「三月、別れと出会い。」(中)

 ——私、幽霊なんですよ。


 まるで何かのドラマの台詞のような言葉が脳内を駆け回っていた。秘められた意味を意図を意思を意志を理解しようと脳がフル回転しているのがよくわかる。しかし、結論はすぐには出なかった。その代わりに疑問が口をついて出る。


「幽霊、って、俺が知ってるあの?」


「あなたの幽霊がどんなイメージかはわかりませんけど、世間一般の幽霊ですよ。死んだのにまだこの世をふらふらしてる、そんな感じです」


「いや、嘘だろ……? あんなのメディアが勝手に作り上げた妄想だと……」


 あくまで平然と言いのける女子高生だが、俺は当然のごとく混乱の渦に包まれていた。何が本当なのか、何を信じたらいいのか、破茶滅茶だ。


 と、そこまで考えて、状況を俯瞰するべきだと結論を出す。考えすぎは毒だが、時に薬にもなるのだ。ひとまずは考えなければいけない。


 まず目の前の女子高生が嘘をついている可能性。泥棒として警察に連れて行かれることを恐れて虚言を吐き、解放してもらおうとしている。筋は通っている——が、目の前の光景がその可能性を限りなくゼロに近づけさせる。


「そもそも私、窓に映ってないじゃないですか。——ほら、これでもやっぱり信じられませんか?」


「…………」


 言葉に詰まるとはまさにこのことなのだろう。否定してきた存在が否定できなくなる矛盾。何か細工があるのだろう、疲れているだけだ、そんな言い訳が無意味であることは女子高生の態度と声色が物語っている。


 ここまで考えれば、俺の世界が狭かったと結論づけるほかない。


「……俺は、幽霊なんていないと思っていた。そんなものがいれば、世界は幽霊で溢れるだろうし、何より俺自身、見たことがなかったからだ。——今の今まではな」


「信じるんですか?」


 女子高生は不思議そうな顔をして、俺を見つめる。たしかに見ず知らずの女子高生を信じるなど、あまりに信じがたい。何より、俺は彼女を信じたわけではない。


 大家さんの実績。そして、何よりも信じられるのは花恋の言葉だ。考えすぎはよくないのだ。ついさっきまで考え尽くしてやろうとも思ったが、どうもその意味はないらしい。花恋の言う通り、目の前にある今が大事なのだろう。


 だから、言ってやるのだ。幽霊だとか人間だとかそんなものは後回しで、心があるものならば果たさなければいけない義務があるということを。


「幽霊かどうかなんてものに興味はない。ただ、今この状況で、お前がしなければいけないことはなんだ? 自分が幽霊だとか説明することじゃないだろう」


「あ……いや、そうですね。——ごめんなさい。人の家に勝手に入ったりして。まさか、誰かに見てもらえることがあるだなんて思ってなくて……本当にごめんなさい」


 女子高生は再び指を絡ませて、俺に目も合わせずに謝罪の言葉を呟いた。全く礼儀がなっていないが——反省していることは伝わった。通報しないと決めた以上、これ以上の何かを求めるのは無粋だ。これで泥棒疑惑の件は一件落着。


 と、何だかんだ言い訳をつけて、俺は本題に入ることにした。


「——それで、幽霊ってのは本当なのか? 正直、まだ信じられてないんだが……」


「ふふっ、興味津々じゃないですか」


「逆に、だ。生身の人間が幽霊を見て——しかも、ほとんど人間と変わらない姿の幽霊を見て、疑問に思わない奴がいるか。これで嘘だっていうなら、お前を賞賛するよ。もう俺の気持ちは不法侵入されたことより幽霊の方に向いている」


 女子高生と話しながら開け放たれたカーテンを閉め、ソファに座り込む。それに倣って彼女も、テーブルを挟んだ向こう側の床にスカートの裾を押さえて体育座りをして、口を開いた。


「私が幽霊っていうのは神に誓って、本当です。ただ、証明するものとなると、さっきの鏡やガラスに映らないってこと以外ありません。私、幽霊歴一年になるんですけど、色々試したんです。壁とかすり抜けられないかなぁとか、空を飛べるんじゃないかなぁとか。でも、結局、全部できませんでしたね。誰からも認識されない以外、普通の人間と変わりませんでした。あ、もちろん、お腹も空きますし、眠くもなるんですよ。でも、不思議と服とか身体は汚れませんね。あと、人の目の前で物とかを動かしても、気づくことはありませんでした。だから、本当に私のことを認識してくれたのはあなたが初めてで……あ、それでですね、案外面白いことに——」


「いや、ちょっと待て。許されたからといって、いきなり饒舌になるな。つまりはあれだな? 誰からも認識されないだけで人間と変わらない。ってことは、俺からすれば普通の人間と変わらない、と?」


 突然、幽霊に乗り移られたかのように——いや、幽霊が幽霊に乗り移られるなど不可思議そのものだが、とにかくまるで人が変わったように女子高生は語り始めた。慌てて制止をかけなければ、危うく小一時間は続きそうな勢いだ。


