事故物件YouTuber

台上ありん

事故物件YouTuber

 どうも、みなさん。初めまして。

 これがユーチューブデビューで動画初投稿になります、カイと申します。

 えっと、僕がこの動画で何をするかというと……、特に何もしないです。この部屋、都内某所にある学生向けのワンルームマンションなんですが、僕が今日からやることは、ここに住むだけです。

 それの何がおもしろいんだ、と思われるでしょうが、実はこの部屋、いわくつきなんです。

 具体的には言えませんが、二年ほど前に都内の某所で20代の女性が自室で殺される事件があったの、覚えていらっしゃる方もおられるでしょうが、その殺人事件があったのがまさしくこの場所なんです。

 要するに、世間でいうところの事故物件ってやつですね。

 不動産屋さんが言うには、事件の半年後くらいにひとりだけこの部屋に入居したいという人がやってきたらしいんですが、なぜか1か月も経たずに別のところに引っ越したらしいんですよ。まるで何かから逃げるように。

 それからずっと入居者はいなかったらしいんですが、ようやく僕がここに入ることになった、と。不動産屋にはやっと入る人が来てくれたと感謝されましたよ。

 あ、家賃は月に共益費込みで2万3000円です。破格に安いでしょ。このへんの相場だと、この程度の物件でも、7万円から9万円くらいが妥当らしいです。

 いちおう、「オバケは出るんですか?」と聞いてみたんですが、その不動産屋の営業の人はそういうのをぜんぜん信じてないらしくて、「出るわけないでしょ」と笑われました。

 その人は、いわゆる事故物件っていうのを、ここだけじゃなくてほかにもいくつか仲介をしたところがあるみたいで、「そんなことイチイチ気にしてたら商売になりませんよ」なんて言ってましたね。

 事故物件にもランクがあるらしくて、殺人がA級、自殺がB級、自然死で腐乱死体はC級で、無理心中がS級。S級がいちばん家賃が安くなるらしいです。何せ無理心中は、殺人と自殺のコンボですからって言ってて、僕は苦笑するしかなかったですね。

 あと、事故物件と呼んでいいのかどうかはわからないけど、近所に暴力団の事務所があったり裏社会の人間が関わってる物件もS級クラスに家賃が安くなるらしいです。まあ、そんなところには死んでも住みたくないけど。

 僕は今日引っ越してきたばかりで、ほら、洋服とかほかの荷物はまだ段ボールに入ったまんま、とりあえずパソコンとスマホだけ出して動画撮影してるところです。

 今日からできる限り部屋の様子を撮影して、はたして心霊現象的なものが撮れるのか、実験していきたいと思ってます。

 今の僕のスタンスを語っておくと、僕は幽霊とかオバケのたぐいは一切信じてないです。もちろん今まで一度も見たことないです。だからこそ、こんな実験ができるんですけどね。


 次の動画投稿はいつになるかまだ具体的に予定立ててませんが、近いうちにまた何か報告したいと思います。

 それでは、ご視聴ありがとうございました。事故物件ユーチューバーのカイでした。チャンネル登録よろしくお願いします。


***


 貝塚高志はそこまで言うと、スマホ画面の録画停止ボタンを押した。

 初めての一人での動画撮影は想像していたよりも緊張したが、それなりにうまく話せたような気がした。

 しかし、画面に向かって独り言を言うというのは、なんともみじめな作業だ。もちろん誰かが見てくれるということを前提に話しかけるのだが、撮影してる最中には誰が見るのか、そもそもこの動画を見る人が一人でもいるのか、まったく確証がない。

 それがあまりに虚しかったので、貝塚は撮ったばかりの動画を見返すことはせず、スマホをまだ片付いていない段ボールの上に置くと、冷たいフローリングの上に大の字になって寝ころがった。

 この六畳にも満たない狭い部屋で殺された女もこんな感じて倒れているところを発見されたんだろうな。貝塚はそんなことを考えた。


 貝塚はここに住みたくて住むことにしたのではない。ほかに選択肢がなかったのだ。

 7年前に大学進学と同時に上京。田舎の高校では誰も仲間がおらず一人でエレキギターを弾いていたのだが、大学に入ってようやく、念願のバンドを結成することができた。ツインギターの5人編成で、全員同い年の男だった。

 バンド名は「ブラックバス」という多少ふざけたものだったが、ハーモニックマイナーを用いたヘヴィメタルを基調としながらも、スローテンポのバラードの楽曲を演奏することが多く、そのほとんどが貝塚が作詞作曲したものだった。

 ブラックバスは小さなライブハウスを根城に地道に活動を繰り返し、徐々に女子高校生や大学生を中心に人気を得るようになった。活動を始めて2年経ったころには、ライブハウスの看板バンドのような地位になった。

 バンドには専属のおっかけとも言うべき固定ファンが付いて、その数はおおよそ80人ほどだった。しかしその80人の内訳は、ほぼ半分がベース担当トシミツのファンで、カイこと貝塚の人気は2番手と言ったところだった。トシミツが特別顔がいいとか演奏がうまいということはなかったのだが、何せ身長が190センチ近くあるために、存在感はメンバーのなかで際立っていた。

 貝塚は別に人気者になりたかったわけではない。ただ一緒に音楽を演奏する仲間が欲しかっただけだった。しかし、自分の演奏に歓喜の声を上げる観客の姿を見ていると、いつの間にかもっと人気になりたい、もっと有名になりたいという欲求を抑えきれなくなった。

 おぼろげながらも大学卒業後もプロミュージシャンとして活動して音楽でメシを食っていきたいと考えたのは大学3回生の梅雨のころで、そのころちょうど某大手レコード会社が主催するコンテストの出場者受け付けが始まっていた。

 貝塚はバンドメンバーと相談したうえで、これに参加することを決めた。自信はあった。夢が手を伸ばせばすぐ届く場所にあると確信した。いつかは日本武道館でライブができるんじゃないか。そんな妄想さえ抑えきれなかった。

 しかしコンテスト1次予選を1週間後に控えた7月下旬、いきなりメンバーが相次いで不幸に見舞われた。サブギター担当のヒロが交通事故で腕を骨折して入院。やむなく曲のアレンジをギター1本でどうにかなるものに変更して4人編成のバンドとして出場することしたのだが、今度は1番人気でベースのトシミツが、結核などというやや懐かしいが物騒な響きのする感染症に罹患し、強制的に施設に隔離されてしまった。

 貝塚はなんとかほかのベーシストへ代役で出演してもらえないかと知り合いを駆けずり回ったが、人気バンドの有名メンバーの代わりを引き受けたがる人材はとうとう見つからなかった。

 優勝候補の大本命だったブラックバスは、大会から棄権することになった。

 ヒロの骨折が回復し、トシミツが退院してからバンドは活動を再開したが、不可抗力ではあるが大きな目標を失ってしまったことで、ヒロやトシミツとほかのメンバーとの間にすきま風が吹くようになった。誰も口には出さなかったが、練習中も防音設備の整ったスタジオのなかは、「お前たちのせいで大会に出られなかった」という空気で満ちることになった。

 やがてふたりはブラックバスを脱退することになった。

 インターネット掲示板を通じて新たなメンバーを募集し、間もなく新たなベースとギターが加入したのだが、この二人は技術的に劣るものがあり、また新加入のふたりとは、初期メンバー同士にのみに持ち得る独特の連帯感はとうとう感じらなかった。

 ライブを重ねるごとに増えていっていたはずのファンは、今度はライブを重ねるごとに目に見えて減っていった。

 大学3年の2月、ブラックバスは正式に解散した。

 それでも音楽活動を諦めきれなかった貝塚は、非常に高音域の伸びがいい新たな歌い手を相方として、今度は二人組のデュオとして音楽活動を再開した。しかし、今度はヘヴィメタルではなく、エレキギターからハミングバードに持ち替えて、しっとりとしたアコースティックデュオとして再出発したのだった。

 4人から6人の頭数が必要なメタルバンドでは、どうしても長く活動をするとメンバーのなかにそれぞれ思うところが生じてくるようになると、貝塚はブラックバスの活動を通じて実感した。ヒロとトシミツとの関係がうまくいかなくなったのも、コンテストに出場できなかったというのは単なるきっかけに過ぎず、それ以前より何かしっくり来ない感情を抱いていた。

 新たな相方であるレオとは、偶然に道端で知り合った。レオはストリートミュージシャンとして路上でギターを弾いて歌を歌っていた。

 道端を歩いていて見つけたその姿は、短髪の黒髪で細めの体型をしたレオは、音楽よりもマラソンなどの持久力を要するスポーツに向いていそうだった。何気なく耳に入ってきた、地味なストリートミュージシャンの歌声、貝塚はそれ一目ぼれした。一昔前に流行った邦楽の某ユニットの曲を歌っていたのだが、やや丸みはあるが突き抜ける感じのある声は、誰にでも出せるものではない。

 ただレオはギターがひどく下手だった。FやB♭などのコードはうまくフレットを押さえられず、だらしなく鈍い音を立てていた。

「ちょっと、貸してみな」

 そう言って、レオが抱えているギターをやや強引に奪い取り、誰もが知ってるジョン・レノンの名曲を貝塚が弾くと、まだ名も知らないその男はその演奏に合わせて見事な声で歌い上げた。

 ふたりはすぐに意気投合して、その日のうちに居酒屋で泥酔するまでともに呑んだ。まるで昔からの親友であるかのように感じた。

 レオという名前は、驚いたことに本名ということだった。歳は貝塚のふたつ下。レオは学校には通っておらず、形式的に父が経営している会社の役員ということになってはいるが、実質的には無職の、典型的な金持ちのせがれだった。

「K&L」という安易なユニット名で新たに活動を再開したが、ブラックバスとはぜんぜん違う曲を演奏することになったため、かつてのファンは一部を除きほぼすべて去っていった。

 結局、自分の人気はブラックバスという入れ物があったからこそだとカイは思い知ったのだが、しかし一度手に入れて満たされたはずの名誉欲あるいは自己顕示欲を抑えきることはできずに、ずるずるといまいちパッとしないK&Lの活動をだらだらと継続した。

 そうするうちに貝塚はしぜんと就職活動もおろそかになった。同じ学部の学生たちが次々と内定を獲得するなか、なぜか焦りを感じなかった。自分はいったい何をしたいのだろう。生まれてから初めて、自分は何者なのかということを真剣に考え始めた。

 大学卒業後は、ブラックバス時代からの熱心なファンだった女の家に転がり込むことになった。この女は佐藤美雪という名前で、カイよりも6つ年上の会社員だった。

 貝塚は近所の24時間営業のカラオケボックスで夜勤のアルバイトをしながら音楽活動を続けていたが、その収入だけではとても自らの生計を立てることは不可能だったため、美雪をうまく言いくるめて彼女の部屋に出入りするうちに、同棲しようと持ち掛けたのだった。

 女に養ってもらって、音楽活動を続ける。

 貝塚はいつの間にか絵に描いたような売れないアマチュアミュージシャンの典型例に収まってしまった。

 美雪は最初は、熱心な貝塚の支持者であった。むしろ、あのあこがれていたカイがいつも家にいるということに幸せを感じて、夜の8時前から夜勤のアルバイトに出るカイに弁当を持たせ、身体を求められれば惜しみなく与え、ときには小遣いさえも渡して、彼氏の音楽活動を支える甲斐甲斐しい内縁の妻の役割を果たしていた。

 しかし、ほかのことはともかく、貝塚の度重なる浮気癖だけはどうにも我慢することができなかった。バンド時代は曲のあいだのMCを担当するのは貝塚で、それなりに人を楽しませる話術を身に着けていたせいか、貝塚はそれなりに女にモテた。また貝塚も、好みの女を見つければ積極的に自分から動くことにほぼためらいはなかった。

 浮気が発覚するたびにふたりはケンカをする、というよりも貝塚が一方的に謝って美雪の許しを請うたのだが、同棲を始めて約2年半後にとうとう、

「出て行って」と言われてしまった。

 貝塚は涙を流しながら土下座をしてこの部屋に留めてもらうよう頼み込んだが、美雪の決心はもはや揺るがないものになっていた。

「田舎に帰って、お見合いをするのよ。だからもちろんこの部屋の賃貸契約も解約するから、謝られてどうにかできることじゃないのよ。来月末までに荷物まとめて、出て行って。出て行かないなら、家賃はあなたが全額払って」

 お見合いうんぬんの話は出まかせだろうが、取りつく島もなかった。

 収入はほぼカラオケ店のバイトだけで、アマチュアミュージシャンとしての貝塚の収入は、ゼロではないものの限りなくゼロに近いもので、むしろ交通費を支払えばマイナスになることさえあった。そんな貝塚にとって、新たに住む部屋探しは極めて難航した。月々のカネを勘定してみたら、どう考えても家賃4万円以上の部屋に住むのも無理だった。たとえどんなに古い物件であっても、都内にそんな安い部屋があるわけはない。

 不動産屋を何軒か梯子して、「もっと安い部屋ないですか」と繰り返し問ううちに紹介されたのが、この事故物件だった。貝塚は多少ためらいはしたものの、内見させてもらうことにした。

 その建物は、6階建てでワンフロアに4つ部屋が配置されていた。窓から出っ張ったベランダが黄色く塗装されている。

 家賃2万円。共益費3000円。

 部屋のなかはいちおう六畳間ということになっているらしいが、部屋の角に建物の柱が出っ張っているため、実際はそれよりも少し狭そうだ。美雪の部屋から近く、引っ越し作業も楽に済ませられる。二階の角部屋で、隣室は事件があってすぐに住人が別のところへ引っ越しして以来、空き室になっているらしい。ギターの大きな音を立てても、隣人がいないなら怒られることもない。

 貝塚はここに住むことを決断した。


 上半身を起こして、部屋を見回した。フローリングの洋室で、壁紙クロスは白地に3センチくらいの幅ごとにクリーム色の線が上下に通っている。キッチンは狭く、電気コンロがひとつあるばかりで、およそ料理をするには適していない作りになっていた。ユニットバスで風呂場は膝を抱えて体育座りをするのでいっぱい程度。典型的な学生をターゲットとした一人暮らし向けのワンルームだ。

 事故物件の「事故」の対象となる殺人事件に関しては、貝塚もよく承知をしていた。報道によると、被害者は吉川凛音という名の20歳の女性。歯科衛生士を目指していた、中国地方出身の専門学校生だった。

 発見された遺体はかなり激しく腐乱していたが、胸から腹に複数の刺し傷があったことから、警察は殺人事件と断定。部屋のなかは荒らされた様子もないことから、顔見知りによる殺人として捜査。しかし目撃者はほぼ皆無で、この建物はオートロックでもなく当時は防犯カメラも設置されていないため、手がかりとなるものがまったく残っていなかった。

 今も犯人は見つかっていない。

 インターネット上では推理小説やミステリーの愛好家らしき有象無象の面々が犯人像をそれぞれ勝手にプロファイルしていたが、提出された犯人像は男か女かいずれかで年齢は10代後半から70代までと広く分布していた。

 貝塚が事故物件から動画を撮影して、動画投稿サイトにアップロードしようと思ったのは、この部屋に引っ越しすることを決断したのとほぼ同時だった。

 世の中にユーチューバーという珍妙な職業が発生しているということはもちろん貝塚も知っていた。バンド時代のライブハウスでの動画を、誰が撮影したのか無断でユーチューブにアップロードされていたこともあった。貝塚をはじめバンドメンバーはすべて、それに対して不愉快に思うことはなく、むしろ宣伝になるからと特に削除を依頼することはせず放置していた。おそらくその動画は今でも残っている。

 実は半年ほど前に、貝塚は自分で動画を撮ってユーチューブにアップしたことがあった。「ギターの弾き方教えます」というタイトルで、エレキギターで簡単なコードやアルペジオなどを弾く動画だったのだが、インターネット上にはすでに似たようなことをやっているユーチューバーであふれていて、視聴者にはまったく相手にされなかった。再生数は累計で50に満たないものだった。

 とにかく再生数を上げるには、ほかの人が絶対にやらないようなことをやるしかない。

 しかし、自分に音楽のほかに何ができるのだろうか。不動産屋で契約の手続きを進めながらそんなことを考えていたが、ひょっとしてこの事故物件に住むというのは誰もが経験できることでもなし、ここで動画を撮って配信するということだけでも、ほかのユーチューバーと差別化できるのではないだろうか。

 おもしろい動画を投稿することで注目されれば、ミュージシャンとして自分を売り込む機会になるだろうし、注目されなかったとしても、それはそれでただインターネット上に誰も見ない動画が少し増えたというだけで貝塚に害を生じるものではない。

