉が開いた。良光が入ってきたのだ。

「よ、よう! 何だったんだ? お客さんか?」

 藁にでも縋るような勢いで良光を見た稔は言った。とにかく話題を逸らしたかった。

「ああそれがよ」そして良光は告げる。「なぜか雫が遊びにきたぞ」

「え? 雫が」

 稔は戸惑う声をあげた。

 春香と加奈は、稔の視界に入らない所で、互いの顔を見合わせてくすりと笑った。それから、ぱん、と春香が手を合わせた。稔は振り返って春香を見る。すると彼女は、

「あ、ごっめーん。言うの忘れてた。雫も誘ってたんだ」

 反省の色を感じさせずに謝るのだった。


「何であんたもいるのよ」

 部屋に入ってきた雫は、稔を見るなり嫌そうに言った。

「はあ、いちゃあ悪いかよ」

 稔も負けずに言い返す。

「まあまあ」と、取り直すのは良光である。「夫婦喧嘩は後にして、遊ぼーぜ」

「夫婦じゃない!」

 稔と雫が一字一句違わずに言葉を重ねて反論した。しかし三人は取り合わせようせずに、淡々とコントローラーを握ってゲームを始めた。

 それから暫くして、

「お腹がすいたー。なにかないのー?」

 と、加奈が良光に訴えた。

「あー? 悪い、今切らしてんだよね」

「えー。じゃあ、近くにコンビにないのー」

「あるぞ。行くか?」

「行く行く。春香も行こ」

「うん」

「じゃあ悪いけど、ちょっと出てくるぜ。二人は留守番よろしくな」

「あ、ちょっ」

 抗議の声を上げようとした稔を無視して、三人は出て行った。扉が閉まる音が空しく響く。部屋の中は、急に静かになった。

 稔と雫は顔を見合わせる。

 二人とも言葉が口から出て来ない。

 稔は緊張していた。冷や汗が頬を伝って行く。さっき加奈と春香が言った台詞が、頭の中で反響していた。――雫と付き合ってみたら? ――多分、大丈夫だと思うよ?

 心臓の音が馬鹿みたいに高鳴って、稔はどうにかなってしまいそうだった。いつもなら意識しない雫の女性としての存在が、いやに気になって仕方がない。

 あり得ないことだと思う。だから理性で必死に否定しようとする。しかし身体の奥底のどこかが、否定しようとする稔の理性を拒否してくる。

 頼む、何か言ってくれ。そう念じるように、稔は雫を見つめた。

 だけど雫の顔が。普段は見慣れていて、なんとも思わない雫の顔が。

 とても、可愛く見えてしまって。


 春香、加奈、良光の三人は、コンビニに向かっていた。足取りはのんびりとしていて、とても人を待たせているようには見えなかった。

「ねえ、良かったの?」

 と、春香は良光に聞いた。

「何が?」

 ちらりと春香を見た良光は、ぶっきらぼうに答える。

「雫の事、好きなんでしょう?」

「……ばれてたか」

「だって、雫を見る目が他の人と違うから」

「あーあ。稔にはばれなかったのにな」

「あんな鈍いのと一緒にしないでよ」そんな風に春香は苦笑してから、優しい声音で続ける。「それで、どうなの?」

 良光は空を仰いだ。青い空の中で白い雲がぼんやりと漂っている。まるで稔みたいな雲だと良光は思う。

「正直、諦めたいわけじゃないさ。けど、あいつは稔しか見ていない。稔にしか素の自分を見せていない。それが分かってしまったんだ。だけど稔は自分の気持ちに気づいていない。それが歯痒かった。俺と代わってくれと、一体何回思った事やら」

「そう」

「でもさ。稔は良い奴なんだ。本当に良い奴なんだよ。だから俺は、稔の背中を押してやる事に決めたんだ」

「……君も良い奴だよ、車田」

 良光は軽く驚いた。からかわれるだろうと思っていたからだ。なのに、まさか褒められるとは思わなかった。

「……サンキュー」

 良光は照れ笑いを浮かべて言った。

 それから数歩歩くと、二人の会話に口を挟まなかった加奈が唐突に立ち止まった。訝しげに振り返る春香と良光。

「いよぉしっ!」加奈は大きく声を張り上げて宣言する。「今日は騒ぐぞっ!」


 一体この状況は何なのだろう。

 雫は目の前にいる稔の顔を眺めながら考えていた。

 三人が出て行き、稔と顔を見合わせてから、お互いが何も言わないし、顔を逸らす事もない。

 思えば最初から変だった。加奈に時間と場所を指定されて遊ぼうと誘われ、教えられた他のメンバーは良光と春香で、稔の事は何も言われなかった。

 そして会ってみれば、学校での時よりも何だかよそよそしいのだ。本人は平静を装っているつもりのようだが、雫にかかればすぐに分かってしまう。三人が出かける時もそうだ。こっそりと春香が雫に耳打ちしたのである。「がんばれ」と。

 はめられた、と雫は思った。おそらく稔も被害者に違いない。きっとろくでもないことでも吹き込まれたのだろう。

 しかし、そもそも発端は自分自身にあったのかも知れないと、雫は思い出していた。

 あれは土曜日の事だった。稔とその妹である実花が連れ立って歩いて行くのを、雫は窓から見つけたのだ。

 目的はもちろん分かっている。雫の母の誕生日プレゼントを買いに行ったのだ。

 歩いて行く二人の背中を見て、雫は一緒に行きたいと思った。そして行こうと思えば、無理矢理にでもついて行く事が可能な事を、雫は知っている。だけれども、そうしたら、実花はきっと嫌がるに違いなかった。最終的には実花は折れるだろう。けれどそれは雫の本意ではなかった。