「そう、ですね。あなたからすれば普通の人間と同じってことになります。ほら、こうやって触ることもできますよ。——これでも、やっぱり、信じられませんか?」


 女子高生にしおれた声で問いかけられ、潤んだ瞳で見つめられ、華奢な手に手を握られ——どうして信じられないと言うことができるだろうか。まして、彼女は一年もの間、誰にも認識されてこなかったのだ。


 それに、これまでの女子高生の態度を見て、疑う奴などこの世にいるはずもない。


「信じる、っていうよりは、今のを見て信じることにした。たしかに、俺が幽霊だったなら、誰かの家に勝手に入り込みたい気持ちもわからんでもない。許されるかどうかは別としてな」


「あ、本当にそのことは……」


 女子高生は慌てて手を離して、三度、指を絡ませる。その姿に少し心を痛めて、また蒸し返すことを言ってしまったなと自省する。


「いい。終わったことだ。——それで、そこまで話すってことは何かしてほしいのか? 正直、幽霊として生きていくなら逃げるっていう手もあっただろう。まぁ、俺の世界が広がったお礼として、思い出の場所に行きたいとかなら、明日は休日だから行ってやっても構わないが?」


 同情、というわけではない。むしろ、自己中心的な理由だ。花恋にフラれて寂しい。年度の変わり目で仕事が忙しくて、疲れ果てた。だから、孤独を感じたくない。


 思い返せば、人と接することがあまり好きではない俺がこうやって話を続けている自体、すでに寂しさを埋めてくれる存在として女子高生を利用していたのかもしれない。ならば、お詫びの意味も込めて休日を一日費やすくらいのことはしてやるべきだろう。


「……少し無茶なお願いをしてもいいですか?」


「あぁ、俺にできることならやってやる」


 威勢良く啖呵を切って、俺はソファに踏ん反り返って女子高生の要求を待つ。一人暮らしの悲しいところだろうか。経済的にも時間的にも余裕があるのだ。できないことなどほとんどないに等しい。と、安易に考えていたのだが。


「——私を養ってくれませんか? ……あっ」


 衝撃の要求——それと同時に女子高生のお腹がゴロゴロと唸りを上げた。時計に目を向ければ既に二十一時を回っていた。先ほどの話が全て本当ならば、そろそろ空腹が我慢できなくなる時間帯だ。


 腹が減っては戦はできぬ。と言っても、これから始まるのは本物の戦ではないが、生活をかけた戦のようなものだ。それに俺もそろそろ何かを食べたい頃だった。


「とりあえず、晩飯にするか」


「そうですね」


 停戦協定である。




 ※ ※ ※ ※ ※ ※




 男の一人暮らしの夕飯など、とても他所の人に食べさせられるものではない。一番マシな時でコンビニ弁当、疲れ果ててコンビニにすら寄らない日には白米に醤油とチーズをかけるという、不健康極まりないメニューがテーブルに並ぶことになる。


 そして、まさしく今日はそういう日であった。


「え……これ、ですか?」


「文句を言うなら食うな。俺だって、思春期真っ只中の女子に食べさせるもんじゃないのはわかってる……が、飯を買う暇もなかったもんでな」


 職場を出てすぐにかかってきた花恋からの電話に夢中で、夕飯のことなど思考の外だった。もちろん家に自炊できるものがあるかどうかなど考えているはずもなく、結果出てきたのは醤油チーズ丼というわけだ。


「こんなものばっかり食べてるなんて、信じられませんね……」


「別に毎日これのわけじゃないがな——ってことで、俺に養われる気は削がれたか?」


 ゲテモノでも食うかのように醤油チーズ丼を口に放り込む女子高生を尻目に、俺は唐突に本題を持ち出した。


「……もう、その話を始めるんですか? 私としても、少し心の準備っていうものが……」


「自分からふっかけてきた話題だろ。それに、明日は休日だと言ったが、俺はもう眠い。話をしたいなら、ぱっぱとしてくれなきゃ困る」


 ただでさえ仕事で疲れているのだ。そこに花恋との別れ話。さらには幽霊との遭遇と、三重苦に平然としていられるほど俺の心は強くない。すでに、今すぐ寝たい気持ちで満たされているのだ。


「そうですけど……私から話すことなんて、ありませんよ。私を養ってほしいです。幽霊ですし、面倒くさいかもしれませんけど、養ってほしいです。本当にそれだけですよ」


 女子高生は箸を止めて、上目遣いで俺を見つめながら、そう話した。よく見れば可愛い顔立ちをしているもので、若さと可愛らしさに任せた卑怯なお願いだが、俺もここですんなりとわかりましたと言うわけにはいかない。一人の人間の生活がかかっているのだ。


「そうか……。たしかに、お前の言うこともわからなくもない。今までの発言を全て信じるならば、俺は一年ぶりに話した人だってことだろう? それならばと思わなくもないが……」