 動画の広告収入で稼ごうという気は全くない。ちょっと調べてみたところによると、広告収入だけで生活するには1日に10万アクセス以上が必要で、かなり繁雑な手続きを要するらしく、煩わしかった。

 とりあえず人目を集める。それが動画投稿の目的だった。

 冷たいフローリングの床の上にノートパソコンを置いて電源を起動させせ、撮影したばかりのユーチューブデビュー作となる動画をスマホからパソコンに転送させた。

 そして、その動画をパソコンの画面で再生した。

 ――どうも、みなさん。初めまして。

 ――これがYouTubeデビューで動画初投稿になります、カイと申します。

 先ほど自分が発した声が聞こえて来る。撮影機材がスマホというお手軽なものであるせいか、画面で見る自分の姿は、現実の自分よりも全体的に少し濃い色をしているように感じた。深い青色のTシャツを着ているのだが、画面を通すと、黒に近い灰色に見える。

 画面のなかの自分が、少し緊張した顔付きで言葉を続ける。

 ――不動産屋さんが言うには、事件の半年後くらいにひとりだけこの部屋に入居したいという人がやってきたらしいんですが、なぜか1か月も経たずに別のところに引っ越したらしいんですよ。まるで何かから逃げるように。

 内見させてもらったときに、不動産屋はたしかにそういうことを言っていた。貝塚にとっては1か月だけここに住んでいたその人間は前の入居者ということになるが、その男あるいは女は短い期間にいったい何があったというのだろうか。

 不動産屋は事故物件であることを考慮しても2万円という家賃は破格に安いということだった。何せ大家が、誰でもいいから早く入居してもらって、事故物件というレッテルを剥がしたいという理由からこの価格設定になったらしい。

 ちなみに、事故が起こった次の入居者には、事故の内容を告知する義務があるが、その次の入居者には告知する義務が免れるというふうに世間一般では言われているが、厳密な規則はないらしく、かなり恣意的にこの規則は運用されている。貝塚は事故の次の次の入居者ということになるので、告知義務は発生しないはずなのだが、後から面倒なことが生じるのを未然に防ぐには、1か月だけの入居者しか経ていないこの部屋はまだ事故物件として扱うのが妥当だということだった。

 いずれにせよ、人が死んで家賃が安くなるなら、ぜひ死んでいてほしい。貝塚は本音でそう思った。

 ――今日からできる限り部屋の様子を撮影して、はたして心霊現象的な何かが撮れるのか、実験していきたいと思ってます。

 相方のレオには、こんな動画を投稿することはもちろん相談していない。もし知られたら、レオはどんな顔をするのだろう。金持ちのボンボンらしく、レオは基本的におおらかで温和な性格で、どんなことでもけっこう平気で受け入れる。きっと知られても、笑ってすますに違いないだろう。

 貝塚はそう決めつけると、パソコンのブラウザでユーチューブにログインすると、動画をアップロードした。


***


 どうもみなさん、こんばんは。今日は10月18日。引っ越してきて2日目です。事故物件ユーチューバーのカイです。

 まだ片づけが終わってなくて、昨日はパソコンと布団だけを引っ張り出して寝たんですが、特に異常は何にもなかったですね。

 普通に風呂に入って、メシは近所の牛丼屋で食べたんですけど。

 ちょっとだけ金縛りに遭うとか、何かラップ音がするとか、期待してたんですけど、本当に何にもなかったんです。

 ただ、部屋のなかにまだぜんぜんモノが無いせいか、やたら寒いんだよね、この部屋。まあそれは近いうちにどうにかなるでしょう。

 そういえば僕、ストーブとか暖房器具もってないから、そのうち電器屋に買いに行こうかな。

 僕はこれからバイトに行くんで、取り急ぎ事故物件二日目の動画でした。

 ご視聴ありがとうございました。事故物件ユーチューバーのカイでした。チャンネル登録お願いします。


***


 そこまで言うと、貝塚はスマホで撮った動画を保存して、玄関で靴を履いて事故物件の部屋を出た。

 バイト先のカラオケボックスは歩いて通える距離にあるが、前に住んでいた美雪の部屋よりは1キロほど遠くなっているため、30分ほど早く家を出た。

 貝塚はオバケのたぐいを信じていないのだが、事故物件から足を踏み出すと少しだけホッとした気分になって、自分でも不思議だった。ふつうの部屋で生活している人なら、自室に戻ったときにこそ安心感を得られるはずなのだが。もしかしたら、自分も心のどこかにこの部屋に対して恐怖心のようなものを感じているのかもしれない。そんな考えが頭をかすめた。

 昨日アップロードした動画は、半日で72の再生数があった。グッド評価とバッド評価はそれぞれ3で同数だった。

 この72という数字は、貝塚にとって意外といっていいほど大きなものだった。レオとのユニットK&Lが路上でゲリラ的にライブをやったとしても、立ち止まって聞いてくれる客はせいぜい10人といったところが関の山だ。インターネット上の、ほぼ初投稿の動画など、5アクセスもあればいいほうだと予想していた。

 72という再生数を見て、手ごたえを感じたというわけではない。72という数字は客観的な評価としては、ゼロとなんら変わらないものだろう。

 しかし貝塚は、出どころのよくわからない興奮を感じて、本来は撮影する予定のなかった2日目の動画を取り急ぎバイト出勤前に簡単に撮影することにしたのだった。

 このとき感じた高揚感と緊張感は、初めてライブハウスのステージ立ったときのものと非常に似ていると貝塚は思った。


 バイト先のカラオケボックスには、午後7時30分ちょうどに到着した。いつもよりも15分ほど早い。

「おはようございます」

 軽く頭を下げてカウンター横を通り過ぎようとしたら、

「おはよう、カイちゃん。今日は少し早いじゃないか」と店長の野田が声を掛けてきた。

 野田は40代の男。メタボ体型をしていて、頭頂部はすでに薄くなっているが襟足の髪の毛は長く伸ばしていて、まるで河童のような髪型になっている。女子高生が見れば、おそらくその見た目をキモオヤジと評するに何のためらいも持たないだろう。決して内面は悪い人ではないのだが。

「ええ。今日は引っ越し後の初出勤ですから、少し早めに家を出たんです」と貝塚が言った。

「ああ、そっか。そういえば、そんな話してたよね。引っ越しって、もう終わったの?」

「とりあえず、荷物運ぶだけはやりました。片づけは終わってませんけどね」

「新しい住所、どこだっけ?」

 貝塚はそう問われて、一瞬ためらった。具体的な住所を知られると、事故物件ということがバレるかもしれない。バレたところで何も問題ないはずなのだが、やはり何か後ろめたいものがあった。

 ただ、バイトとはいえ勤務先に現住所を知らせないという方法は取り得ないだろう。

「えっと……。前住んでたところとけっこう近いんですけど、具体的な住所は、メモに書いて店長のデスクに貼っておきます」

「うん。よろしく」

 カウンター横の細い通路を通って、従業員用のロッカールーム兼物置となっている狭い部屋に入った。クリスマスシーズンだけ階段の踊り場に展示される高さ40センチほどのクリスマスツリーがロッカーの上に置かれていた。今年もあと1か月ほどで、このツリーの出番がやって来る。

 平日ということもあって、壁から漏れ伝わってくる歌声はあまり多くはないようで、客入りはあまり多くないようだった。

 貝塚は店員用の黄色と青のストライプのシャツに着替えると、壁に掛けられた鏡の前に立って自分の姿を見た。黒い髪の毛を短く切ったその姿は、どこにでもありふれた20代のひとりの男だった。

 出勤時間である午後8時にはまだ早いので、スマホを取り出してもう一度、ユーチューブのアカウントにログインしてみた。

 最初に投稿した動画の再生数が、81に増えている。さらに、動画にはこんなコメントが付けられていた。


”DEF1220 事故物件ユーチューバーとは、ずいぶんと罰当たりなことするなあ。こういう体の張り方をする人はめずらしい。とても応援できるような内容ではないけど、いちおう見させてもらうことにするよ。幽霊の動画撮れるといいね”


 最初の「DEF1220」というのはコメントを書いた人のアカウントまたはハンドルネームだろう。

 コメントの内容は、貝塚の行動を肯定しているのか否定しているのか微妙なところだったが、貝塚は単純にコメントを貰えたことがうれしかった。

 何度も何度も、そのコメントを繰り返し読んだ。チャンネル登録数もゼロから1になっていたので、おそらくこの「DEF1220」さんが登録してくれたのだろう。

「あ、おはよ、ございます」

 ロッカールームの扉が急に開いたので、貝塚は背筋がビクッとなるくらいに驚いた。そっちの方向を見ると、本日夜勤を朝まで一緒にやる趙が立っていた。

「あ、趙さん。おはようございます」

 貝塚は返事をして、スマホのブラウザを閉じた。いつの間にか、午後7時55分になっていた。

 趙は近くの語学学校に通ってる留学生で、中国吉林省の出身。背が高く、色白の顔をしているため、かなりイケメンの部類に入るのだが、本人はカネ以外のことにはあまり興味がないらしく、学校と睡眠以外の時間はほぼすべてをバイトに当てている。留学ビザで来日しているため、就労可能時間は本来厳しく制限されているらしいが、そんなのをきちんと守っている留学生は金持ちの子息令嬢以外はまずいないらしい。

「貝塚さんは、何を見ていましたか?」趙が貝塚が手に持っているスマホを見て、たずねた。

 子供のころから親族を除いて、友人連中には「カイ」と呼ばれることが多かった貝塚を、きちんとしたファミリーネームで呼ぶのは、今の身の回りでは趙が唯一だった。

「ちょっと、ユーチューブ見てたんだよ」

「おもしろいものが、有りましたか?」

「いや、別に……」

「貝塚さんは、とても笑っている顔をしていましたよ」

 どうやら趙は、貝塚が自分の投稿したものを見ていたとはこれっぽっちも想像もしていないらしい。

 いったい、外国育ちの人間からしてみれば自分のやっていることがどのように映るのか少し興味はあったのだが、伏せておくことにした。

 趙の日本語能力は、接客業をするに支障のない程度に訓練されたものだったが、ときどき、抽象的な概念や感情の起伏などを表現する場合には、話す方も聞く方もストレスを感じることがあった。

 貝塚と趙のなかは、それほど悪いというわけではないのだが、良いわけでもなかった。プライベートで何度か一緒に遊びに出かけたこともあったのだが、趙は貝塚の最大の関心事である音楽はまったく興味ないらしく、共通の話題があまりなかった。

 ちなみに趙の唯一の趣味らしきものは、スマホで日本のアダルトビデオを見ること。中国では裏モノを除いてはポルノは解禁されていないため、高画質でスタイルよくて若くて可愛い女優さんが出演しているAVはパラダイスらしかった。

「さあ、行こう」午後8時になったので、貝塚と趙の勤務時間となった。

 カウンターに入り、パソコンのモニターに表示されているカラオケルームの空室状況を確認した。大きめの雑居ビルの2階と3階を利用しているこのカラオケ店は、10人以上収容できる大部屋が2部屋で、あとは2人から5人が入ることを想定した小部屋が10室となっている。

 小部屋のうちの4部屋が埋まっているだけで、残りは空室となっていた。午後8時からのシフトでは、厨房と給仕、カウンターの受付をふたりでこなさなければならないのだが、飲食物持ち込み可能となっているため、厨房の仕事は最初のワンドリンクのみの場合が多く、週末の夜や日曜の昼間を除いてはふたりでもかなり暇を持て余すような日が多かった。

「それじゃ、よろしく」服を着替えた店長の野田がふたりに軽く手を振りながら帰宅の途に就いた。

「お疲れ様でした」貝塚と趙が、野田の背中に向かって同時に言葉を発した。

 その直後に、カウンターの内線の電話が鳴り始めた。電話のディスプレイには、「3号室」と表示されている。

 貝塚が電話を取った。趙と仕事に入るときには、内線電話を受話器を取るのは、暗黙のうちに貝塚の役割となっていた。

「はい。カウンターでございます。……はい、はい。コーラふたつ、ウーロン茶ひとつでございますね。かしこまりました。少々お待ちください」

 話しながら貝塚は客の注文をマウスを使ってパソコンに入力していく。入力が終わると、小型プリンターから「3号室」と大きく印刷された注文票が素早くプリントアウトされた。

「僕が行きますよ」趙がその注文票を取り上げて厨房へ向かった。


 夜12時を回った。

 この時間以降に来る客と言えば、終電を逃してホテル替わりにカラオケボックスを利用するサラリーマンや、一人でこっそりやってきて好きな歌を歌いまくるという、いわゆるヒトカラ、あとはいかがわしいことを目的にやってくる若いカップルなど。もちろん、ラブホテル代わりの利用は規約違反になるのだが、このカラオケボックスでは客室には防犯カメラは設置していないため、不適切な行為があったかどうかは、退出後にティッシュやゴム製品を発見してようやく事後的に確認できるという杜撰な管理体制だった。

 グレーのスーツを着た、疲れた表情のサラリーマンが入店してきた。貝塚が対応したが、会員証は持っていないということなので、まずは身分証明書を提示してもらい、入会手続きをしてからその後、いちおうマイクの入ったバスケットを持って部屋へ案内した。

 歌うためではなく眠るために来店したのは明らかだった。最近はビジネスホテルは外国人観光客が増えたせいで平日でも空き室を取るのがむずかしいらしく、こういう客が増えている。寝るには決してよい環境とは言えないが、夜12時から朝7時までをカラオケボックスで過ごしたとしても、料金はせいぜい3000円に満たないので、野宿をするよりはいくぶんマシなのだろう。店員としてもこういう客は部屋を汚さないし食べ物もほとんど注文しないので大歓迎だった。

 客室に冷たいウーロン茶を運んで、またカウンターのなかに収まった。

 何もやることがないので貝塚はポケットからスマホを取り出しのだが、画面右上のバッテリー表示がもうわずかしか残っていなかった。まだ十分バッテリーは残っていると思っていたのだが、出勤する前の動画撮影とロッカールームでいじったブラウザでだいぶ消費してしまったらしい。暇つぶしに誰かにLINEでも送ってみようかとも思っていたのだが、途中でバッテリー切れを起こす可能性が高い。貝塚はポケットに再びスマホを突っ込んだ。

「なあ、趙さん」と貝塚はすぐ横に立っている趙に声を掛けた。

「なんですか?」

「オニ、って見たことある?」

「お、に?」

 貝塚は手もとのメモ用紙にボールペンで、「鬼」と書いた。

 どこで聞いたのかは忘れてしまったが、日本でいう「幽霊」とは中国語では「鬼」というらしい。

 趙はその漢字を見て、

「グイ」と発音した。

 なぜそんなことを趙に聞いたのかというと、特に意味があったわけではない。退屈しのぎにでもなればいい。

「見たこと、ある?」ともう一度たずねる。

「ないです。でも、とても怖いモノです」

 貝塚は邦画洋画問わず、ホラー映画はあまり見たことがない。ただ、邦画の幽霊と洋画の幽霊とではずいぶんと違いがありそうだということは感じていた。日本でいうところの幽霊とは、強い怨みを持って亡くなった人間が死後も成仏できずに生きている人間を恐怖させるものだが、洋画で描かれる幽霊は、チェーンソーを持って暴れたりゾンビが地面から湧いてうろうろしたりと、ずいぶんと即物的なものが多い。

 いちおう似たような仏教を宗教の地盤とする中国では、どうなのだろう。大昔、貝塚が生まれる前に「キョンシー」というテレビドラマシリーズが流行ったらしく、貝塚も少しだけ見たことがあるのだが、あれを中華圏での幽霊つまり「鬼」の代表だとするならば、「鬼」は日本のものよりも西欧の幽霊の部類に属するのではないだろうか。

「でも、私のおじいさんは、よくその話をしていました。夜に山に行くと、女のオニが出て来て襲われるというような話です」

 ありがちな怪談だと思った。趙はさらに話を続けた。

「昔の戦争だったころ、日本の兵隊は、リーベングイズーと呼ばれてとても怖かったと言われていました」

 趙はもう一度、リーベングイズーと発音しながら、「日本鬼子」とメモ用紙に書いた。

 貝塚はネット上でさかんに活動しているネット右翼という人達の言説にはまったく興味ないし、日本と中国の過去に何があったかもどうでもいいと思っているのだが、むかし大陸で暴れまわった日本兵が「鬼」だとすると、やはり中国人にとっての幽霊とは、チェーンソーを持って人を殺しまくる西洋風のそれに近いのだろうと思った。

