第2話

 銀の鍵で裏玄関を開けた早苗は、しばらく扉の前に立っていた。

 扉は静かで、人が入ってきそうな気配はない。それもそうかと早苗は扉に背を向け、左手のカウンターに入ろうとカウンターのへりに手をつけて添うように歩き出した。

 その時。カウンターにあるボールペンの入ったペン立てが、微かに振動した。カタカタっと。「ん?」と早苗はそれに視線を向ける。しかし、ボールペンは揺れない。気のせいかと思って足を踏み出そうとした時、再びカタカタッと揺れる。

「んん?」

 今度こそ見逃すまいと、早苗はペン立てを凝視した。しばらくして、再びカタタと揺れるそれ。またも揺れる。だんだん揺れの間隔が短くなっているのが分かる。

 そこで彼女は気づいた。揺れているのはペン立てではない、と。何か大きく重い音が少しずつ近づいてきている。それが、手をついているカウンターと、肌の感じる空気の振動で分かった。

 ドンッ、ドンッと。

 そして、次第に鼓膜に届く低くしめやかな声。

「渓の岩」ドドン「百畳をさへ敷きつべし」ドン「鬼の童子の現はれて舞へ」ドドドン。

 声の間に入るのは、合いの手のような重低音。太鼓より重いそれは、多くの何かが地面を踏みしめている音に聞こえた。

 現状をうまく理解出来ないままの早苗の頭によぎったのは、「与謝野鉄幹」という言葉だった。それは、どう聞いても彼が詠んだ短歌だったのだ。明治生まれの歌人の歌は、ある意味この図書館には相応しいのかもしれない。

 しかし、その歌が繰り返し繰り返し踏み鳴らす音と共に扉へと近づいてくるのを、早苗は固まったまま見ていた。カウンターの向こう側にもいけず、自分の代わりに震えるボールペンの音だけを心の頼りに、ただ立ち尽くしていた。

 そして、歌は止まる。扉のほんのすぐそば。そこまで来て、最後のドドドンの踏み鳴らしが終わった後、完全に音が消えた。

 ギィィ。

 洋館の扉は、重い。それがたとえ裏玄関であったとしても、だ。静かな図書館に、扉の開く耳障りな音が響く。

 次の瞬間。

「図書館だー!」

 扉の隙間から、小さい生き物たちが早苗の足元を駆け抜けて中へ飛び込んできた。まるでつむじ風だ。タイトスカートでなければ、きっと彼女のスカートの裾は大変なことになっていただろう。

 それが何であるかを把握するより先に、裏玄関の扉が完全に開く。ギギギギギと最後まで開かれたそこに、一枚の黒い羽が散る。

「たのもう」

 カラスの顔に修行僧の装束、そして一本下駄。背中には大きな黒い羽。早苗の脳裏を駆け抜けた言葉は「カラス天狗」、ついで「ハロウィン?」というものだった。しかし、彼女の中のカレンダーは、間違いなく五月を指している。

 カランコロンと下駄が鳴らされ、呆然としている早苗の前にカラス天狗が立ちはだかる。食われる、という生存本能の危機サインに、早苗が冷や汗びっしょりになっていたところ。

「返却をたのもう」

 その手から差し出される、数冊の本。反射的に、早苗は己の仕事を思い出した。

『みっつ』

『裏玄関の側にあるカウンターに座り、図書業務を行います』

 流平の声と共に甦るそれに、さっきまでビクとも動かなかった早苗の足が、動いた。カウンターを周って中に入ると、カラス天狗から3冊の本を受け取り、裏玄関専用のカード棚から該当する貸し出しカードを取り出す。数はそう多くないので、慌てていてもすぐに見つかった。