「それならぜひ私を——」


「人の話は最後まで聞け。……思わなくもないが、勢いのまま二つ返事で了承するのもどうかと思っている。幽霊のお前だから言うが、俺は今さっき二年間付き合った彼女にフラれてきたばかりだ。正直なところ傷心中で、お前を寂しさを埋める役割に利用してたことは否定できない。だからこそ、この感情に任せて、お前を養うなどと宣言していいのか、俺にはわかりかねる」


 全て本心だった。女子高生と出会ってから小一時間程度。花恋のことをあまり引きずっていないのは女子高生のおかげと言っても過言ではない。もし一人だったなら、またあれこれと考えすぎて、一人で悩み抜いたに違いない。そして、一人になりたくないと思う気持ちがないわけではない。


 だからこそ、俺は大人として自制しなければいけないのだ。いくら幽霊と言えども、人を一人養うということは人間の尊厳としての意味の命を預かる事と同じだ。軽々しく、ひとときの安らぎに任せて決めていいものではない。だが、そんなことは幽霊を一年やってきた女子高生にとっては小さな障害でしかなかったに違いない。


「——それなら、とりあえず明日だけ。明日だけ一緒に生活するっていうのはどうですか! 迷惑はかけませんし、できることならしますし、明日で判断してくれればいいので! それでも無理だっていうなら、潔く諦めますから!」


 女子高生はテーブルから身を乗り出して、そう提案した。俺の懸念にできるだけ配慮したお願いである。語尾も今までになく強く、彼女の養ってほしいという願いがどれほどまでに切実なものかが伝わってくる。


「…………」


 しかし、俺はそれでも決断できなかった。女子高生の願いは俺が受け止められるほど小さなものではない気がしたからだ。一年間、誰とも話せなかったと言っていた。そしてやっと話せたのが俺だとも。もし俺が向こうの立場なら、どれほど嬉しいだろうか。もし別れなければいけないなら、どれほど悲しいだろうか。


 はいと答えてもいいえと答えても、俺に彼女の一年間を背負える自信はなかった。


 と、不意に独り言のように、ボソッと女子高生が呟く。


「——そんなに考えないでください」


 女子高生は床の上で居住まいを正して、再び口を開く。


「そこまで重く考えなくていいですよ。別にあなたに会えなくたって死ぬわけじゃないですし……っていうか、もう死んでますし、明日っていう一瞬の幸せでも私は嬉しいんですから。もしご要望であれば、彼女にフラれた慰めも構いませんけど?」


「何をバカなこと言ってんだ——」


「そうですよ。私はそんなバカなことを言えるくらいには大丈夫です。たしかに幽霊になってから初めて話した人だったのではしゃぎはしましたけど……断られたら呪ってやるとか、そんなことは思ってませんから」


 そうやって言って、女子高生はぎこちなく笑った。ふと目を細めて、ほんの一瞬だけ悲しげな表情を見せて。それでは強がっていると言っているのと同じではないか。俺がそうさせたと言っているのと同じではないか。


 再び、花恋の言葉が思い出される。考えすぎ、未来や過去のことばかりで今を見ていない。——全く、せっかく元カノがくれたアドバイスを無下にするところだった。


 自分でもわかっていたはずだ。孤独は寂しいことを。誰かと一緒にいれば心が安らぐことを。それなのに責任だとか未来設計だとかそんなことばかりを考えて、今の女子高生の気持ちなど頭になかった。——本当にひどすぎる。


「……俺の部屋が散らかっているのは見たか?」


「え……あ、見ましたけど……まぁ男の人の部屋ですし、あんなものかなぁとは思いますけど……」


「とても一人じゃ片付ける気が起きなくてな。明日手伝ってくれ」


「——っ! わかりました!」


 少し遠回りな言い方だが、どうやら伝わったようだ。女子高生の顔から偽物の笑顔が剥がれ落ち、彼女は本物の笑みを浮かべる。そして一筋の涙を流して、「あ、すいません。嬉しくて……」とあたふたと言い訳を始める。


 その姿は生きている人間よりもよっぽど人間らしくて、あまりに若々しくて、歳をとった俺にはやけに眩しく見えた。


「ぱっぱと飯食って寝るぞ。ベッドはお前が使え。俺はソファで寝る」


「いや、そんな……」


「いい。いくらなんでも、お前をソファで寝かすなんてしない。いいから食え。家から追い出すぞ」


「あぁー! それはダメです! 今すぐ食べます!」


 女子高生はその後もああだこうだと叫びながら、チーズ醤油丼を口にかきこんだ。それが好物であるかのように、本当に美味しそうに食べていた。


 そんな彼女を俺はソファに寝転がりながら見つめて、一年以上会っていない姉の姿を思い出す。一人暮らしを始める前は姉のおかげでいつも夕飯の時間は騒がしかった。それから数分後、懐かしい光景を思い出し、女子高生の騒がしさにどこか心地よさを感じながら、ついに俺は眠気に負けた。

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