「日本は現在、鬼がいますか?」今度は趙がたずねてきた。

 貝塚は額に軽く手を当てて、何かを考えるようなしぐさを作った。

「さて、ね。見たという人はたくさんいるけど、どっちかというと否定する人のほうが多いかもね」

「貝塚さんは、見たことがありますか?」

「ないよ。もちろん俺もそういうのは信じていない。一度くらい見てれば、信じるのかもしれないけど、一度もないから」

 そう言ってから、貝塚はバンドメンバーだったベース担当のトシミツが、たまにそういうオカルト系の話を練習後にしていたのを思い出した。長身で金髪、女子から人気ナンバーワンだったベーシストは、そういう非現実的なものとは最も遠い存在のように見えたのだが、彼がオカルト雑誌や実話怪談の文庫本を常に持ち歩いて、暇なときにニヤニヤしながら読んでいる姿は滑稽だった。

 ただ、トシミツも実際に心霊現象は一度も体験したことないらしかった。

「趙さんは、鬼を信じてる?」

 お愛想のようにそう訊いてみると、答えは貝塚の予想外のものだった。

「信じています。私はまだ見ていないだけで、居ると思います」


***


 どうもみなさん、こんにちは。今日は10月19日、お昼の2時くらいです。事故物件ユーチューバーのカイです。

 事故物件に住み始めて3日目です。最初の動画、けっこうたくさんの人に見ていただいて、本当にありがとうございました。

 特に歌ったり踊ったりしてるわけでもないし、おもしろいことを言ってるわけでもないのに、自分でも本当にこんな動画でいいのかなって思ってるんですが、見てくれる人がいる限り、続けようと思ってます。

 昨日ちょっと、バイト先で……。僕は今カラオケボックスでバイトしてるんだけど、昨日一緒のシフトに入ってるのが中国人の留学生だったんですけど、ちょっとおもしろい話を聞きました。

 別に事故物件に住み始めたってわけじゃないんだけど、どの中国人の人と「幽霊を信じるかどうか」って話になったんだけど……。知ってる人もいると思うけど、日本語の「幽霊」ってのは、中国語で「鬼」って書くらしくて。

 まあ中国にも幽霊みたいな存在はいちおういるらしいのよ。でも、僕たち日本人がイメージする、ぼやーっとした足のないのが出てきて「うらめしや」というのじゃなくて、どうやら日本で言うところの「妖怪」みたいなのが中国人の想像する幽霊らしいんです。僕は中国語わからないし、彼のほうもまだ日本語がじゅうぶんじゃないから、ちゃんと正確に彼が伝えようとしたものを受け止められたかどうかは、自信ないんだけど。

 で、僕が彼に「幽霊を信じるか?」ってことを聞いてみたら、なんと彼は「信じる」って言ってね。いや、見たことはないらしいんだけど。

 彼が言うには、幽霊はいるけど、人間と同じような姿をして町をうろうろしているらしくて、人間のほうがそれを幽霊と気付いていないだけなのかもしれない、みたいなことを言ってた。つまり、人間社会にあたかも人間のような顔をして普段は生活してるんじゃないか、と。

 ほかにも、……これ言っちゃうとちょっと炎上するかもしれないけど、第二次大戦中の日本兵は、中国人のあいだで、にほんおにこ、日本に鬼の子供って漢字で書くんだけど、……日本兵はそういうふうに呼ばれてたらしい。

 だから中国人の思うところの幽霊っていうのは、意外と僕たちが想像する「殺人鬼」みたいなのが近いのかもしれないですね。

 文化的な背景もいろいろと影響してるのかもしれないけど、国によって幽霊の形が違うってことは、やっぱり幽霊なんてものは存在しないっていう状況証拠になるんじゃないかな、なんて考えてます。

 それで、中国では幽霊をどうやってやっつけるのかと聞いてみたんだけど、それはけっこう日本と似ていて、お寺のお札を使ったり、お経を唱えたり、そんな感じらしい。

 でも彼が言うには、中国人の寺の和尚というのはカネに汚い人が多くて、あんまり尊敬されてないみたい。そのあたりも日本と似てるなと思って笑ってしまいましたよ。

 ……あ、もし現役のお寺の住職さんがご覧になってたら、ごめんなさい。


 で、事故物件3日目ですけど、もちろん心霊現象や金縛りはまったくナシです。そろそろ何か出てくれないと、ネタ切れになってこっちも困ってしまうんだけどなあ、なんて罰当たりなことを思ってます。

 それでは今日はこのへんで。ご視聴ありごとうございました。事故物件ユーチューバーのカイでした。チャンネル登録お願いします


***


 起床すると昼の1時50分だった。

 夜勤から部屋に帰ると朝7時で、出勤前に撮影した動画をパソコンに取り込んでユーチューブにアップロードした後に眠気を抑えきれなくなって寝た。だいたい、5時間半くらい寝たことになるだろうか。

 起床後に顔を洗って、夜に趙と話したことなどを動画にしてみようと撮影をしたのだが、眠気が抜けきらないわりには意外にはっきりした声でしゃべることができた。

 いちばん最初にアップロードした動画の再生数が120を超えていて、新たなコメントが3つ付いていた。


”RTYKF1979 事故物件ユーチューバー、斬新すぎる。応援するわ。呪い殺されないように気をつけてください”


”YUYUYU88 都内のどのへんの物件ですか? 大島てるで検索したら出てきますか?”


”TOFUDAISUKI 不謹慎すぎる。死んだ人を利用して売名行為しようなんて、お前最悪。今すぐこのチャンネル削除しろよ。削除しないなら、ようつべの運営に不適切動画ってことで通報するわ”


 2つめのコメントにある「大島てる」とは、知る人ぞ知る日本全国の事故物件をデータベース化したホームページだ。場所を指定すると、地図が表示されて、どこの物件にいつどんな事故があったかを検索することができる。

 貝塚はあえて自分が今住んでいる物件については検索したことがなかった。検索しなくても掲載されていることは疑いないし、削除できるわけでもないので、最初から努めて見ないことにしていた。

 もちろん、匿名の相手に住所を教えるわけにはいかない。

 3つ目のコメントについては、貝塚はあまり深く考えたことはなかった。たしかにアカウントを作るときに、細かい規約で不適切な動画をアップロードしてはならないみたいなことを書いていたような気がするが、そもそもほとんど読まずに「同意する」ボタンを押してしまったため、あまり記憶にない。

 一般的に「不適切な動画」とは、エロかグロか、あるいは爆弾の作り方のような反社会的なものだとばかり思っていたのだが、自分の動画が果たして不適切なのか、否か。

 まだ3日目だが少ないとはいえ視聴者を獲得できたこのチャンネルに、貝塚はすでに我が子のような愛着を感じつつあった。通報されたら、削除されるのだろうか。自分の投稿する動画は、それほど人道に悖る行為なのだろうか。

 しかし、死んだ人に対して負い目を感じなければ不適切とされるということは、やはり今の日本の社会は死後の世界を前提として動いているのではないだろうか。

 漠然とそんなことを考えていたのだが、自分が主体的にユーチューブの運営に対してどうこうできるわけでもないし、貝塚は動画撮影を続行することにした。


***


 こんにちは。事故物件ユーチューバーのカイです。今日は10月28日です。事故物件に住み始めて、10日目です。

 ……実は、少しのあいだ、動画投稿をする頻度を減らそうかなって思ってます。

 というのも、あまりにネタがなさ過ぎて、動画を撮っても何にも新しい情報をみなさんに提供できないからです。

 今まで一応、毎日投稿してきたんですけど、自己紹介ももう一通りしたし、視聴者のみなさんが期待してるような心霊現象は一切起こらないし、ただダラダラと僕がしゃべってる映像を流したところで、まったくつまらない動画しか作れないので……。

 もし何かあったら、そのときは動画撮影してみなさんに見てもらおうと思ってます。

 あ、でも一週間に1回くらいは何か動画出そうかなって思ってます。

 それでは、ご視聴ありがとうございました。カイでした。チャンネル登録お願いします。


***


 最初はずいぶん興奮して動画を撮っていたものの、10日目にして貝塚はすでにネタ切れという深刻な事態に直面していた。

 事故物件ユーチューバーチャンネルの視聴者は、もちろん心霊現象や怪奇現象が発生することを期待して見ている人がほとんどなのだが、一向に何事も発生せずにただふつうのナリをした男がカメラに向かってしゃべってるだけの映像は、視聴者の求めるものとかけ離れたものになってしまっていた。

 再生数は動画をアップロードするたびに減り、最新のものはついに一桁まで落ち込んだ。コメント欄も、「お前は退屈だ」とか「もうやめろよ」という罵倒すらなくなっていた。

 これには貝塚も心が折れて、もう動画を削除してしまおうかと考えていたのだが、踏ん切りがつかずに「撮影の頻度を減らす」という中途半端なことになった。

 ほかの人気ユーチューバーの動画を、初めてしっかりと視聴してみると、みんな一生懸命いろんなネタを次から次へと見つけてきて、身体を張っていろいろと試している。世界一臭いと言われるシュールストレンミングという食べ物をわざわざ買ってきて食レポしてみたり、街角に出て街頭インタビューのようなものをやったり、日に日に新しいネタを提供できなければ、一瞬で飽きられてしまう。何せ動画は、インターネット上に山のようにあるのだ。

 貝塚の印象にも強く残り、ただただ感服したのは、「ヒミコ」という名で活躍している、30歳前後の超有名ユーチューバーだった。ヒミコという名を名乗ってはいるが男性で、本名は不詳。毎日、2本か3本の動画をアップロードして、その内容はというと、それなりに有名な地下アイドルに出演してもらって普段ライブでは見せないような一面をインタビューで引き出したり、ヘルメットにゴープロのカメラを装着してバンジージャンプに挑戦したり、単純だがとても貝塚には真似できそうにないものばかりだった。

 次の動画をいつ撮影するか、貝塚は自分でもわかっていない。ひょっとしたらもう撮影しないかもしれない。


 この日は午後から、昼間の公園でストリートミュージシャンみたいなことをやる予定になっていた。少しでも多くの人に知ってもらう機会になればと、相方のレオが提案してきた。厳密には勝手に公園で演奏するのは違法行為になるらしいのだが、わざわざ警察に通報する物好きは少ないらしく、けっこう快適に演奏することができる。

 アコースティックギターのソフトケースを肩に抱えて、貝塚は電車に乗った。昼過ぎの、某所にある大きな公園は、小さな子供を遊ばせている母親や、弁当を食べているサラリーマン風の男、5人ほど集まって日向ぼっこをしている老人など、老若男女がまばらに存在していた。

 レオはまだ来ていないらしかった。貝塚はベンチに座り、ギターをケースから取り出して、ペグをいったん緩めて弦のチューニングを始めた。

 うまくチューニングできて、Aマイナー、次いでG7のコードを弾いていると、

「カイちゃん」という声が聞こえてきた。

 顔を上げると、レオがすぐ目の前に立っていた。

 レオはジーパンに長袖のYシャツという、いかにも普通の恰好をしている。こういうさっぱりした服装をしていると実年齢より若く見られることが多く、いまだに高校生にまちがわれることも多い。派手な見た目ではなく、きちんと歌声で注目されたいとの気持ちから、レオは努めて普通の服を着ることが多かった。

 貝塚はギターのネックを握っている左手を離して、

「よお、やっと来たか」と言った。

 立ち上がって、レオのほうに近付こうとすると、レオはなぜかまるで怯えた犬のように後ずさった。その顔は、眉間にしわを寄せて何か得体の知れないものを見るような目つきをしていた。

 こんな表情をした相方は今までみたことはなかった。まるで汚物を見るような顔をしている。自分の顔になにか付着しているのだろうか。

「どうしたんだ?」

 レオはまた一歩下がった。

 こんな態度を取られたのでは、あまりよい気分はしない。貝塚が一歩進むたびに、レオは一歩後ずさっていった。

「ちょっと待って、カイちゃん。動かないで。もしかして最近、身の回りに何か変わったことあった?」

「え? 何言ってんの、お前」

 貝塚が少しイライラしながらもまたレオに近寄ろうとすると、

「来るな!」とレオが叫ぶように言った。

 その大きな声には貝塚もさすがにたじろいだ。

「ごめん。答えて、カイちゃん。最近何か、身の回りに変わったことはあった?」レオはやはり、怯えるような真剣な表情をしている。

 にわかに唇が振るえていた。

「えっと……。特に何も。強いて挙げるならば、先々週引っ越したけど、それは前々からお前にも伝えていたはずだけど、それがどうかしたのか?」

「その引っ越し先の部屋、どこにあるんだ。そこ、何かあったんじゃないの?」

「え……?」

 事故物件に引っ越すことなど、もちろんレオには知らせていない。それどころか、レオ以外の誰にも知らせていない。

 レオは俺の姿を見て何かを感じ取ったのだろうか。そういうえば、レオとはオカルトやオバケうんぬんの話は今まで一度もしたことはなかった。レオには今の俺の姿が、これまでとは別物のように見えているのだろうか。

「実はね、カイちゃんには言ってなかったけど、俺はいわゆる霊感ってやつがめっちゃ強いんだよ。カイちゃんはそういう話はあんまり好きそうじゃないから、ずっと黙ってたんだけど」貝塚の疑問に答えるようにレオが言った。

 レオはさらに言葉を続ける。

「実はカイちゃんと初めて会ったときから、背後になんかよくわからないけど、怪しげな黒い影みたいなのが憑いてるなって思ってたんだ。脅かすことになるから言わなかったけど、それよりもその影みたいなものが、はたして良い霊なのか悪い霊なのかはっきりしなかったから、今まで黙ってたんだ。ごめん」

 貝塚は思わず背後を振り向いた。当然誰もいない。

「何もいねーじゃん。俺の後ろに、誰がいるっていうんだよ」

「若い女の人。髪の毛の長い。」

 貝塚はそれを聞いて、ギクッとした。

「女、……だと?」しらを切るかのように貝塚が言った。

「ねえ、カイちゃん。その部屋、何かあったんじゃないの? もし何も聞かされてないんだったら、部屋の大家か不動産屋に問い合わせたほうがいいよ」

 ただの偶然なのか、それとも本当にレオに特殊能力があるのか。とにかくはっきり言えることはレオの懸念していることはまったくでたらめとは言い切れないということだ。

 さすがに気味が悪くなってきた。あたりを見回すと、貝塚の感じているネガティブな感情などよそにして、小さな子供が公園のなかは走り回っている。

「その女について、ちょっと詳しく聞かせてくれ。いったい、そいつは何なんだ?」

「俺に聞かれてもよくわからないよ。……ただ、カイちゃんに対してすごく強い感情を抱いているみたいだ。それが憎しみなのか愛情なのか、よくわからないんだけど」

「なんだ、そりゃ。そいつはいったい誰なんだ?」

「俺にはわからない。とにかく、その部屋は早く引っ越したほうがいいと思う」

 まさかこれほど近くに、こんなに強い霊感とやらを持った人間がいるとは想像してさえいなかった。レオはおおらかな性格をしてはいるが、こんな質の悪い冗談を言うようなやつではない。実際に何かに憑かれているのかどうかは確認する術もないが、少なくともレオがそう思い込んでいるということだけは間違いないのだろう。

 しかし、引っ越すと言ってもけっこう大きなカネも要る。それに、あれほど家賃の安い物件がほかに簡単に見つかるはずもない。見つかったとしても、そこもきっと事故物件だろう。

「レオ、お前、今までずっとそういうの見えてたのか、子供のころから?」

「いや、物心ついたときからってわけじゃない。一度、小学校3年のときに交通事故で死にかけてね。いわゆる幽体離脱みたいな経験をしたんだけど、それ以来、いつもってわけじゃないんだけど、よく見るようになったんだ。血まみれのおっさんとか、首のない兵隊とか、ちょっとだけ透けてる人間とかが」

「ふうん」関心なさそうに装って、貝塚はため息まじりにそう言った。


 その日のストリートライブの出来は、ひどいものだった。レオがぜんぜん気分が入らないらしく、声が伸びないどころか歌詞さえもちょくちょく間違うような有り様だった。普段なら足を止めてふたりの歌に聞き入る人が数人はいるのだが、この日はゼロだった。

 まあ、となりに悪霊に憑かれているらしい人間がいると思い込んでるならば、レオがミスを繰り返してしまう気持ちも貝塚にはわからないではない。しかし、自分の作った曲をこのように杜撰に歌われるのは、あまり気分のいいものでもない。