 日付スタンプの日付を確認して、スタンプ台に押し付けた後、カードにそれを押そうとした。しかし、手が震えてうまく的が定まらない。

 ああもうと、早苗は──すぅぅぅぅぅぅぅっと周囲の気圧が変わるほど大きく息を吸った。そして同じほど深く吐いた。

『うちの図書館のモットーは?』

 流平の声の記憶と共に強く閉じた目を開くと、カードの日付欄が綺麗に目に留まった。ぎゅっと今日の日付スタンプを押す。

『大らかな図書館です』

 ぎゅっ。少しばかり力を入れて押しすぎたかもしれない。数字がにじんでしまったがちゃんと読めはする。

「お待たせしてすみません。返却ありがとうございます」

 本の最後のページにあるポケットにカードを指し終え、早苗は丁重に本を後部の返却本箱に入れた。

「うむ」と、カラス天狗は神妙な顔で、カランコロンと中へと歩いて行く。

 その後ろから「お前、字ぃ読めねぇだろ?」「うるせぇ、絵本の絵は分かるんだよ」と、一本角の青鬼と二本角の赤鬼が口ゲンカしながら近づいてくる。

 返却本を差し出したのは、青鬼だけだった。赤鬼はそんな青鬼の後ろを通ってさっさと中へと入っていく。

「返却ありが……」

「おい待てよ、そっちに絵本はねぇよ」

 早苗の言葉も途中で、青鬼は赤鬼を追いかけて行ってしまった。

 更に、腕が六本ある男に、白い単衣(ひとえ)の着物を着た女など続く。本を借りている場合は、慣れた様子で本を差し出すし、そうでない場合は早苗のことも気にせず、どんどん奥へと入っていく。

「おいらで最後っと!」

 一番最後に入り込んできた、狐の尻尾と耳のついている着物姿の少年が、ギイイと裏玄関の扉を閉める。そして軽い足取りで近づいてきた彼は、カウンターに絵本を乗せた後、両手をそこにかけて伸び上がるようにして早苗を見上げた。その両手は、狐の手をしていた。

「うわー、女の人だー」

 少年の素直な感想に「うわーコスプレの人だー」と返したい気持ちは山々だったが、まだ彼女の唇は使い慣れた事務用語以外、思い通りにはならなかった。

 そんな彼女の側で、少年の耳がピコピコ動く。とてもよく出来ている。しかし、まったく怖さを感じない可愛らしい姿に、ここまでずっと脇に押しやってきた疑問を、早苗は口に出してみることにした。

「ねえ、聞いてもいい?」

 早苗は、カウンターに身を乗り出して、狐少年を見つめる。

「なあに?」

「そのお耳と尻尾と、このお手手は……本物?」

 次の瞬間、少年は慌てたように後ろに飛びのいた。そして獣の右手て頭の耳を、獣の左手で尻尾を押さえる。

「ち、違うよ、耳と尻尾なんかないよ。この手は……えっと、手袋だよっ!」

 少年はひどく焦っていた。どうやら彼にとっては、耳と尻尾はない方がいいらしい。それが逆に、早苗にジワジワと本物であると感じさせることとなる。

「あ、う、うん。ごめんね、耳も尻尾も見間違いだったみたい。可愛い手袋ね」

 早苗は追及するのをやめ、彼が置いた本の返却処理を始めた。カードを探す始める前に、本のタイトルを見る。

『てぶくろをかいに』

 きゅんっと、早苗の心の中の母性本能が強く締め付けられる気がした。か、可愛い、と。それを顔に出さないように努めながら、カードに日付スタンプを押す。

「はい、ありがとうございます。本、たしかに返していただきました」

 無意識にゆっくりになる言葉で丁寧に対応すると、少年の表情は明るく輝き、尻尾は激しく打ち振られた。上機嫌のまま、わーいと獣の両手を振り上げて、少年は中へと走っていく。

「あ、図書館の中は走らないでね」

 早苗が慌ててその小さな背中に声をかけると、「あっ」と少年の耳と尻尾は垂れ、トボトボと歩き出した。


 返却処理がひと段落した早苗は、まずはゆっくりと席に腰を下ろした。そのまま凝り固まっていた肩を下ろす。

「な、何なんだろう、さっきのは」

 分かっているのに分かっていないような、知っているのにそれを認めるには何か大きなものが邪魔しているような、そんなもやもやした気分だった。しかし、邪魔をしている大きなものの名前を、彼女はちゃんと知っている。