 だから雫は、楽しそうに駅へと向かう二人をこっそりと見送るのだ。

 二人の姿が見えなくなると、無性に寂しく感じて、なんとなしにスマートフォンを手に取った。そして、わずかに逡巡して、春香に電話をかける。

『やっほー。雫、どうしたの?』

 春香はすぐに出た。

「ちょっと暇なの。今、時間ある?」

『大丈夫だよー』

 それから何気ない会話を繰り広げる。とりとめもなく、ただ思いついた事を話すだけなのに、どうしてこんなに楽しいのだろうか。おかげで雫が抱いている寂しさを紛らわせることが出来る。そして暫くしてから、

『あ、そうそう雫。この前の放課後さ、津村君と一緒にいたでしょ?』

 と、春香がいきなり尋ねてきた。

「え?」

 雫はドキッとした。迂闊だった。誰かに見られるかもしれないと言う問題を、雫は失念していたのだ。

『ほら、晴嵐駅の駅ビルでさ』

「み、見てたの?」

『うん、たまたま私も用事があってさ。それで、楽しそうにデートしてる雫嬢がいるじゃない?』

「あ、あれは、デートじゃなくて。私のお母さんの誕生日が明日で、それで稔なら、お母さんの事知ってるし、だからちょっと意見が欲しくって」

『ふーん。そうなんだ』

 春香は棒読みで言った。

「信じてないなあ」

『うん。だってさ、雫って、津村君のこと好きじゃない?』

「……え? い、いや、そんなこと、ない、よ」

『誤摩化しても無駄だよ。ばればれだから。分からないのは津村君ぐらいじゃないの』

「ち、違う、よ?」

『そうなの? だったら、私が貰っちゃおうかな』

「だ、だ、駄目!」

『うそ』

「う」

『ほら、白状しなさいよ。好きなんでしょう?』

「………………………………うん」

 以上が土曜日の出来事で、うっかり口を滑らせてしまった雫は頭を抱えたい気分だった。あの三人のことだから、良い事をしていると言う建前を打ち立てながらも、本心ではこの状況を面白がっているだけとしか思えない。

 だからこそ、三人の思惑通りになるものかという、謎の負けん気を発揮して、雫はさっきから目を逸らせようと努力をしていた。

 結果として、まるでできていないが。

「雫」

 不意に、稔の口が動いて、名前を呼んだ。

 雫はすぐに言えなかった。代わりに心臓の音が大きく鳴った。

 稔がしている表情は、雫に見覚えがあった。例えば昼の休憩時、体育館裏に呼び出されて、そこにいた一人の男子生徒がしていた表情に。あるいは放課後、夕焼けの中の教室で。もしくは休みの日、公園に呼び出されて。それとも。それから。または。

「稔」

 雫も、目の前にいる相手の名前を呼んだ。まるで大切な物を奇麗な布で磨くように。

 静かに見つめ合う二人。リズムよく打ち鳴らされる心臓。呼吸の音。

 時間が凍り付いたみたいだ。

 雫は一瞬でも長くこの時間が続く事を願った。そしてそれは、目の前の大好きな少年も同じことを考えているんだろうと思った。

 だが、二人の間を引き裂くように、突然大きくメロディが鳴った。二人の肩が驚きで震えた。スマートフォンの着信音だ。それは雫のではない。けれど稔は一向に出ようとしない。呆然とした間抜け面を晒している。

「……出たら?」

 と、雫は言った。

「あ、ああ」

 稔は慌ててスマートフォンを手に取って、表示されている相手の名前を見て再度ぎょっとする。それからようやく電話で話し始めるのだった。

 雫はそんな彼の様子を見て、きっと相手は実花ちゃんなんだろうなと思った。そしてため息を吐いた。

 安堵のため息なのか、がっかりしてしまった故のため息なのか。それは彼女自身にもよく分かっていなかった。


 それからは特に何も起きなかった。

 三人が帰ってくると、ゲームで遊んで、お菓子を食べて過ごした。なぜか加奈のテンションが異様に高かったが、それ以外は普通だった。

 家に帰る道中、電車の中では稔も雫も加奈や春香と普通に喋っていた。しかしいざ電車から降りて、二人並んで歩き始めると、何も喋らなくなる。それは家の前に辿り着くまで続いた。ただ、

「……それじゃあ、また明日」

「……また明日」

 と、別れの挨拶だけは交わす。

 稔は家の中に入ると、早速実花の強襲を受けた。だが様相はいつもと違っていた。実花もそれに気づくと、すぐに手を止めた。何よりも手応えがなくて、つまらなかったのだ。

「どうしたの?」

 思わず実花は尋ねた。こんな事は初めてだった。けれど、

「なんでもない」

 と稔はいかにも元気がなさそうに答えるのだ。

 夕食の席でも、稔は何も話さない。両親もそんな稔を見て何も言わない。実花も何も言えなかった。

 皆が心配する視線を受け止めながら、稔は風呂場に入った。

 淡々と体中を洗った稔は、熱い湯に浸かる。

 頭の中に雫の姿や顔がこびりついて、離れてくれない。試しに違う事を考えようとしても、結局は雫の事に戻ってきてしまう。

 稔は風呂から出た。身体を隈無く拭き取ってから、自分の部屋に戻った。

 それからたっぷり三十分ほど迷った末に、稔はスマートフォンを手に取って、良光に電話をかける。相手は少し間を置いてから出た。夜遅いせいか、不機嫌そうな声だ。けれど今の稔に相手の事を気遣う余裕はなかった。

 だから、

「……もしかしたら、俺は、雫の事が好きなのかもしれない」

 と、単刀直入に言った。

『ようやくかよっ』

 悪友はスマートフォンに向けて、突っ込みを入れたのだった。

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