 演奏は4曲ほど演奏した後、貝塚のほうから、

「今日はもうやめにしよう」と提案し、早々と切り上げて帰ることになった。

 駅のホームでの別れ際に、レオは繰り返すように、

「早く引っ越したほうがいいよ」

「はいはい」と軽く受け流す貝塚に対して、レオは強い口調で、

「カイちゃんが引っ越しするまで、K&Lの活動はちょっと自粛しよう。悪く思わないで」と言った。

 そこでプラットフォームに電車が来たため、貝塚はレオに何も言い返すことができなかった。

 霊やらオカルトを理由に活動自粛など、さすがに理不尽だ。病気や事故、あるいは音楽性の違いのほうがまだいくらか誠実というものだ。

 貝塚はスマホをギターのソフトケースのポケットから取り出すと、すぐにLINEで、


”いくらなんでも一方的に自粛はねーだろ。まあ、引っ越しについてはぼちぼち考えておくけどさ。また落ち着いたら連絡くれ”


 とメッセージを送っておいた。何時間たってもそれが既読になることはなかった。

 しかし、貝塚はどこか安心しているところがあった。レオはギターがあまりうまくないし、まして弾きながら歌うということは難しいだろう。K&Lの曲はほとんど、貝塚が作詞作曲したものだし、ほかの相方を見つけるなどということは有り得ない。

 一時の気の迷いだ。そのうちまたレオのほうから連絡をよこして来るに違いない。

 事故物件の部屋に戻った貝塚は、あらためて部屋の様子を見回した。どこにでもある、一人暮らし専用のワンルームマンションだ。

 ただ、ここで人が殺された。違うのはそれだけ。

 そういえば、この部屋に引っ越してから、誰も人を招き入れたことがないことに貝塚は気付いた。レオは貝塚の姿を見ただけで、この部屋が事故物件であることをなぜか見抜いたようだが、霊感がないほかの人間はどのように感じるのだろう。

 時刻はまだ午後4時にもなっていない。今晩のバイトに出勤するまではまだ3時間以上ある。

 誰か、呼んでみようか。ふとそんなことを思い立って、貝塚はスマホのアドレス帳を開いた。

 画面をスライドさせて、「エミ」という名前のところでスライドを止め、通話ボタンを押した。

「あ、もしもし。俺だけど。……うん、うん。いや、ちょっと暇でさ、電話かけてみたんだけど。今日は休み? 俺は今日も夜勤だけど、もし良かったら、俺の部屋に来ない? いや、そうじゃなくて、引っ越しするっていったじゃん。そう、だから俺、今一人暮らししてるんだよね。女? ああ、あの女とはもう別れたよ。連絡先も知らない。本当だって。そう……。いや、すぐ近くだよ。……うん、うん。駅まで迎えにいくから。……歩いて5分くらい。そう。うん。それじゃ」

 辻井恵美は、都内の実家から女子大に通いながら貝塚と同じカラオケボックスで週3回夕勤のバイトをしている。小柄の体格で、茶色のロングヘアーをしている。少しぽっちゃりしていて見た目はおとなしい女の子なのだが、けっこうズゲズゲとはっきりものを言う、男勝りな性格をしている。

 言うまでもなく貝塚にとっては恵美とはずっと浮気相手という関係だったのだが、今は同棲も解消し本来の恋人だった美雪とは別れてしまったので、何もためらうことはない。

 恵美をこの部屋に招き入れる第一号とするのは、まるで人柱にするようで悪い気はしたが、逆に、はたして恵美がここを事故物件と見抜けるのかどうか、楽しみにする思いもあった。


「ウッソ。かなりいい部屋じゃん。どうしたの? ここ、家賃いくら?」

 部屋に入った恵美が天井からフローリングまでを見回して言った。

「ヒミツ」と貝塚はわざとらしい微笑を作って言った。

 共益費込みで2万3000円などと言ったら、きっといろいろと疑われるだろう。黙っておくに越したことはない。

「教えてよ。どう考えても、10万前後はするんじゃない? カイちゃん、そんな稼いでるの?」

「稼いでないよ。倹約家なだけ」

 恵美はなぜか興奮しながら、部屋のあちこちを見回った。キッチンが狭いのが気に入らないようで、

「こんな狭いと、あんまり凝った料理とかできないじゃん」と言った。

「俺、料理しないもん。ほとんど外食かコンビニの弁当だし。冷蔵庫も持ってないんだぜ」

「カイちゃんじゃなくて、私が料理できないって言ってるのよ」

「なんでお前がここで料理するんだ?」

「何言ってんの?」

 恵美は貝塚を責めるような口調でそう言って、さらに言葉を続けた。

「彼女と同棲解消して別れたってことは、とうとう私がカイちゃんの本命に収まるってことでしょ? カイちゃんは彼女の手料理、食べたくないの?」

 一人暮らしを始めた、という事実は、どうやら恵美にとんでもない勘違いをさせてしまったようだ。こんなめんどくさい女だと思っていなかった。貝塚にとっては、これまでどおり、暇なときに会って、性欲を満たしてくれるだけの存在でいてくれるのがベストなのだが。

 しかしこの場は、適当に話を合わせておくほうがいい。貝塚は即座にそう判断した。

「それじゃ、小さいのでもいいから冷蔵庫買ってこなきゃいけないけど、あいにく引っ越しでお金使ってしまって、あんまりないんだよな」

「それくらい、私が買ってあげるよ」

「そんな。安いものじゃないし、申し訳ないよ」

「気にしなくてもいいのよ。私、彼氏に手料理作ってあげるのが夢だったんだあ。けっこう上手いのよ。カイちゃん、どんなものが好き?」

「恵美が作ってくれるものなら、なんでも喜んで食べるよ」

「もう、調子がいいんだから」

 とりあえず、恵美はこの部屋に何も異常を感じていないようだった。やはり、レオが適当に言ったことが偶然的中したというだけで、この部屋に何か悪い悪霊がいるということはないのだろう。

 少しだけ安心すると、まるで思い出したかのように性欲が湧いてくる。

 貝塚は恵美を抱き寄せて、キスをした。舌をねっとりと絡ませながら、恵美の長い髪の毛を撫で下すように手の平で何度もさすった。

 そして手を恵美の臀部に軽く当てると、恵美が、

「まだ夕方なのに。今日も出勤なんでしょ? 仕事の前にこんなことして大丈夫なの?」

「問題ないよ。お前が欲しいんだ」

「うれしい」

 小柄な恵美の身体を軽く抱き上げるようにして動かすと、貝塚はフローリングの上にじかに敷いてある布団の上に、恵美を押し倒すように寝かせた。そして、上半身だけを軽く抱き起して、恵美の着ている薄いニットをやや強引に脱がせた。

「あ、そうだ」

 恵美のブラジャーを剥ぎ取り、自分も上半身裸になったところで、貝塚はおもむろに立ち上がってギターのソフトケースを引っ張るように近くに寄せた。そしてソフトケースのなかからスマホを取り出して、画面を操作する。

 ピローン、というチャイムのような音が鳴ると、貝塚はスマホの背中を布団の上で仰向けになっている恵美に向けた。

「ちょっとだけ、動画撮らせてよ」

 貝塚はにやけた顔をして言った。

「何やってんの。そんなの、ダメに決まってるじゃない!」

 恵美は両腕で自分の豊かな胸を隠すように覆った。腕に押されて、胸の脂肪が盛り上がる。

「いいじゃん、ちょっとだけ。絶対、誰にも見せないからさ」

「何考えてるのよ。ダメよ。もしスマホがウイルスに感染して誰かに覗かれたらどうするのよ」

 恵美はうつぶせになって、隠れるように枕に顔を押し付けた。

「だいじょうぶだよ。いいじゃないか、今日からお前は、俺の正式な彼女なんだし。いつでも会えるわけじゃないし、会えないときはこれを見てお前を思い出すから、さ」

「絶対、誰にも見せない?」

「約束する」

「もし別れたとしても、リベンジポルノしない?」

「俺がお前と別れるわけないじゃないか」

 最初は嫌々動画撮影を受け入れた恵美だったが、次第に自らカメラに向かってエロティックなしぐさをするようになり、やがては貝塚のペニスを咥えながら笑顔でピースサインまでする始末だった。カメラを向けられるとしぜんと美しく撮られたいというのは、女の本能らしい。貝塚はそんなことを思った。

 撮影しながら、というのは集中力を欠いて、挿入する段に至って、さっきまでは怒張していたペニスがややその固さをほどいてしまった。貝塚はペニスを何度も恵美の濡れた陰部にこすりつけるようにして、ようやく埋もれるようにペニスの先端が恵美の内部へ入っていった。

 それまで局部をアップに撮影していたが、右手に持ったスマホを今度は恵美の顔に向けて動かした。

「アアッ……、アッ!」短い喘ぎ声を上げる恵美は喜びを表した。

 貝塚の視界には、実物の恵美の顔と、スマホの小さい画面のなかに映る恵美の顔が二重に入っていた。

 腰を動かすたびに恵美は高い声を上げる。そしてその度にスマホを持った手もぶれるので、画質の荒らいスマホの映像も激しく乱れた。

 体位を変えながら恵美との交わりの撮影を続け、やがて貝塚は恵美の脂肪の乗ったへそ周りに白い粘液を大量に放出した。


 性交が終わって、恵美は精液を洗い落としにいくため、バスルームへ行った。

 比較的最近の造語で、この性欲が満たされた後の、ある意味平和である意味冷めきった短い期間のことを「賢者タイム」という。まさに煩悩から解き放たれた瞬間なのだが、この賢者タイムは貝塚に、いかに自分がダメな人間かということを突きつけて来るようで、むなしく感じていた。

 俺はこれから、どうやって生きていくんだろう。自分は生きているうちに何かをなし得る人間なのだろうか。唯一の拠り所である音楽活動も、一時的なものとはいえ相方から根拠薄弱の活動自粛を言い渡されている。

 自分が、恵美に限らず女とは一対一の真剣な付き合いができるような人間でないことは重々承知していた。目の前にうまそうなごちそうが転がっていれば、手を出さずじっとガマンすることなどできない。我ながら呆れてしまうのだが、昔一度だけ女でひどい失敗をやらかしたにもかかわらず、一向におさまる気配すらない。実際、最近は連絡を取り合っていないが、今も身体だけの関係の女が、ほかにも一人いる。

 撮影したばかりの性交の動画を再生してみたが、賢者タイムが継続しているためか、ぜんぜん興奮しなかった。おそらく半日もすればまた性欲は復活するだろうし、そのときにこの動画はオカズとして役に立ってくれるのだろうが。

 ユーチューブの自分のアカウントに入ってみた。

「あれ?」

 おかしい。動画の再生数が、ずいぶんと多い。

 今日、家を出る前に撮ってアップロードした動画の再生数が、なんと2000を超えていた。言うまでもなく、貝塚にとっては最高記録だ。

 いったい、何があったというのか。どこかの掲示板に晒し者にでもされたのだろうか。

 コメント欄を見ると、


”RTYKF1979 動画開始から34秒過ぎたあたり、カイさんの背中のうしろ、何か変なものが映ってない? 人の顔のように見えるんだけど”


”DEF1220 何か気持ち悪いものが映ってる。コレ、本気でやばいんじゃね?”


”SERIKA001 初めまして。このチャンネル今日はじめて見たんだけど、すごい企画やってますね”


”UMAL77 しゃべってる人のうしろの通路?になってる部分の横から、人の顔が出てくる。34秒あたりからです。たぶん、女の顔”


”TOFUDAISUKI 再生数少ないからって、ヤラセまでするのかよ。本当に汚いやつだな。そこまでして売名行為したいのか”


 ほかにも多数の書き込みがあった。

 貝塚をそれを読んで、最初は意味がわからず混乱した。とにかく自分の動画に何事かが起こったらしいということだけは理解できた。この動画は自分で見直さないままアップロードしたため、何かへんなものが映っていたかどうかは、確認していない。

 貝塚は少しドキドキしながら自分の動画を、再生した。


――こんにちは。事故物件ユーチューバーのカイです。今日は10月28日です。事故物件に住み始めて、10日目です。


 スマホに映った小さな自分が、そう言う。

 貝塚は画面をじっと見て、34秒が経過するのを息を飲んでじっと待っていた。


――今まで一応、毎日投稿してきたんですけど、自己紹介ももう一通りしたし、視聴者のみなさんが期待してるような心霊現象は一切起こらないし、ただダラダラと僕がしゃべってる映像を流したところで、まったくつまらない動画しか作れないので……。


 そのときだった。

 画面のなかの自分の右肩の背後、ちょうどバスルームの扉の前の床に、何か黒いボールのようなものがフローリングから盛り上がるように現れた。

 そして、一瞬だが、そのボールのようなものの表面に、白く光るような3つの小さな点が浮かび上がった。ちょうど、人間の顔の目と口にあたる部分だ。

 貝塚はスマホから視線をずらして、バスルームの扉のほうを見る。もちろん何もない。にわか雨のようなシャワーの音がなかから漏れてきて、昔流行ったダンスミュージックのような曲を恵美が歌っている声が聞こえてくるばかりだった。

 もう一度、その動画を最初から再生してみる。

「期待してるような心霊現象は一切起こらないし」と自分が言っているその時に、やはり黒い影はさっきと同じように表れた。

 その黒い影の口の部分が小さく弧の形にゆがみ、笑っているようにも見えた。

 もちろん、こんなヤラセはしていない。撮影しているときは、部屋のなかは自分ひとりだったはずだ。

 つまり、視聴者が望んでいた心霊現象が、ついに撮れてしまったのだ。

 そのとき、貝塚の身体の中心を貫いたものは、恐怖よりも強烈な喜びだった。

 もう止めようと思っていた動画撮影が、これで続けられる。視聴者数も、きっと増えるに違いない。

 注目されたい。人に認められたい。何でもいいから、有名になりたい。その小さな手がかりを、ようやくつかんだのだ。

 全身の血管が拡張して、心臓が強く脈打つたびに血液に乗った興奮が神経を刺激していく。セックスなどでは得られない、身体をのけ反らせてしまうようなオーガズムが全身をふるわせ、貝塚は涙が出てきそうになるほどに感極まった。

 バスルームの扉が開いて、中からバスタオルで身体の表面に付いた水の玉を拭きながら、裸の恵美が出てきた。

 その姿を見ると、貝塚はまるでレイプするかのように恵美を押し倒して、乱暴に恵美の身体の上に覆いかぶさった。

「ちょ、ちょっと、待ってよ。どうしたの? ねえカイちゃん、ちょ、痛い。やめて、さっきしたばかりでしょ」

 もはや何も耳に入らず、1回目よりもさらに固く大きく膨張したペニスを、強引に恵美の膣のなかにねじ込んだ。


***


 みなさん、こんにちは。事故物件ユーチューバーのカイです。今日は10月29日。

 みなさん、昨日の動画、たくさん見てくださいまして、ありがとうございました。コメントもありがとうございました。

 えっと……、自分で動画撮影しているときは、後ろにあんなのが映ってたなんて、本当に全然気づきませんでした。僕は撮影した動画は基本的に編集せずに、確認もほとんどしないままアップロードするので、みなさんにコメントでご指摘いただくまで、本当に気付かなかったんです。

 僕の感想ですが……、よくわからなかったんですが、たしかに人の顔と言われれば、そう見えないこともないですね。

 でもまだ、僕は半信半疑なんですよ。

 あ、昨日の動画から見始めたという方もいらっしゃると思うので、簡単に自己紹介をもう一度してみます。

 名前は、カイと言います。事故物件に住んでます。この事故物件は、2年ほど前にここの住んでた女性が何者かに殺されるという事件がありました。そう、まさにここで殺されたみたいです。

 犯人はたしか、まだ捕まってないはずです。

 家賃は共益費込みで2万3000円という破格な安さです。

 まあ、何かが撮れればいいかなって気軽な気持ちで事故物件ユーチューバーというのを始めたんですが、一向に撮れなくてもうやめようかなって思ってたんですけど、ついに撮れちゃいましたね。

 でも、先ほど言ったとおり、まだ半信半疑なんですよ。たまたま、光の具合であんなのが映ったっていう確率もゼロじゃないですし、僕はそもそも、心霊現象って信じてませんから。


 でも、最近こんなことがありました。

 2週間ぶりくらいに、ある友達に会ったんですけど、会うなりいきなり、「カイちゃん、最近何かあったんじゃない?」とか言ってくるんです。

「引っ越ししたよ」というと、「その引っ越し先の物件、何かあったでしょ?」とズバリ当てられちゃったんです。

 どうやらソイツ、ちょっと霊感ってやつがあるらしいんですよね。

 ……霊感って何なんでしょうね。

 カメラに映って、肉眼で見えないっていうなら、カメラがなかった昔のころは、幽霊なんかめったに見えるものじゃなかったはずなんですが、まさか幽霊のほうがテクノロジーの進化に合わせて見せ方を変える、なんてあるわけないしね。