「常識」というものだ。

 それを取り払えば、まったく違う世界がこの図書館に広がっているのが分かる。その現実と完全には向かい合えていないものの、とりあえず分かることだけ確認する。

 早苗はとりあえず無事であること。そして、見た目はちょっと変わっているが、彼らはきちんと手順にのっとり本を返却したこと。

 返却箱に入れた本を一冊取り上げる。最後の少年の「てぶくろをかいに」だ。図書カードをポケットから取り出して見ると、そこには「きつねやまたろう」と書いてあった。そのあどけない文字に、ふふっと笑う。

 他にも「鞍馬天之介」「青キ小次ロウ」と書いてあった。前者は見事な達筆で、後者は少したどたどしく。この漢字の使い方からすると、「青木」ではなく「青鬼」と書いてアオキなのだろうかと早苗は思うと、ちょっと笑みが浮かんでいた。

『うちの図書館のモットーは?』

 流平が言ったあの言葉が、まさかここで自分を助けてくれるとは思わなかった。そして、どうして大らかな司書が必要かも、同時によく理解出来た気がした。こんな状況、気の小さな新人であれば悲鳴をあげて泣き出していてもおかしくない。そして、早苗もどちらかというと気が大きいとは決して言えない新人だった。別れ際に流平のあの言葉がなかったなら、本当は恐怖のあまりに泣いていたかもしれなかった。


 彼女は返却本を抱えて、見回りも兼ねてカウンターを出た。皆、自分の読みたい本のある部屋に入っているようで、玄関ホールや階段には誰もいない。

 最初に、笑い声が聞こえた児童書の部屋に入っていく。子供が転がってもいいように敷いているスポンジマットに座り込んで、本を開いている小さな鬼たち。さっき、扉の隙間から飛び出した最初のつむじ風は、きっと彼らだろう。

 さっきの狐の少年は、壁にもたれて絵本を開いている。ソファには、おかっぱの着物の女の子。そんな中でちょっと不似合いな赤鬼が、おっかなびっくり大きな手で絵本をめくっている。文字が読めないと言っていたので、ただ絵を楽しんでいるのだろう。

 そんな小さなグループの隙間を縫って、早苗は返却本を元の場所に戻す。次に彼女は、隣の部屋に入った。日本文学が置いてある部屋だ。ここでは、白い単衣の女性が、ソファで静かに本を開いていた。数冊テーブルに載せているところを見ると、次に借りる本を物色中なのだろう。その部屋は、何故か少し寒く感じられ、棚に本を差し込むとささっと早苗は部屋を出た。

 次に歴史の部屋に入ると、カラス天狗が真面目な顔で本を見比べている。芸術、建築関係の部屋には青鬼が。漢字を全部読めないようだが大丈夫だろうかと、ちらと心配して見つめると、寺院に飾ってある仁王像の写真を熱心に見ていた。「角があれば完璧だよな」と呟いていたが、早苗は聞かないふりをしてその部屋を出た。


 そうしている内に、時間はあっという間に過ぎていく。実質、彼らが図書館にいられる時間は、五時半くらいから七時まで。本を読むには、一時間半という時間はあまりに短い。

 残り十分を切った頃から、大きな組から本を持って貸し出しの受付が始まった。最初に現れたのは、カラス天狗だった。

 本は三冊。飛行機の本と鳥の図鑑。その間に挟まっている「源義経」の伝記。面白い組み合わせだなと、早苗は速やかに受付を行う。

 次に現れたのは青鬼。差し出したのは「泣いた赤鬼」という絵本だった。小学生低学年くらいの漢字なら読めそうな彼が選ぶにしては可愛いものだと思ったら、「ちげぇからな、それ」と突然早苗に向かってまくしたて始めた。

「別にオレの仲間が出てるからって借りるわけじゃねぇからな。赤鬼の、そう、赤鬼のヤツが字ぃ読めねぇから、オレが代わりに読んでやるんだよ」

 青いはずの顔は、何だか更に青味が濃くなった気がするが、追及する気など最初からなかった早苗は「そうですか」とだけ相槌を打った。「そ、そうさ」と青鬼は理解を得られたことに満足そうだった。

 単衣の着物の人は小泉八雲の本を何冊か。狐の少年が「ごんぎつね」を持ってきた時は、早苗はどうしようかと思った。彼が、この本の結末をきちんと受け入れられるだろうかと心配したのだ。けれど、本の世界は無限で、喜劇もあれば悲劇もある。喜劇だけを見て育つのが本当にいいことだとは早苗も思えず、うっすら涙目になりながら貸し出しの受付を行った。

