半透明なしあわせ

syatyo

「春、さくらと出会い。」

「春、さくらと出会い。」①

「三月、別れと出会い。」(上)

「私たちって、やっぱり合わないと思うの。染井は私のことをたくさん考えてくれるけど、私は自分のことで手一杯。染井も私の愛が感じられなくて、疲れちゃう——別れた方が合理的でしょう?」


「違う、俺は別に見返りを求めて花恋のことを考えてたわけじゃない! 俺のことなんて少しも考えてくれてなくたって俺は——」


「もういいって。いくら説明されても、私の考えは変わらないよ。いっぱい私のことを助けてくれてありがとう。でもね、元カノとして一つだけアドバイス。人のこと、たくさん考えてくれるのはいいけど、考えすぎもダメだよ。染井が話してくれるのは全部、未来とか過去の話ばっかり。本当に大事なのは今だと私は思うな。——それじゃ、二年もありがとうね。ばいばい」


「おいっ!」


 ツーツーと声が届かないことを知らせる音が閑静な住宅街で静かに響く。その音で脱力して、未練がましく花恋のプロフィール画像を映し出す携帯を片手に、俺は小さな星が煌めく夜空を仰いだ。


 三月三十日。ちょうど今日で付き合ってから二年が経ち、お互いに将来について話し合う——そんな幻想は今しがた崩れ去った。


 電話を通して、苗字で呼ばれ、元カノと宣言されて、別れを告げられた。ここまでされて電話をかけ直すほど俺も馬鹿な男ではない。俺は見限られたのだ。それも他の誰でもない自分のせいで。


 きっかけは何だったのだろう、どうすれば別れずに済んだのだろう。そんな益体のない考えばかりが浮かんできて、その度に忘れようと自分に言い聞かせる。しかし、未練たちは錆のようにこびりついて剥がれ落ちない。


「考えすぎ、か……」


 元カノからの最後のアドバイス。さすが二年も付き合っていただけあって、的を射ている。考えまいと無心になろうとしても、すぐに原点へ回帰してしまうのだ。その度に心を痛めて、また思考の奥底へと潜っていく。


 俺は舗装されていないアスファルトに視線を落とす。先ほどとは違って視界を満たすのはロマンの一つもない地面だ。だが、それでいいのだ。俺が今見るべきは夢で溢れる未来ではない。生きるので精一杯の今なのだ。


 正論のような言い訳のような思考回路を経て、俺は安アパートの階段を上がる。ミシミシと、年季を感じさせる音が今日は一段とうるさい。廊下の天井にぶら下がる時代遅れの白熱電球がやけに眩しい。


 そんな風に自分勝手な苛立ちを募らせながら自室のドアノブをひねり——違和感を覚える。


「あれ?」


 違和感を抱えたままドアノブを引けば、少し錆びついた扉が俺の意思に従って開いた。消したはずの部屋の電気は点いたまま。最近は起動すらしていないゲームの起動音がけたたましく鳴っている。——脳内で一つの可能性が浮かび上がる。


 いや、考えすぎだと一蹴されたばかりではないか。状況証拠だけで決めつけるのは良くない。だが、得てして不幸というものは連続して訪れるものだ。今日がその日だとしても不思議なことではない。——と、不意に背後から肩を叩かれる。


「染井さん? どうかされましたか?」


「え、あ、大家さん。いえ、少し考え事です。大丈夫ですよ」


 俺はたどたどしく答えて、「それじゃあ」と手を振る大家さんに手を振り返す。疑心暗鬼の時に背後から肩を叩かれるというのは心臓に悪い。危うく大声を上げるところだった——が、俺はどうして大家さんの存在を忘れていたのだろうかと、今までの不安を一蹴する。


 俺がこのアパートに住み始めてから丸一年。この短い期間で大家さんが未然に防いだ空き巣の数、実に十五。近所では『人間セキュリティ』の異名を持つ有名人だ。それなのに空き巣を疑うなんて、失礼に他ならない。


 俺は心の中で大家さんに謝って、安堵感に包まれたまま家に入る。何事もなかったかのように、いつもと変わらぬ動作で。靴を脱ぎ、カバンを下ろし、休息を求めて寝室に移動して——、


「ほうほう、この『SOMEI0610』がメインアカウント、と……これでいいですね——あ」


「おい……」


 乱雑に置かれたゲーム機の前で座り込む見覚えのない制服姿の女子高生。その姿をまじまじと見つめる二十四歳男性。一見すれば仲のいい兄弟、あるいは変態に狙われる女子高生といったところだろうが、これに限ってはそのどちらでもない。


「ち、違うんです! 私は……」


「どろぼ——」


「あぁー!」


 タックルされた。




 ※ ※ ※ ※ ※ ※




 床で正座する女子高生とそれを上から見下ろす二十四歳男性。一見すれば悪いことをした女子高生を叱る男性というところで、まさしくその通りである。


「まあ俺も鬼じゃない。話くらいは聞いてやろう」


 女子高生の本気のタックルを受けて数分。痛みやら混乱やら屈辱やらで苦しみぬいた末、俺はお灸を据えてやることにした。俺がもがき苦しんでいる間に逃走することはなく、それどころか心配をされたのだから、根っからの悪ではないのだろう。そんな彼女を通報するのは心が痛む。


「……どうせ言っても信じてくれませんよ」


「そりゃあ『私は悪くない』なんて言い始めた日には速攻で警察に突き出してやる。だが、悪いとは思ってるんだろ?」


「思ってますけど……まさか見つかるなんて思ってませんでしたし、私の方こそ言いたいことがあるくらいで……」


「なんだ、言ってみろ」


 もじもじと伏し目がちに指を絡ませながら話す女子高生だが、情状酌量はない。いや、通報していない時点で説得力などないのだが、いくら落ち込まれようと手放しで許すつもりなどない。しかし、話は通じる相手のようで、ひとまずは全て吐かせることにした——のだが。


「私からしたら、あなたは鬼より幽霊なのかなぁ、みたいに思うんですけど、違いますか?」


「はぁ?」


 想定外もいいところだ。ボールどころか、デッドボールである。謝罪の言葉や反省の言葉を期待していたが、まさか戯言を言うとは。目の前の女子高生は全く自分の立場というものがわかっていないらしい。


「それは俺をおちょくってると思っていいんだな? ——よし、今すぐ警察に連れて行ってやる」


「いや違うんです! 別におちょくってるわけじゃなくて、あなたが幽霊みたいなので……って、別に見た目がとかじゃなくてですね」


「よくわかった。警察官に会いたいってことだな」


 俺の仕事は終了した。一人の大人として子どもを正しい道に導くというのは難しい。あとは法に任せるのみだ。ポケットに入っている忌々しき携帯を取り出し、110と番号を入力して——すんでのところで、「待ってください!」という女子高生の声に制止させられる。


「またふざけた事を言うのか?」


「違います! いや、そもそもふざけた気はなくてですね……とにかく! 信じてもらえない事を承知で、話しますよ!」


 先ほどのしおれた態度は何処へやら。勢いよく立ち上がったかと思えば、すでに日が沈んでいるというのにカーテンを開け放った。


「おい、ご近所さんから見られるだろ」


 女子高生と部屋で二人きり。こんな場面を見られては、いくら年寄りが多くたって井戸端会議は俺の話で持ちきりになってしまう。なんとか事の発覚を避けようとカーテンに手を伸ばすが、立ちはだかる女子高生に阻まれて届かない。そして——、


「いいから窓を見てください! ——私、幽霊なんですよ!」


 そう告白した女子高生の姿は窓ガラスには映っていなかった。

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