 まあとりあえず、変なものが映ってしまった手前、ここでやめるわけにはいきませんし、しばらく撮影は続行しようと思ってます。

 今日はこのへんで。ご視聴ありがとうございました。カイでした。チャンネル登録お願いします


***


 例の黒い影が映った動画がSNS上のどこかで広まったらしく、新しくアップロードした動画はわずかな時間のうちに再生数が100を超えていた。

 コメント欄には、「鳥肌立った」「これはお祓いいったほうがいいんじゃないかな」「あれは殺された人の怨念なのかな」などという書き込みが為された。中には、「不謹慎」や「ヤラセ乙」などという否定的な書き込みもあったが、貝塚の動画を好意的に讃えるもののほうが圧倒的に多かった。

 それらを読んでいると、貝塚はまるでライブハウスで声援を一身に受けているときの気持ちが蘇ってくるようで、気持ちが昂った。


 約一週間後の朝、バイトから帰ってきて、眠っていたら、スマホの着信音で起こされた。

 まぶしい視界を何とか開いて、スマホの画面を見てみると、なんとブラックバス時代のベースのトシミツからだった。時刻はまだ朝の11時。夜勤の貝塚にしてみれば、この時間は夜中のようなものだ。

 出ようか出まいか一瞬迷ったが、太陽の明るいうちに起こされてしまってはもう一度寝るのは困難だろうと、覚悟を決めて電話に出た。

「もしもし……」

「あ、カイ。ひさしぶり。ごめんよ、寝てたか?」

「うん……」とくぐもった声でカイが言う。

「あのさ、実は、ちょっとおもしろいもの見ちゃったんだけど……。カイ、ひょっとして、ユーチューブやってる?」

 それを聞くと、一気に眠気が吹き飛んで、心臓がドキリとした。

 いつか誰かにバレるとは思っていたが、まさかこんなに早くに、しかも元のバンドメンバーに見つかるとは予想していなかった。最近、動画の再生数が増えてきたとはいえ、まだまだ5000も超えていないくらいだ。その5000人のなかのひとりが、トシミツだったとは。

 しらを切っても仕方がないだろう。

「やってるよ」素直に認めた。

「もしかして、事故物件ユーチューバーチャンネルってやつ?」

「そうだけど……」

「やっぱり!」

 トシミツはそう言うと、心底愉快そうに大きな声でしばらく笑い続けていた。

 その笑い声が、まるで自分をバカにしてるようで不愉快だったため、貝塚はそこで電話を切った。

 すぐに再び着信音が鳴る。留守電にしてやろうかと思ったが、下手に前のバンドメンバーあたりに自分がインターネット上で珍妙な動画を投稿してるとチクられたら、たまったもんじゃない。

「もしもし」

「もしもし、ごめんよ。いや、怒らないでくれよ。カイのやってること、すごいと思ってるんだよ。ほら、俺オカルトとか好きじゃん」

 貝塚はトシミツがその格好に不似合いなオカルト雑誌を熱心に読んでいる姿を思い出した。トシミツは話を続ける。

「心霊スポットとか行ったり、肝試しとかしたいと思ってるんだけど、一人で行くのは、ほら、心細いっていうか……。だから、カイが今やってること、すごいと思うよ。事故物件ユーチューバー、流行るといいな」

「そんなら、トシミツも自分でやってみれば。事故物件なんて、探せばいくらでもあるだろ」

「いやいや、そこまでやる勇気はないわ。それに、ほら、俺の実家のこともあるし」

「実家?」

「あれ? 言ってなかったっけ。ウチ、寺なんだよ。臨済宗の。そんなに檀家は多くないんだけどさ。親父が、テレビの心霊番組とか雑誌の心霊特集とかに出てる霊能力者というのをひどく嫌っててさ、『インチキ霊能者が嘘ばっかり言ってカネもうけに利用しとる』と怒るんだよ。だから俺も子供のころから、そういう本を読んでると親父に取り上げられて燃やされてたんだけど」

 なるほど。トシミツのオカルト本好きは、その反動というわけなのか。妙に納得がいった。

「だから、俺がもし事故物件で動画配信なんてやって、実家にバレたら、ただではすまされないわ。俺はまだ学生の身なんだし」

 トシミツは例の、数か月にわたる病気療養が原因で大学は留年した。その後、5回生で就職活動は不利になるという不思議な理由で大学院に進学していた。だからいまだに金髪ロングヘア姿の学生をやっている。

「あのさ、カイ。一度、その事故物件、遊びに行ってもいい?」

「いいけど……、うちは別に心霊スポットじゃねーぞ」

「いやいや、立派な心霊スポットだよ。そこは。だってほら、黒い何かが撮れたろ」

 もうそんなことまで知ってるのか。自分が言えた義理ではないが、好んでそういう心霊スポットに行きたがったり心霊現象に遭遇することを望む連中の気が知れない。とは言え、事故物件ユーチューブチャンネルの視聴者の大半がそういう人物で構成されているのだろうが。

「まあ、別に来てもいいけど。でも、ひとつ約束してくれ。昔のほかのメンバーには、俺がこんなことしてるってのは、内緒にしといてほしい」

「うん、それは約束する」

「それじゃ、いつ来る?」

「今日の夕方あたり、ダメか?」

「ずいぶん、急だな。大丈夫だけど、おれは7時半くらいにはバイトに出なきゃいけないけど、それでよければ。それと、飲み食いするなら、何にもないから自分で用意してくれ」

「了解。それじゃ、夕方4時くらいにまた電話する」

 すっかり目が醒めてしまった。

 貝塚は布団から起き上がって、ペットボトルに残っていたミネラルウォーターを一気に飲んだ。腹は減ってないが、何か飲み物と軽い食べ物でも買いに行こうか、そんなことを思っていると、いきなり、「ピンポーン」とインターホンが鳴った。

 いったい、誰だろう。来客の予定はない。恵美だろうか。それとも宗教か新聞の勧誘だろうか。

 音を立てないように玄関の扉に近付いて、覗き穴から表の様子を見てみると、50代くらいの中年の男女がそこに立っていた。もちろん両者とも見覚えはない。

 いったい、この中年カップルは俺に何の用事があって来たのだろう。

「どなたですか?」

 鍵を掛けたままの扉にそう声を掛けると、

「すみません。少しお話したいことがございまして……。ちょっとだけでかまいませんから、開けていただけないでしょうか」と男の声が言った。丁寧な言葉だが、ずいぶんと言葉の抑揚に訛りがある。

 開錠して扉を少しだけ開けて顔を出した。中年の男女は貝塚の顔を見ると、丁寧に頭を下げた。

「何かご用ですか?」

「えっと、……あのー。私は、吉川と申します」

「吉川?」

「吉川凛音の……、両親です」

 貝塚は一瞬で理解した。この部屋で殺されたのが、吉川凛音。そしてこのふたりがその両親というわけだ。

 で、その被害者遺族が何をしに来たというのだろう。線香でも上げたいのだろうか。貝塚は少なからず動揺したが、悟られまいと努めた。いやな感情が腹のなかに湧いてくる。

「で、何か?」

「あの……、申し上げにくいんですが」

 吉川凛音の父親のほうが何やら言いにくそうにもじもじしていると、母親のほうがしびれを切らしたように声を上げた。

「あなた、インターネットで何かしとるでしょう!」怒声と言っていいほどの強い口調だった。

「へ? 何のこと?」

「とぼけたって無駄じゃ。甥っ子が教えてくれたんですよ。お姉ちゃんが殺された部屋で、事故物件ってことで面白半分でインターネットに動画を出しよる人がおるって。最近じゃ、そういうのは調べたらすぐにわかる言うて、甥っ子が全部調べてくれたんじゃ。いいかげんにせんかいや」一気にまくし立てるように女が言った。

「こら、止めい」

 女のほうが何かいろいろと騒ぐように言い、男がそれを制止する。そんな漫才のボケとツッコミのようなやりとりが貝塚の目の前で繰り返された。

 このふたりがいったい何を言いたいのか、貝塚は少しのあいだ理解ができなかったが、要するに事故物件ユーチューバーという活動が気に入らないのだということは伝わった。

 やがて男が話をまとめるように、

「あなたにとっては他人でも、わたしらにとっては大事な娘だったんです。もちろんここは今はあなたが住んどる部屋だから、口出しできた義理ではございませんが、娘が住んどった部屋を『事故物件』ちゅうて、世間の晒し者にされるんは、親としては耐えられんくらい辛いんですよ。どうか、インターネットでやるのは、控えてもらえませんか」

 なるほど。わざわざそれを言うために、田舎からここまでやって来たのか。貝塚は少し安心した。

 それにしても、早くも被害者遺族までもが知ることになるとは、予想していなかった。情報は再生数以上に広まっているのかもしれない。それとも、この両親は死んだ娘のことは何でもいいから知りたいとネットで検索しまってでもいるのだろうか。

「まだ、犯人も捕まっとらんことだし、わたしらのなかではまだ終わったことじゃないんです。お願いします。どうか娘の魂のためにも、止めてもらえんですか」

 男は両手を合わせ、まるで仏像か何かを拝むように貝塚に言った。

「やだね」貝塚は言い放った。

 親としての気持ちはわからないではないが、自分が借りている部屋で何をするかということを家賃も払っていない人間に口出しされるいわれはないはずだ。

「俺は別に、法に違反することをやってるわけじゃない。ちゃんと不動産屋を通して契約を交わして、この部屋を借りてるんだ。ここで何をしようが俺の自由だ。娘さんのことは申し訳ないと思うが、犯人が捕まってないのは、警察が怠慢なだけだろう。文句言うなら、警察に言いな。さあ、帰っ……」

 貝塚が言い終わらないうちに、激高した中年の男が、

「なにを!」と言いながら貝塚に肩からぶつかって来た。

 貝塚を尻もちをついて倒れた。倒れた貝塚を、吉川凛音の父親が見下ろした。憎悪に満ちた、まるで般若のような表情をしていた。

「痛えな……。何するんだよ、てめえ!」

 貝塚は立ち上がって、男の胸倉をつかんだ。

 男は身体を振るわせながら、涙を流していた。

 その姿を見て、一発くらい殴り返してやろうと思っていた気持ちが失せてしまった。

「もう、帰れよ。二度と来るんじゃねえ」

 貝塚は男の肩を突き飛ばして、扉を閉め鍵を掛けた。扉の外から、嗚咽のような声が聞こえてきた。

 それ聞いて、貝塚は心底不愉快になった。


 夕方、スマホでネットの芸能ニュースなどをぼんやり見ていると、インターホンが鳴った。

 まさか、またあの親父がやってきたんじゃないかと警戒し、忍び足で覗き穴をのぞくと、そこには金髪の長身の男が立っているのが見えた。

 貝塚はドアを開けた。

「よっ、やっぱりここだったな。なんか、久しぶりだな」トシミツが軽く言った。

「どうして、ここがわかったんだ?」

 トシミツには具体的な住所は知らせていない。電話が掛かってくれば、駅まで迎えにいくつもりだった。

「そんなの、調べりゃすぐにわかるよ。なんか事件があるたびに、事故物件について収集してる悪趣味なオカルトマニアがけっこういるもんさ」

「大島てるってやつ?」

「いや、あそこじゃない。あのサイトは、誰でも書き込めるようになってるから、けっこうまちがいも少なくないんだよ。ほかのところ。自分で調査して、こっそりと公表してる地下サイトみたいな」

 世の中にそんな物好きがいるとは知らなかった。トシミツがインターネット上の情報だけでここを発見したということは、事故物件ユーチューバーチャンネルの視聴者にも、すでにここを特定してる者もいるのかもしれない。戸締りはしっかりしておこう。

「うわあ、ここが例の事故物件か。すげえな、殺人現場って。入っていい?」玄関先から部屋の奥をのぞいて、トシミツが言った。

「どうぞ」

 トシミツは、コンビニの大きめなビニル袋と、板状の何かが入った黄色く横に広いビニル袋を手に提げていた。コンビニの袋のほうには、2リットルのウーロン茶が透けて見えた。背中には小型の牛革製のリュックを背負っている。

「そこの駅前のピザ屋でピザ買ってきたんだよ。一緒に食おうぜ」

「お、ありがとう」

 靴を脱いで部屋に足を踏み入れると、トシミツはやたら興奮していた。

「このへんがあの黒い霊が撮れたところだよな。すげえ。なんか、感激」トシミツが指でフローリングの一帯を円を描くように指した。

「まあ、そうだけど。動画、見てるんだな」

「見てるもなにも、お前はガチのオカルト界隈ではもうそこそこの有名人だぜ。そのうち、オカルト雑誌からインタビュー来るんじゃないの?」

「そんな、おおげさな」

 確かにここ数日再生数が伸びてはいる。しかし、大物ユーチューバーとは比べるまでもない。貝塚もよく視聴して、動画編集の参考にしている「ヒミコチャンネル」など、100万再生を超えない動画のほうが少ないくらいに、人気だった。

「それより、冷めないうちに、ピザ食おうぜ」

 ふたりはフローリングの上に直に座って、ピザの箱を開けた。サラミ、ピーマン、オニオン、ツナがトッピングされたMサイズのピザだ。

「ゴチになります」

 貝塚はトシミツに向かって手を合わせた。

「今は、どうしてるんだ?」ピザをかじりながらトシミツがたずねた。

 それが音楽活動のことを指していることに即座に気付いた。

「まあ、ぼちぼち。いい声してるボーカルを見つけたんで、今は二人ユニットでアコースティックやってる。路上演奏やったり、たまに昔のコネでライブハウスに出してもらったりしてるけど、細々としたもんさ」

「そうか……。なんか、すまなかったなあ」

 そのトシミツの台詞は、2年以上前に結核という珍しい病気に感染して、コンテスト出場を諦めざるを得なかったことを詫びたものだった。

 この病気によって、トシミツは隣の県の山のふもとにある病院に2か月近く隔離された。帰ってきたときは、病院食を長く食べていたせいか、ずいぶんと細く痩せていた。髪型は、頭皮から3センチくらいが黒い髪の毛のその先が金髪というダサいものになっていた。

「別に、もう気にしてない。それに、今もそこそこ楽しくやらせてもらってるよ。……お前は、どうなんだ?」

「俺は、大学の学部生の後輩が結成したバンドに加入したんだが……、これがまた、メンバー全員下手くそなんだよ。しかも、邦楽のコピーバンドやってるんだぜ。情けなくなってくるよな」

「ふうん」

「曲書けるやつが、メンバーのなかにはいないからさ。カイ、もし余ってる曲があったら、いくらかこっちに回してくれよ。カネは出さねーけど」

「ま、ぼちぼち考えとく」

 ふたりでピザを食べ終わって、ウーロン茶を飲んだ。

「しかし、結核なんて病気、いったいどこでもらってきたんだ」貝塚が言った。

「それが、未だにわからねえんだ。感染が発覚する少し前に、日雇いのバイトで、プレハブ小屋に住み込み寮が備え付けてある工事現場や温泉旅館の風呂場の清掃とか、けっこうあっちこっちに行ってたから、 そのうちのどこかだと思うんだけど、原因不明としか言いようがない」

「結核って、けっこうヤバい病気かと思ってたんだけど、最近の医学はすごいな」

「いや、俺のは結核性胸膜炎ってやつだから、まだマシなほうなんだよ。抗生物質も効いたし。本気でやばいのは、多剤耐性菌ってやつ。何でも、菌が抗生物質に対する免疫みたいなのを獲得したものらしくて、これは本気でどうにも対処できないらしい。要するに、薬を投与されているうちに、それに勝てるように菌がパワーアップしていくんだと」

「そっちのほうが、俺にとっちゃホラーだな。隔離病棟って、どんな感じなんだ?」

「いやもう、異様な雰囲気としか言いようがないね。医者や看護師は、毒ガスの防護マスクみたいなのかぶってるし、窓は開けられないように鍵の部分が針金でぐるぐる巻きにして溶接してるし、本当に自分の身体が忌まわしい何かになったって気がして、なんか怖いってよりも情けなかったな」

「外にも、出られない?」

「当然。独房みたいなところに入れられて、何にもすることがないんだよ。決められた時間に薬飲んで飯食って、寝るだけ」

「トイレとか風呂はどうするんだ?」

「独房にちゃんと備え付けてあるよ。外に出られないんだから」

「ふうん」

 ひさしぶりに再会して、最初は少しぎこちなさを感じていたが、しゃべっているうち、昔のバンド活動をやってたときのことを思い出して、何でも気軽に言えるようになってきたことを貝塚は感じた。トシミツのほうも同じらしかった。