 本を借り終えた者たちは、勝手に帰ることなく玄関ホールで語り合っている。彼らの間を抜けて、早苗は各部屋を回って閉館を告げた。

 小鬼たちが、絵本を放り出して走り出そうとしたので、早苗は小さな彼らを止めて、一緒に本を元の場所に戻してからホールに出す。

 一番威厳のあるカラス天狗に向かって、つい早苗は「これで全員でしょうか」と確認を取った。「うむ」と重々しく彼は頷いた。

「ではな」と天狗を先頭に、彼らは重い扉をギギギと開けて、暗い夜道へと出てゆく。狐の少年が、手袋の手を振ってくれたので早苗も小さく手を振り返した。

 全員が図書館を出ると扉が閉まる。そして、来た時と同じように言葉と足踏みが始まった。

「渓けはし」ドドン「鬼舌ふるひ去りたれば」ドン「河鹿いざなふ月射せよとも」ドドドン。

 帰りは「与謝野晶子」だった。与謝野夫婦より長く生きていそうな彼らが、その歌を知ったのは、この図書館でだろうかと、遠ざかる振動と声を聞きながら早苗は思った。

 その振動が、ボールペンを揺らすことがなくなったのを確認した後──彼女は銀の鍵で裏玄関を施錠した。


 早苗は、全部屋を回って電気を消して行く。

 それから、自分の上着と荷物を持って、最後に玄関ホールの電気を消すと、図書館はさっきまでが嘘のように真っ暗になった。こうなることは、最初から分かっていた。早苗は、鞄の中にいつも懐中電灯を入れている。この村は、本当に街灯が少なくて、夜はかなり足元が見えなくて困るからだ。早苗はそれを、初日の花見の後によく理解した。海老名の懐中電灯の先導がなければ、転ばずに帰るのは難しかっただろう。それからすぐに、彼女はマイ懐中電灯を買ったのだ。

 頼もしい懐中電灯の明かりの中、彼女は表玄関の鍵を開けて外に出る。そして、最後の仕事である鉄の鍵で扉の施錠を行った。

 鍵はこれひとつしかないため、休館日明けの火曜の朝まで大事に保管し、彼女が一番最初に来て鍵を開けることになる。鍵を大事に鞄にしまい、早苗が家に帰ろうと足を踏み出した時、向かいからこちらを照らす光に気づいた。

「終わりましたか?」

 館長の声だった。ほっとすると同時に、早苗は何だか彼が憎らしく感じた。もっとちゃんと説明してから任せてくれれば良かったのに、と。しかし同時に、もしもあれを自分の目で見る前に説明されたとしても、彼女はきっと信じることが出来なかっただろうとも思った。

「無事終わりました。鍵をお返ししましょうか?」と、報告しながら早苗は再び鞄を開けようとした。

「いえ、私はちょっと様子を見に来ただけですから、鍵は引き続き火曜日まで預かってください」

 静かな声だが、早苗には「日曜日の残業担当の仕事は、最後まで責任を持って全うして下さい」と言われた気がした。彼女は、鞄を開けるのをやめた。

「わざわざご心配いただき、ありがとうございました。いつも日曜日はああなのですか?」

 揺れる光に近づきながら、早苗が館長に話しかけると、彼が一人ではないことが分かった。懐中電灯を持つ館長より、もっと後方の闇の中に誰かのシルエットだけがうっすらと見えたのだ。がっしりとした大きな男の輪郭。

「海老名さん?」

 不思議に思って呼びかけると、シルエットはぎくっとした動きを見せる。

「あ、いや、大丈夫ならいいんだ。大丈夫なら。気をつけて帰れよ」と、じゃりっと地面を踏みしめた音と共に、声が遠ざかっていく。彼もどうやら心配して様子を見に来てくれたようだ。

 ぽかんとしていると、ふふふと館長が笑った。

「海老名くんは、田中さんが辞めるんじゃないかと、ちょっと心配してましたよ……田中さんが今日の担当になることを聞いて、初回だけでも自分も一緒に担当に入れないかと言ってきました」

 誰もいなくなった後方の闇を見つめて、館長が笑みを潜ませながら言葉を続ける。確かに、それはいい案に感じた。そうだったなら、きっと早苗も心強かったことだろう。

「でも、日曜のあの時間、図書館に入れる人間の数は一人と半分までと決まっているので、それは出来ないんですよね」

「一人と、半分?」

 不思議な表現に、早苗はその部分を復唱した。

「はい。だから田中さんと海老名くんが一緒に図書館にいると、どちらか片方が真っ二つになったかもしれませんね」

 柔らかい声で、館長は恐ろしいことを言った。ひぃっと、早苗は反射的に背筋を震わせていた。

「私が様子を見に来た時には、海老名くんはもうここにいましたよ。というか、帰らなかったようですね。鞄も持ったままでしたし」

 それを聞かされると、本当に彼には心配をかけたのだなあと、早苗は既に消えてしまった闇に向かって小さく会釈した。本人には、これっぽっちも伝わってはいないだろうが。

「では、司書寮まで送りましょうか」

 そんな早苗を、館長は促す。

「あ、いえ、そんな……一人で大丈夫です。すぐ裏ですし」

 彼女の答えに、館長はもう一度笑った。

「海老名くんが帰らなければ、隣同士だから送らせたんですがねえ……たまに彼は抜けている」

 快活な先輩司書を捕まえて抜けていると称され、つい早苗もくすっと笑ってしまった。これまであまり個人的な話をしたことがなかったので、前よりもずっと身近に感じられた。人には言えないような、びっくりする仕事の後だったせいかもしれない。

「さあ行きましょう。今日はどんな本が借りられたんですか?」

「そうですね、源義経とか泣いた赤鬼とか……ごんぎつね、とかですね」

 早苗の説明に、とても館長は楽しそうだった。「義経をまた借りたんですか」と、誰が借りたかは言っていないというのに、それだけで伝わったようだ。

「ごんぎつね……貸して良かったのですよね?」

 同じ楽しみを味わいきれない早苗が、気になっているそれを小さく呟くと、「田中さん」と隣を歩く館長に声をかけられた。

「司書はね、利用者の方が借りたい本を貸す仕事です。うちの図書館には、道に外れた本は一冊もありませんから、安心して貸し出しなさい」

 静かで、そして頼もしい言葉だった。「はい、はい」と思わず早苗は二回返事をして、それから二回頷いていた。


「それでは、よい休館日を」

 寮と言っても古い平屋の一戸建てだ。同じ造りの建物が三つ並んでいて、真ん中が流平の寮で、東側が早苗の寮である。館長は少し離れたところの一戸建てに家族と住んでいる。

 流平の家の玄関前には灯りがついたままで、早苗は彼が消し忘れているのではないだろうかと、少し心配になった。

「送っていただき、ありがとうございます」と、館長にお礼を言い、彼に見送られて早苗は懐中電灯で鍵を開けて家に入った。玄関の電気をつけたところで、外の懐中電灯は闇の中へと消えて行った。

 そしてまた、隣の家の玄関前の灯りも消えたのが分かった。


「はあ、今日は不思議な一日だったなあ。疲れたぁ」

 二つの灯りがなくなり、一人になったんだと開放的な気分になった途端、早苗は大きく伸びをした。これからまず、お風呂の準備だ。今日は遅くなると分かっていたので、お風呂掃除は朝の内にしておいた。後は、お湯をためるだけ。

 それから作り置きしておいたカレーを冷凍室から出してチンして、早苗の手抜き夕飯が始まる。

 全てすませたら、早苗は早々に布団に入る。疲れているはずなのに、不思議なことがありすぎたせいか、なかなか寝付けない。

 ぐるぐると今日の出来事を脳裏にめぐらせていたおかげで──その日の早苗の夢は、子狐が山に住む海老と戯れるという意味不明なものとなる。



 彼女の鞄の中では、鉄の鍵と銀の鍵もまた、自分が働くその時までひっそりと眠りについていたのだった。




『終』

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不思議な図書館の田中さん 霧島まるは @kirishima_maruha

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