 しかしまた同じメンバーでバンドを組むということは有り得ないだろう。トシミツと貝塚以外のメンバーは全員、会社勤めをしている。

「事故物件を動画配信なんて、ずいぶんおもしろいことを思いついたもんだな。まあ、事故物件に住もうっていう勇気が見上げたもんだが。しかも、殺人の」

「別に、住みたくて住んでるんじゃねーよ。あんまり家賃にカネかけられないんだから、仕方ないだろ。……んで、まあ、せっかくあんまり普通の人にはできないことをやるんだから、動画撮ってアップロードしてみようかって、気軽な気持ちで始めたんだ」

「夜中とか、金縛りに遭ったりオバケが出てきたりはしない?」トシミツはまるで少年のように目を輝かせながら言う。

「さあ。俺は夜勤だから、休みの日以外は夜中はいないし、休みの日にも特に何か怪奇現象が起こったことはないよ。今のところ、収穫があったのは例の黒い影だけだ」

「あ、そうだ。いいもの持ってきたんだった」

 トシミツはそう言って、床に置いていた黒いリュックサックを開けた。中から取り出したのは、銀色の円筒状ボディのハンディカメラだった。

「これ、よかったら使ってくれよ。動画はスマホで撮影してるんだろ? これなら赤外線の暗視カメラにもなってるし、画質を少し荒くして電源をつないでれば6時間くらいは連続で撮影できるから」

 続いてリュックからは小さく折りたたまれた三脚が出てきた。トシミツは慣れた手つきで三脚を開き、脚を伸ばしてフローリングの上に立てた。そして、カチッという音を立ててカメラをセットした。

 トシミツがカメラを動かし、レンズが貝塚のほうを向いた。

「そんな高価なもの、借りてもいいのか?」

 最近、動画の再生数が上がったのはいいが、本筋とは関係なく、「画質が悪い」とか「もっといい機材で撮影しろよ」というクレームが日に何件か来るようになっていた。

「けっこう安いんだ、最近のは。どうせ、ライブの時以外は使ってないんだから、好きなように使ってくれ。使い方、だいたいわかるよな?」

「たぶん。それじゃ、少しのあいだ借りることにするよ」

「ああ。その代り、バッチリやばいの撮ってくれよ。夜中にずっとカメラ回しっぱなしにしてみるのも、面白いかもな」トシミツがにやつきながらそう言った。

 いろいろと昔話をしているうちに、午後7時を過ぎた。

「それじゃ、そろそろ俺はおいとまするよ。これからバイトだろ?」

「うん」

 トシミツが立ち上がって部屋を出て、玄関で靴を履いた。

「トシミツ、あの……」玄関を出ようとするかつてのバンドメンバーに、貝塚は少し言葉を詰まらせた。

「なんだ?」

「この部屋……、やっぱり何か、おかしいか?」

 恵美は特に何も感じていないようだった。トシミツはどうなのか、聞いておきたかったが、それをどう言葉にすればいいかわからず、曖昧な台詞になってしまった。

「さあ、俺は霊感はまったくないからわからないんだけど。でも、……気を悪くしないでほしいんだけど」

「うん」

「この部屋、なんか雰囲気が結核患者の隔離病棟みたいだ。なんとなくなんだけど」


***


 みなさん、こんにちは。事故物件ユーチューバーのカイです。

 お気づきかもしれませんが、今日からちょっと画質が良くなってます。スマホじゃなくて、ハンディカメラで撮影してます。

 いや、買ったんじゃなくて、知り合いが貸してくれたんですけどね。

 僕はリアルの知り合いには誰も事故物件の動画撮ってるってことは一人も教えてないんですけど、そいつがオカルト大好きらしくて、このチャンネルが見つかってしまったんです。

 で、使わないカメラがあるから貸してくれるって。

 画質にもよるらしいんだけど、電源さえ切れなければかなり長い時間、連続して撮れるんです。

 で、昨日実は、ためしにこの部屋の夜のようすをずっと暗視モードで撮影してみたんですよ。僕は昨日は夜勤のバイトに出てたから、部屋にはいなかったんですが。

留守にしてる部屋の撮影をしてるわけだから、何にも映るはずはないんですが、何かへんなものが映ってるので、ちょっとみさなんに見てもらおうかなって思いまして。

 いえ、心霊現象ってほどのものじゃないんですけどね。

 詳しい方がいらっしゃったら、教えてください。

 それでは、その動画をご覧ください。


***


 トシミツからカメラを借りたその夜、貝塚はさっそく暗視カメラをセットしたままバイトに出かけた。きっと朝帰って来るまでの動画を撮影する容量はカメラにはないだろうが、試し撮りとして撮れるところまでやってみることにした。

 翌朝、6時過ぎに家に帰ると、やはり午前3時くらいの段階でメモリーカードがいっぱいになったらしく、小さな液晶画面にはエラーを示す赤いアイコンが点滅していた。

 とりあえず保存をして、動画をパソコンに取り込む。

 そして、コンビニで買ってきた弁当を食べながら、パソコンでその動画を4倍速で再生させた。合計6時間以上ある動画だから4倍速でも1時間半以上かかるな、そんなことを考えながら、ぼーっと画面を見ていた。

 モノクロの画面には、部屋の壁とシャワールームに扉、その向こうは玄関になっている。左側には窓のカーテンレールにハンガーで掛けたYシャツが2枚と薄いコートが1枚。変わらないその絵が、ずっと続くばかりだった。

 10分ほど見ているとすでに飽きてしまい、あまりに退屈だったので、動画再生ソフトのシークバーを飛ばし飛ばししながら見るようになった。画面右下の白い文字の時刻表示が進むだけで、何にも起こらない。

 しかし、午前2時が近くなったころだった。

 一瞬だが、画面の上部から下部に向かって、まるで白い粉雪のようなものが、左右に揺れながら落ちるのが見えた。

「あれ?」

 少し時間を巻き戻して、もう一度確認する。やはり午前1時54分あたりで、それまで画面になかった小さな白いものが、画面のなかを舞っている。

 再生速度を1.0倍に戻して、再生する。

 その白い粉雪のようなものは、ごく小さいが丸い球体のようなもので、上から下に落ちるだけでなく、フローリングから天井に向かって登っているものもあった。左右に動くものも、斜めに飛んで行くようなものもある。

 貝塚は、これは視聴者が求めるような心霊現象ではないと判断した。きっと、何かの拍子にホコリが舞っただけだろう。だが、撮れたからにはアップロードしておくのも悪くない。そんな気持ちで、動画編集してアップロードした。

 アップロードして1時間後、動画のコメント欄にはすでにいくらかの反応があった。


”RTYKF1979 これ、オーブだよね。ガクブル”


”SERIKA001 まちがいなくオーブだと思うど。こんなに大量に写ってる映像、初めて見たよ。ふつうオーブって、ひとつかふたつくらい、白や青いものが飛ぶくらいじゃないの?”


”TYX2001 最恐にこええ……。この部屋、ぜったい呪われてるわ。本当にうp主はすぐに引っ越してお祓い行ったほうがいいと思う”


”TOFUDAISUKI お前らバカじゃね。こんなのやらせに決まってるだろ。ティッシュか何かを小さくちぎって団扇でパタパタあおいだだけだろ”


”RTYKF1979 >TOFUDAISUKI 団扇であおいだら、全部同じような方向に飛ぶでしょ。上から下と、下から上に同時に風が吹くなんてことは有り得ない。これが仮にティッシュ片か何かだとしても、再現するのは不可能だと思うよ”


 貝塚は「オーブ」というオカルト専門用語は初めて知った。俺が撮ったこの白い球はいったい何なんだろう。

 スマホを取り出して、「オーブ」と検索すると、なんとウィキペディアのページが最初に表示された。こんなマイナーな専門用語まで記事が作られているとは思ってもみなかった。

 ページを開くと、このようなことが書いてあった。


***


玉響現象(たまゆらげんしょう)とは、オーブ現象とも呼ばれる。主に写真などに写り込む、小さな水滴の様な光球である。肉眼では見えず、写真でのみ確認される。科学的にはフラッシュ光の空気中の微粒子による後方錯乱が映り込んだものと解釈されるが、心霊的観点から解釈がなされることもある。


***


 どうやら、かなりスタンダードな心霊現象らしい。

 もう一度、自分の撮った動画を見てみる。やはり白く小さな発光体が、画面をうろうろしているだけ。

 自分でこんなことを思うのはいかがなものかと思うが、こんなものを心霊現象と呼んでもいいのだろうか。単なるホコリか何かか、あるいはカメラの調子が悪かっただけじゃないだろうか。

 心霊現象は貝塚が想像していたよりもだいぶテリトリーが広いらしい。

 過去に投稿した動画にもいくつかコメントがついていて、「開始1分08秒後くらいに女の声が入ってるよ。ヘッドホンで聞けばわかる」とか、「天井に人の顔みたいなシミがついてる」など、貝塚がアップロードした動画を視聴者が勝手に解釈し始め、心霊現象らしいもの捏造していた。

 そしてそれが、SNSを通してさらに広まった。

 正直に言うと、そういうある意味で過大評価と呼ぶべきコメントには、少々鼻白むものがあった。心霊動画の撮影に成功して、それをアップロードして高く評価されるのは認められたような喜びを感じたのだが、予想外な受け止め方をされてそれがウケるのは、孤独に似たような寂しさを感じた。

 そういえば、曲でも同じことがあった。ラブソングのつもりで歌詞を書いたはずなのに、ファンには男女のプラトニックな友情を描いたものだと勝手に思い込まれて、それがウケる。しかしわざわざ抗議するようなものでもなし、その高評価を素直に受け入れるふりはしていた。

 しかし、受け手が求めるものを提供しなければならない。それは音楽であろうが動画であろうが、同じだ。視聴者をもっと得るためには、ほかに手段はない。


***


 みなさんこんにちは。事故物件ユーチューバーのカイです。

 ……ご覧になってわかるとおり、顔をケガしました。よくわからないんですけど、仕事場の階段を踏み外して転んでしまったんです。僕のバイト先は、建物の2階と3階を使ってるんですが、2階に降りるときに、顔面から床に落ちてしまって……。

 ちょっと擦れて傷ができたくらいで、そんなに大したケガではないんですけど、見た目が非常に悪いから、消毒液染み込ませたガーゼを当ててテープで止めてます。

 ほかは、ちょっと右のヒジを打ったくらいで、大したことはなかったです。

 でもね、このケガよりもちょっと気になることがあったんです。

 2日前のことですけど、その日はバイトが休みだったから、夜中ずっとスマホで漫画読みながら過ごしてたんですけど、明け方4時くらいに布団に入って寝ることにしたんです。

 でも、なんか空気が重いというか、生暖かいというよりもむしろ暑いくらいで、全身に汗をかき始めたので、一回着ているTシャツを脱ごうと思って起き上がろうとしたら……。

 金縛りでした。

 生まれて初めてのことですよ。

 金縛りに遭ったことがある人ならわかると思うんですが、あれって本当に目以外の全てが動かなくなるんですね。本当に指先ひとつ動かなかったんです。

 でも、なんだか頭はみょうに冷静で、「これが金縛りか」とか思ってたんですけど、この前撮影したときのような「オーブ」っていうやつですか、あれが目の前で、蝿みたいにブンブン飛んでいて。10匹や20匹ってレベルじゃなかったです。おそらく数百個って感じでした。

 その日に限って、夜中のカメラはセットしてなかったんです。「カメラ回しておけばよかったなあ」なんて思ってると……。

 なんか急激に吐き気がして、「おえっ」となったんですが、胴体が押さえつけられてるように動かないので、えづくこともできないんです。ただ、息苦しくなるばかりで。

 すると、飛んでいたオーブが一箇所に集まって、なんか丸い塊みたいになっていったんですけど、その形がたぶん……、たぶん俺の見間違いだと思うんですけど、人間の顔みたいでした。

 そろそろ、僕やばいんですかね?

 本気で、お祓いに行こうかどうか悩んでるんですけど、あまりお金もないし、そもそもどこに頼みに行けばいいかもわからないし、困ってます。

 そのへん、詳しい人いたらぜひ教えてください。

 それでは、今日の動画はこれで終わりたいと思います。

 ご視聴ありがとうございました。事故物件ユーチューバーのカイでした。チャンネル登録お願いします。


***


 バイト先で転んでケガをしたの事実だった。フロアの床で頬を思いっきり滑るようにこすってしまったため、右の頬のかなり広い範囲に軽い擦過傷ができてしまった。傷じたいは浅いので見た目ほどはひどくないのだが、店長の野田が「接客業で顔に茶色いかさぶた作ってるくらいならなら、絆創膏でも貼り付けておいたほうが客の印象がマシ」ということで、勤務先の救急箱にあったガーゼで応急手当を自分でやった。

 金縛りやオーブでできた人の顔の話は、完全に捏造だった。

 嘘を吐いたことに対して、まったく罪悪感はない。視聴者が欲しいものを提供して、再生数が伸びる。誰も損しない。最高じゃないか。

 動画の再生数は、コンスタントに1万を超えるようになっていた。

 そろそろ本業であるはずの音楽活動を再開しなけばならない。これだけの視聴者がいるなら、それなりに宣伝にはなるだろう。

 しかしあれ以降、レオにはLINEを送って既読になるも、返事が返ってくることはなかった。

「別のボーカル、探さないといけないかもな。トシミツにアテがないか、聞いてみるかな」

 貝塚は部屋でそんな独り言を言った。


”RTYKF1979 転んだの、霊障じゃないんですか? 本当、気をつけてください”


”TAKUYA222 ツイッターから来ました。これが噂の事故物件チャンネルですか。がんばってください”


”SERIKA001 青森県五所川原市の、「まつばら」って地域で活動してる霊能者がすごいらしいですよ。どんな悪霊でも一発で退治してくれるらしい。一度、お調べになってみてください。”


”YUJIROTOMIO この動画の最後のほう、悲鳴みたいな声が入ってない?”


””RTYKF1979 >YUJIROTOMIO 本当だ。小さい声だけど、何か入ってる。「たすけて」って言ってるように聞こえるけど……ガクブル”


”TOFUDAISUKI どうやら冗談じゃなさそうだな。お金ないなら、クラウドファウンディングでお祓いするためのお金募ったら如何? 5000円くらいなら出してもいい”


 この動画の再生数は、1万5000に及んだ。ほぼ日本武道館の収容人数と同じ数だ。


***


 みなさん、こんにちは。事故物件ユーチューバーのカイです。

 顔のケガはすっかり治りました。まだちょっとかさぶたが残ってるんですけどね。転んだのは霊障だって心配してくれてた視聴者さんもいたみたいですが、ただ単に足が滑っただけですよ。完全に僕の不注意です。

 あと、霊能者についてコメントくれてた人がいましたが、いくつか調べてみるとけっこう料金が高いらしくて、とても払えそうにないです。何せ、生活するだけでけっこうカツカツですから。

 実は身の回りで、立て続けに心霊現象かもしれないという事態に見舞われました。

 まずひとつめは、身体にみょうな傷跡が浮かび上がってきたんです。

 えっと、ちょっとTシャツ脱ぎますね。……よいしょっと。

 ほら、これわかりますかね。左の鎖骨のあたりから、右の脇腹まで切り傷みたいなのが出来てしまったんです。もちろん、こんなケガをするようなことはしてません。

 今日の昼くらいですが、いきなり胴体に痛みを感じて目が醒めたんですが、服を脱いでみたら、わき腹に蚯蚓腫れのような赤い線が出来てたんです。最初は虫か何かに刺されたんだろうと気にしなかったんですが、だんだん痛みの範囲が広くなっていって、3時間くらい経つと熱くなって血がにじむようになってきたんです。

 氷で冷やすと、腫れは引いたんですが、傷口は残ったままになってしまいました。

 これ、やっぱり何かの呪いなんですかね。そろそろ自分でも心配になってきました。

 あ、病院にはまだ行ってないです。

 それと、2日前のことなんですが、心霊現象と言ってもいいような動画が撮影できたんで、それもご紹介したいと思います。

 その日も、夜勤のバイトに出るとき、例のごとくカメラ回しっぱなしにして家を出たんですが……。いわゆるポルターガイスト現象ってやつでしょうか。

 とりあえずその動画をご覧ください。

 どうぞ。


***


 貝塚はそこまで言うと、手を伸ばしてカメラの録画停止ボタンを押した。

 2日前、バイトは休みだった。当然、夜勤などには出かけていない。

 その日、午後8時半くらいに恵美が部屋にやって来た。そして、ひどく火力の弱い電気コンロをなんとか駆使して、二人前のペペロンチーノを作った。パスタを茹でた鍋をいったん横においてから、今度はその空いた電気コンロでフライパンを温まるのを待たなければいけないので、麺がずいぶんと伸びてしまった、などと言っていたが、それなりに食えるものができあがっていた。

 冷蔵庫にまな板や包丁、鍋にフライパンに薬缶など、恵美がこの部屋に出入りするうちに、それなりに生活感のある健全な部屋に変貌していった。

 恵美にはまだ、この部屋が事故物件であることは伝えていないし、ユーチューブに動画投稿していることもバレていない。

「あれ、このカメラ、どうしたの?」恵美が部屋のすみに立ててある三脚を見つけて言った。

「ああ、昔のバンド仲間がこの前来たときに、なんか知らないけど置いていったんだよ。ライブのとき以外は使い道ないから、好きなように使ってくれって」

「まさか、今日はこれで撮るつもり?」

 当然、今日も恵美とセックスをするつもりではいたが、それは考えていなかった。高画質で女の裸を撮れるのは惹かれるものがあったが、

「いや、もし落として壊してしまったら弁償できないから、止めとく」

 それを聞いて、恵美は少しつまらなそうな顔をした。

 その日は、スマホでの撮影もしなかった。やはり女を抱くときには欲望を満たすことのみに没頭したい。

 恵美の口内と、そして腹の上にそれぞれ一回ずつ射精をしてセックスを終えた。

「賢者タイム」に至り、貝塚が考えたのは事故物件チャンネルのことだった。動画の再生数が日に日に落ちていた。

 大物ユーチューバー「ヒミコ」が、事故物件を借りて動画撮影を開始したことを知ったのは、前の動画をアップロードした翌日のことだった。自分の投稿した動画に関連するものとして、「ヒミコ、事故物件に住むの巻」というタイトルの動画がレコメンドされたのだった。

 もちろん貝塚はそれを再生した。


***


 こんちは、ヒミコでーす。実は今日から、新居での動画撮影になります。

 いきなりですが、みなさんはオバケとか幽霊とか、信じますか?

 怖いですよね、オバケ。僕は見たことないんですけど、見たことある人は何度も見るって言うし、いったいどうなってんのかなって思って。

 前々から言ってたとおり、最近ずっと引っ越しすること考えてたんだけど、それじゃ実際に検証してみようってことで、事故物件に引っ越すことにしました。

 まず、不動産屋さんで撮影したのから、ご覧いただきましょう。あ、不動産屋さんには、顔を写さない、社名は出さないということで撮影許可いただいてますので、そのへんはご安心を。

 それでは、どうぞ。


***


 ヒミコが一人でしゃべっていた動画が切り替わって、顔にモザイクが入った、スーツを着た男性の姿が映し出される。


***


「あの、いわゆる事故物件ってやつに住みたいんですけど」

「事故物件ですか?」

「有ります?」

「いちおう、一件だけ有りますけど。ちょっと待ってくださいね。……あ、これ。これです。こちらです」

「へえ。うわっ、敷金礼金ゼロで家賃4万円ってこれマジですか?」

「ええ、この付近の相場から言えば半値くらいですが、やっぱり心理的瑕疵物件ということになると、だいぶ安くせざるを得ませんからね」

「あの、事故物件ってことは、その何かがあったということで事故物件になったと思うんですが、ここはいったい何があったんですか?」

「住んでた方がお亡くなりなって……。いわゆる、自殺ですね。ドアノブに吊るしたタオルに首を掛けてお亡くなりになってます」

「うおっ! キツいなあ……。それで、あの肝心な部分の……、こう言ってはなんですが、ズバリ聞いてしまうと、出るんですか、それとも出ないんですか?」

「幽霊ですか?」

「はい」

「それは何とも……。こちらとしては、科学的には有り得ない、ということしか申し上げられないですね」

「じゃ、とりあえず内見させていただいてもいいですか?」

「ええ、ありがとうございます。参りましょう」


***


 動画はまだ続くが、そこでいったん再生を止めた。

 パクられた。

 そう思った貝塚は、さっそくヒミコの動画のコメント欄に「人の始めた企画を真似しないでください」と書き込んだが、瞬く間に「ヒミコさんがどんな投稿しようが勝手だろ」とか「お前のほうがパクってんじゃね」あるいは、「お前の動画見てみたけど、しょぼすぎ。編集くらいちゃんとしろよ」などという貝塚を批難するコメントが溢れた。

 大物ユーチューバーとなれば、何をやっても擁護する信者のような存在がいる。その熱狂っぷりは新宗教の教祖を崇めるそれに似ていた。

 ヒミコのアップロードする動画は、心霊現象が起こるかどうかはともかく、クオリティは貝塚のものとは比較にならなかった。大物ユーチューバーらしく、部屋に4台のカメラを置いて、死角がないように撮影し、天井カメラも装着してある。見事な編集を経てテロップが付けられた動画は、単純に見ていておもしろかった。

 撮影設備も視聴者の数もノウハウも、足元にも及ばない。

 再生数は100万を超えないものがない。時には200万に及ぶものすらある。

 貝塚はその自分のものとは比較にならないほど大きな数字を見て悔しく思ったが、事故物件に住むことに特許や知的財産権が発生するわけもなく、指をくわえて見ているしかなかった。

 ヒミコの事故物件動画の再生数に反比例するように、貝塚の動画は視聴者を急激に減らしていった。

 一度手に入れかけた何かが、するすると指の隙間から砂のように落ちていく感じがした。

 俺には、心霊現象が要る。どんなものでもいい。ヒミコの動画を超えるような、強烈な心霊現象が。

「なに、ぼーっとしてるの?」裸で横に寝っ転がっている恵美が、こちらを向いて不満げに行った。

「いや、ちょっと考え事してて」

「最近、カイちゃんちょっと変じゃない?」

「変?」

「うーん。何ていうか、生気がなくなったていうか。うまく言えないんだけど」

「生気がなくなってる人間が、2回続けて発射できるわけないだろ」

「そういうのじゃなくて、……まあ、いいや。死んじゃダメだよ」

「死ぬわけないだろ」

 特に体調が悪いということもない。転んで顔をケガしたが、そのほかに不審な出来事は一切ない。それとも、動画の再生数が減っていることによる心理的な負担が顔に現れているのだろうか。

「あのさ、ちょっと聞いてもいい?」貝塚が裸の上半身を起こした。

「なに?」

「心霊現象って、体験したことある?」

「何言ってるのよ。カイちゃん、そんなの信じてるの?」

 予想外のことを問われ、恵美はすこし呆れたような顔をした。

「いや、そういうわけじゃないんだけど」

 恵美は寝返りを打って、貝塚に背中を向けた。

「心霊現象かどうかはわからないんだけど、ここ1週間くらいかな。ずっと同じ夢を見るんだ……」

「夢? どんな夢?」

「街のなかの道路の上を走ってる夢。具体的にどこかはわからないんだけど、見覚えあるような街並み。でも、まわりに人間はひとりもいないの。で、なんか黒い影みたいなのが後ろから追っかけてきて、私はそれから必死に逃げるんだけど、急に落とし穴に落ちたみたいに、地面のなかに吸い込まれて行って、毎回そこで目が醒める」

「なんだそりゃ。それって、怖いのか?」

「とにかく、私はその黒い影のことをひどく嫌ってる……、というよりも、影のほうが私のほうを嫌ってるのが伝わってきて、逃げずにはいられないのよ。しかも不思議なことに、私はその影の名前を知ってる」

「影に名前があるのか?」

「うん。その影、吉岡か吉富とか、そんな名前だった」


 午後11時くらいに恵美が帰ってから、貝塚は暗くした部屋で撮影を始めた。床にわざと、1枚のTシャツと靴下を脱ぎっぱなしにしておいて、貝塚自身はカメラの死角になる冷蔵庫の裏側に隠れた。

 右手に握った、100円ショップで買ってきた細い釣り糸をそっと引っ張ると、床の上のTシャツが弱い風にあおられたかのようにめくれた。続いて、左手の釣り糸を引っ張る。靴下が芋虫のように床の上を動いた。

 そんな動作を何度か繰り返した後、貝塚は部屋の電気を点けて、カメラの録画を停めると、小さな液晶で撮ったばかりの動画を確認した。

 暗視モードの画面には、釣り糸は一切写り込んでいない。初めての試みだったが、想像以上にうまくいった。

 こうして自作の心霊現象ができあがった。

 しかし、きっとこれではまだ弱い。もっと強烈で人目を引く何かが必要だ。

 貝塚はしばらく逡巡した後、シャツを脱ぐと恵美が料理に使っている包丁を手に取って、自らの胸に当て、覚悟を決めて刃先をわき腹まで一気に下した。

 痛みが轟音のように響いて胸から背中を左右に周回した。そして時間を置いて、傷口から血が溢れてきた。

 この傷口を霊障と称した動画をアップロードしたら、視聴者はどんなコメントをするだろう。包丁に付着した血をティッシュでぬぐいながら、貝塚はそればかりを考えていた。


***


 こんにちは、ヒミコです。ちょっとヘコんでます。ヘコんでるというか、気分が悪いというか。

 事故物件に住み始めてまだ1週間なんですが、撮れてしまいました。いわゆる心霊現象。

 しかもそれが、合成かヤラセじゃないかっていうくらいにガッツリ撮れてしまったので、みなさんにご覧いただいても、信じてもらえないんじゃないかって心配するくらいです。

 その動画は後でご覧いただくとして、さすがにヤバいと思ったから、早速霊能力者のところに行って、お祓いをしてもらってきました。

 その霊能力者っていうのは、神仏分離する前の日本の伝統宗教を受け継いでる人で、古い自宅の狭い庭には、1200年前のものとされる小さな石の仏像が祀られていて、とにかくかなりの力のある人らしいです。

 本来ならお祓いの予約は半年待ちくらいらしいんですが、無理を言ってお願いしました。

 撮れた動画をその人に見てもらうと、「あなたに害を及ぼすことはないから、心配するには及ばない」なんて言われたんですが、いちおう念のためということでお祓いもしてもらいました。

 神社で唱えてもらう祝詞って言うんだっけ、あれを唱えてる最中に、ところどころ、「おんわびら」なんとかかんとかいう呪文みたいなのが入っていて、奇妙なお祓いでした。

 終わると、心なしか身体が軽くなったような気がしました。

 その霊能力者には、自殺があった事故物件に住んで動画配信してるということを正直に話して、継続していいものかどうか相談したんですが、「やってることは感心しないが、今のところ悪いものが憑いているように見えないから、気にすることはない」と続行のお墨付きをいただきました。

 でも、偉大な霊能力者が大丈夫ってお墨付きが出てるなら、これ以上撮影する意味があるのかどうか、疑問ですが。

 まあとりあえず、僕が撮影に成功したくだんの心霊動画をご覧ください。

 どうぞ。


***


 四分割で表示された画面右下の時刻表示は、午前1時34分を示していた。

 暗視モードで撮影された動画はやや緑ががかっている。部屋の端にベッドが置いてあり、その上にヒミコが寝ている。いびきがずいぶんうるさい。

 いびきだけが響いている動画がしばらく続いたのだが、そのいびきがピタリと止んだかと思うと、部屋の中心の床から、何か黒い影のような小さな点が発生した。その点は徐々に大きくなって30センチを超えて大きくなった。

 そして、その影がまるで下から押し出されるように盛り上がると、布か紙を突き破るようにして、人間の影が現れた。全身真っ黒で長い髪の毛を頭から垂らしている。

 ベッドのヒミコは、まるで水のなかで溺れているかのように、腕をバタバタと動かしている。

 その黒い影の女は、カメラのほうに顔を向けると、口から何か褐色の液体のようなものを垂らしていた。まるで固まりかけている血のような粘液だ。

 粘液が流れ終えると、影はそこにカメラがあることを知っているかのように、天井を見上げた。口が金魚のようにパクパク動いている。何事かを訴えているようだった。

 約10秒後、影は空気に溶けるように消えた。

 なんだ、これは。なんであれが、あそこにいるんだ。

 ヒミコが撮影したあの黒い影は、少し前に自分の部屋に現れたものとおそらくは同一のものだ。それがなぜ、ヒミコの部屋にもいるのだろうか。しかも、もっと具体的な形を伴って。

 事故物件ユーチューバーの動画を渡り歩く霊だろうか。いやそんなものがいるはずはない。

 貝塚は、あの黒い影が全身を現した姿は、かつてどこかで見たことがあったような気がした。しかもかなり身近なところで。

 この動画の再生数は400万を超えていたが、もはやそんなことはどうでもよかった。

 ただひとつ、ここまで強烈な心霊動画の撮影に成功したことによって、ヒミコは事故物件ユーチューバーの王者の座を獲得し、自分はもはや全く顧みられることのない存在になったことは確定してしまった。もう動画撮影を継続しても、ヒミコの劣化版としか見られないだろう。

 その後は何にも考えることができず、ただ放心状態でぼーっとして過ごした。気付くと午後7時を超えていて、もうすぐバイトに行かなければならない時間だ。

 体調不良を理由に休もうかとも思ったが、生活にそんなに余裕があるわけじゃない。一日分の給料を失えば、一日分以上の出費の抑制を要求される。

 貝塚は着替えて、バイト先のカラオケボックスに向かった。

 いつものように、雑居ビルの2階の登る。階段の踊り場には、ロッカールームに無造作に置かれていたクリスマスツリーがはやくも飾られていた。青や赤の電飾のLEDがちかちかと点滅している。カラオケボックスの客が歌を歌っている貧弱な声が壁を伝ってにわかに聞こえる。

 足取りは重かったが、ようやく階段を登り、カラオケボックスのカウンターが見えてきた。視界に店長の野田の姿が入ったので、「おはようございます」と言って軽く頭を下げた。

「カイちゃん、遅かったな。いつもはシフトの15分前くらいにはやってくるのに」

 そのままロッカールームに向かおうとする貝塚に向かって、野田がそんなことを言った。

 応じるように軽く頭を下げ、カウンター横を通り過ぎようとしたが、野田は言葉を続ける。

「カイちゃん、夕勤の恵美ちゃん知ってるだろ? 辻井恵美ちゃん」

「はあ」

 バイト先には、貝塚と恵美が関係を持っているということは伏せてある。きっと野田も気付いてないはずだ。特に隠す理由はないのだが、そのほうが貝塚にとっては何かと都合が良かったし、これからもそうするつもりだ。

 しかし、次の野田の口から発せられた言葉が、すべてを打ち砕いだ。

「さっきお家の方から連絡があって、恵美ちゃん、今日の夕方に亡くなったんだって」

「え?」

 頭が真っ白になった。

「詳しく聞いたわけじゃないからまだはっきりしてないんだけど、どうやら、自殺らしい。ビルの上から飛び降りたんだって。急なことなんで、どうしていいやら……。とりあえず今晩お通夜らしいから、俺はこの後ちょっと顔出しに行ってみるよ。店、頼むね」


 朝7時前に、貝塚は事故物件の自室に戻った。

 野田から恵美の死を知らされて以降、目に入ってくるものがすべて靄が掛かったようにぼやけて見えて、仕事には集中できなかった。ミスを連発してしまったために、一緒にシフトに入っていた趙がひどく苛立っていた。

 電気を点けていない部屋は、まだ暗い。そしてひどく寒い。

 急に、世界中でひとり取り残されたような気分になった。

 恵美に自殺する動機などなかったはずだ。悩みがあるそぶりなどは微塵も見せたことはない。詳細を聞いたことはなかったが、親や友人間でも、それなりに良好な関係を維持しているらしいということは伺えた。

 それとも、俺に原因があるのだろうか。

 たしかに出会ってからしばらくは二股状態だったし、恵美はそれを承知の上で関係を了承した。しかも、貝塚が前の部屋を追い出されたことにより、その二股も解消したのだ。

 もしかして、前に恵美が言っていた、黒い影に追われて落とし穴に堕ちるという、繰り返し見る夢が影響しているのか。

 まさか、と思って聞き流していたが、やはりそういうことなのだろうか。

 貝塚は床に座ったままスマホを取り出して、画面を操作した。恵美とはそれほど長い付き合いではなかったし、ふたりで旅行に行ったことも一度もなかったから、貝塚が所有しているものなかで唯一残っている恵美の姿は、この部屋に初めて恵美が来たときに撮影したときのハメ撮りだけだった。

 その動画を、再生してみる。

 最初はいやがって必死に顔を隠している恵美が、「やめてよ」としきりに言っている。やがて貝塚の説得に負けた恵美が、不安そうな顔でこちらを見ている。

 ――絶対、誰にも見せない?

 ――約束する。

 かつて交わした会話が再現される。

 画面のなかの恵美の裸を見て、貝塚は興奮しなかった。むしろ、懐かしさのような感情が湧き上がってくる。それほど愛していなかったはずの女が、今はこんなにいとおしい。

 秘部を貝塚の指で乱暴に掻きまわされ、身体をよじりながら恵美は「イクッ……、イクッ!」という声で絶頂を表した。

 画面が転がるように部屋のあちこちを映した後、恵美が貝塚の両脚のあいだにきちんと正座をして座ると、恵美は勃起したペニスを口に含んで髪を耳にかき上げた。そしてカメラに向かって笑顔でピースサインをした。

 そのとき、スマホの画面が、ガラスが割れるようなノイズが混じった。しかし、すぐにもとに戻る。

 30秒ほどしたら、またノイズが入る。分厚い段ボールを力づくでやぶったような雑音が、何度も聞こえた。

「なんだ、これは。故障か?」貝塚はひとりごとを言った。

 手に持ったスマホを裏向けてみたり左右に振ったりしてみたが、画面の乱れはおさまるどころかもっとひどくなっていった。

 そして、画面は完全に消えて光を放たなくなった。

 ブラックアウトした画面に、自分の顔が反射している。故障だろうか、と思っていると画面はふたたび先ほどの続きの動画を再生し始めた。

 それは、恵美がいやらしい音を立てながら貝塚のペニスを咥えて顔を上下している姿、のはずだった。しかし、恵美の顔が画面にうまく表示されていない。顔の部分がまるで墨でも塗ったように黒くなっていて、目の部分に白い穴が空いている。まるで般若の面を真っ黒に塗ったような表情になっているのだ。

 画面のそれは、まるで貝塚のペニスをむさぼり食らうように、「ブシュ、ブシュ」という音を立てた。やがて股間から顔を離すと、口から褐色の液体を糸を引いて垂らせていた。

「うわっ!」貝塚は手に持っていたスマホを思わず放り投げた。

 床に転がったスマホから、生肉を食らうような音が狭い部屋に響いていく。

 まちがいなくその黒い何かは、貝塚の部屋に顔を見せ、その後ヒミコの動画に心霊現象として現れたあの黒い影だった。

「うわあああ……ああ……」

 気持ちよさを表現しているのか、もしくは苦しさを表現しているのか、どちらかわからないような、自分の喘ぐような声がスマホから聞こえてくる。

 この部屋には、やはり俺は住むべきではなかった。

 十数分後、床の上に落ちたままようやく動画の再生を終えたスマホに、おそるおそる手を伸ばす。動画再生ソフトが開いたままになっているが、すぐにそれを閉じて、アドレス帳を開いた。

 貝塚にはこういうことを相談できる相手はひとりしかいない。トシミツは実家が寺らしいが、何かしらの修行を受けた経験はおそらくゼロで、単なるオカルトマニアの域を出るものではないだろう。大物ユーチューバのヒミコがお祓いをしてもらったという霊能力者に頼るのがよさそうだが、カネもないしコネもない貝塚にとっては、おそらく手の届く存在ではない。

 スマホを操作して、レオに電話を掛けた。

 相方のレオとは、あれ以来、一度も会ってないし、SNSで一方的にメッセージを何度か送ってはみたが、返信はなかった。

 もしかしたら電話に出てくれないかもしれない。頼む、出てくれ。祈るような気持ちでコールが続くのを聞いていると、8コール目でレオは電話に出た。

「もしもし……」朝なのに、レオはぜんぜん眠たそうな声をしていなかった。

「もしもし、レオ。俺だ。しばらく連絡しなくてすまない。いきなりで悪いが、ちょっと助けてほしいんだ。何もかも、お前の言うとおりだった。俺が間違っていたよ。ほかに頼れる人もいないし、本当に、すまなかった」

 焦る貝塚は一気にまくし立てた。

「ちょっと待ってよ、カイちゃん。今どこにいるの? カラオケボックスにでもいるの?」

「え? いや、自分の部屋にいるけど……」

「ちょっと、うるさくて聞き取れないや。もっと大きな声でしゃべってよ」

 うるさい? いったい何がうるさいというのだろう。この部屋には、俺以外には誰もいない。

「カイちゃんの後ろでしゃべってる女の人、誰? 新しい彼女? っていうか、朝から何やってるんだよ」

「お前こそ何言ってるんだ。とにかく、今からウチに来てくれないか。相談したいことがある」

「ウチって、どこ? 引っ越ししたとか言ってたでしょ」

 そういえばレオには新居の住所を教えていなかった。しかし電話を通して、レオの耳にはいったい誰の声が聞こえているというのか。電波が混線でもしているのか。

「えっと、ウチの住所は……」

 住所を告げる前に、いきなり電話は切れてしまった。画面を見てみると、右上の電波状況の表示が「圏外」になっていた。そんな馬鹿な、有り得ない。こんな都会の真ん中で。

 そのとき、「バチン、バチン」という何かが弾けるような音が部屋の隅で響いた。貝塚は一瞬のけ反ったが、その方向を見てみると、スタンドに立てかけてあったアコースティックギターの弦が6本すべて千切れていて、弧を描いて空中に垂れていた。

 スマホでリダイヤルしようと試みるも、圏外の表示が変わることはなかった。

 突然、地震が発生したかのように、冷蔵庫が激しく左右に揺れ始めた。間を置かず、シャワールームから、勢いよくシャワーの水が飛び出すような音が聞こえてきた。風もふいていないのに、窓のカーテンが激しく翻る。

 部屋のなかのあらゆるものが、まるで生きているかのようにうごめき始めた。

 呆然としている貝塚の目の前で、あれほど求めていて、自ら捏造までしたことさえあるポルターガイスト現象が、貝塚をあざ笑うかのごとく次々と発生していく。

 一刻も早く、この部屋を出なければならない。

 貝塚はもつれる足を何とか交互に動かして玄関の扉の前まで行った。靴も履かずにドアノブを回してドアを押したが、開かない。もちろん鍵は掛けていない。しかし何度ドアに体当たりを繰り返しても、鈍い音がするばかりだった。

 窓から飛び降りよう。2階だから、軽いケガですむはずだ。

 そう考えて部屋のほうを振り向くと、そこには黒い影がこちらを向いて立っていた。その影の手に当たる部分には、包丁が握られていた。

 貝塚はその場に倒れ込んだ。腰が抜けたのか、脚を動かそうとしても痙攣するばかりで、上半身を左右にビクビクふるわせることしか適わない。

 いきなり胸に強い痛みを感じた。数日前に自分で付けた大きな傷口が、皮膚の下でまるでミミズのように暴れている。肋骨が内側に圧迫されて、思うように呼吸できずただ鼓動だけが早くなっていく。

 数十秒ほど傷口のミミズが暴れた後、まるで何かから解放されるかのように貝塚の胸から鮮血が噴水のように勢いよく飛び出した。

 黒い影はその様子をじっと眺めていた。

「カイ君。ずっと待ってたんだよ。来てくれると信じてた。あなたは私だけのものよ。今度こそ、一緒になろうね」

 ささやく声が、どこかから聞こえてきた。

 皮膚が急激に黒ずんでゆき、指の肉が腐るように落ちていく。足はブヨブヨに膨らんで、動かそうとすると腫れた足の甲が水風船が割れたように破裂して褐色の液体が飛沫した。爆発した足から、米粒のなかに黒い点がもぐりこんだような無数のウジ虫が四方八方に散らばった。

 臭い。朦朧とする意識のなかで貝塚はそればかりを感じていた。まるで自分が腐乱死体になったようだ。

 貝塚は残った呼吸をすべて吐き出して、

「凛音、やっぱりお前だったのか。俺が悪かったよ。許してくれよ」と訴えた。

 薄れていく意識のなかで、この部屋で起こったいろいろなことを思い出していた。


 黒い影は、脱色していくように色が薄くなっていくと、やがて裸の若い女の姿になった。

 その女は、腐った肉となった貝塚を見下ろして満足げに微笑んでいた。


***


 昔の恋人の吉川凛音とは、バンドのブラックバス時代から交際が続いていた。貝塚にとってはそれまでの女と比べると、かなり長く続いたほうだった。

 出会いのきっかけはライブハウスに届けられていたファンレターで、貝塚はその中に記してあったメールアドレスに早速連絡した。バンド内ではあまり特定のファンだけと親密に交流するのはよくないという雰囲気はあったが、そんなことは知ったことではなかった。

 出会った当時、凛音は19歳の専門学校生で、貝塚は大学の三回生だった。凛音は都内のワンルームで独り暮らしをしていた。150センチほどの小柄な体格に似合わない巨乳をしていて、ロングの黒髪は昆布のように野暮ったい。

 ふたりは間もなく肉体関係を持つに至ったが、凛音が処女だったことに貝塚はにわかに驚いた。ライブハウスに出入りする客など、男女問わず遊び人が多いものだが。

 凛音は度が過ぎるほどにおとなしく従順な性格をしていた。なぜこんな女が自分たちのライブを見に来たかというと、学校の友達に強引に誘われて断れなかったと言っていた。そこで見た初めてのライブで、一目ぼれのような感じで貝塚のファンになってしまったらしい。

 貝塚はセックスがしたくなれば凛音のワンルームマンションを訪れた。凛音はいつも丁寧に貝塚のペニスをしゃぶり、精液を呑み下すと得意げな表情を見せた。アナルにペニスをねじ込むと、痛みで苦悶の表情を浮かべながらも、貝塚の腕を強く握っていた。貝塚が何を求めても、拒否することはなかった。貝塚にとって凛音は最高の女だった。

 大学卒業を間近に控えたある日、貝塚は両親から卒業後の仕送りはできないと通告された。就職には失敗したし、カネを稼ぐあてといえばバイトしかない。

 貝塚が考えたのは、仕事量を増やすことよりも、家賃のいらない誰かの家に転がり込むことだった。もちろん第一候補は凛音のワンルームだった。

 しかし、そのころから凛音の性格に難があることが徐々に判明していった。

 きっかけは貝塚の浮気がバレたことだった。凛音はひどく貝塚を責め、それ以上に自分を責めた。凛音は浮気相手とはどんなセックスをしたのかを、根掘り葉掘り聞き出そうとした。

 相手は誰なのか。何歳なのか。何回浮気したのか。どんな体位をしたのか。フェラチオはしたのか。クンニはしたのか。避妊はしていたのか。アナルには入れたのか。

 それらをしつこく何度も貝塚に自白を迫って、その後に事実を知ったことを後悔するという意味不明な行為を繰り返した。

 この女はまずい。そろそろ離れなければならない。

 浮気相手だった佐藤美雪を本命に切り替えようと決めたころ、凛音は自傷行為を開始した。凛音が最初にカッターナイフで切ったみずからの部位は、ありきたりな手首などではなく乳房だった。左の乳輪のまわりを取り囲むように多角形の傷を作っていた。

 もはやまごうことなきヤンデレ女だった。

「カイ君に捨てられたら、私死ぬから」

 傷を見せつけながら凛音が言った。

 この女とはもう会えない。会うとヤバい。貝塚は凛音の電話番号を着信拒否して、SNSはすべてアカウントをブロックした。

 その後、美雪と同棲を始めて、しばらくは平穏な日々を過ごしていたのだが、約2か月が経過したある日、知らないアドレスからメールがやって来た。

 開くと、

「新しい彼女の名前、佐藤美雪さんって言うんですね。株式会社××コーポレーションというところにお勤めの、美人のOLさんですね。事故に遭わなければいいですね」

 と書いてある。

 めまいがしそうだった。凛音であることは疑いなかった。

 すぐに凛音のワンルームへ向かった。部屋の前に立ってドアノブを回すと、鍵は開いていた。

「凛音、いるのか!?」部屋のなかに向かって叫ぶ。

 返事はない。

 部屋のなかにそっと足音を立てないように入る。カーテンは閉まっていて、昼なのに真っ暗だった。床に洋服や下着、またはコンビニの弁当ガラやペットボトルなど散らばっていて、かつての様子とは似ても似つかないものになっていた。

「カイ君」

 ぎょっとして振り向くと、そこには髪の毛がボサボサで頬はやせこけ、白目だけがやたら光っている女の姿があった。服はいっさい着ておらず、細った腕や脚が薄っぺらい胴体から突き出している。暗い部屋のなかでも、腕や胸、あるいは首筋に赤黒い切り傷が身体についていることが見て取れた。

「凛音!」

 女は右手に包丁を持っていた。刃渡り30センチ近くありそうな出刃包丁だった。恐怖よりも怒りが込み上げてきた。

「お前、何やってんだよ。ふざけんなよ」

「天国で、一緒になりましょう。カイ君は私だけのものなのよ」

 凛音が包丁を振り上げて、貝塚に飛び掛かってきた。後ろに避けると、凛音はバランスを崩して床に倒れ込んだ。

 眼下に、ボサボサ頭の凛音の後頭部がある。貝塚はそれをサッカーボールのように蹴り上げた。凛音の身体が吹き飛んで、手に持っていた包丁が床に突き刺さった。

 凛音はうめき声を上げながら起き上がり、その包丁を取ろうとする。

 その後のことはあまり記憶がない。気付けば、血まみれになった凛音の遺体が床に転がっていた。

「いつまでも、待ってる」

 絶命する寸前、凛音はそんなことを口にしたような気がした。

 貝塚は手や首筋の血をバスルームで洗い落とすと、逃げるように部屋から出た。黒いシャツを着ていて返り血が目立たないのは運が良かった。

 そしてちょうど3週間後に、ワンルームマンションで専門学生の腐乱死体が発見されたというニュースが流れた。

 貝塚は心ここにあらずという日々を過ごした。直近の交際相手ということで、自分がいちばんに疑われることは間違いない。

 とうとう、事件発覚後4日目の昼に、警察が事情聴取にやってきた。

 貝塚は、凛音とはもうかなり前に別れており、死んだことは知らなかった、自傷癖があったから自殺ではないか、としらを切った。犯人の心当たりはないか、と聞かれ、

「そういえば、僕と付き合う前ですが、ストーカー被害に遭っていたということを聞いた記憶があります。たしか相手は、専門学校の講師らしいんですが、具体的に誰かは聞いていません」とその場での即興のでたらめを取り調べに来た警察に密告した。

 過去の交際相手だったということで疑われたのだが、それが逆に幸いした。凛音の部屋から貝塚の指紋や毛髪が出てきたところで、何の証拠にもならない。事件が発生したとき隣人は留守にしていたらしく、目撃者も一人もいなかった。

 もう、大丈夫だろう。貝塚が平常心を取り戻して日常生活を送れるようになるまでに、半年ほどを要した。


 時が過ぎ、事件のことなど誰もが忘れ去ったころ、貝塚は恋人で同居人である美雪に三行半を突き付けられた。

 部屋探しに不動産屋を巡ったが、自分が借りられそうな物件はなかなか見つからなかった。しつこく安い部屋を求めると、不動産屋が、事故物件ということでかつて凛音が借りていた部屋を紹介してきたときは、さすがに良い気分はしなかった。しかし、時間的にも金銭的にもほかに選択肢はなかった。

 まさか、こんな形でこの部屋に帰ってくるとは思いもしなかった。事故物件となったそもそもの原因は、この俺なのだ。内見に訪れた部屋はきれいに片付いていた。フローリングは以前は黄色基調の板だったが、濃い茶色のものに張り替えられていた。壁紙も、新しい。

「事件後、ひとりだけ入居者がいたんですけど、なぜか1か月経たないうちに逃げるようにほかの物件に引っ越したんですよ」と不動産屋は言った。

「まさか、オバケでも出るんですかね?」

「出るわけないでしょう。そんなの気にしてたら、不動産屋なんて商売やってられませんよ」

「そうですよね」貝塚は笑いながら相槌を打った。

「あいだにひとり入居者が入っているので、本来ならもう事故物件として取り扱わなくてもいいんですが、期間が短いので引き続き事故物件としての値段で入居者を募集しているんです。大家さんも一刻も早く次の入居者に入ってもらって、事故物件という扱いから脱したいと言ってましたから。本当、この値段は破格ですよ。さすがにここまでは下げ過ぎだと大家さんには言ったんですが、どうしてもこの値段で賃貸に出してくれって強硬に言うんです」

 オバケや幽霊など、いるはずもない。凛音はこれまで一度も化けて出なかった。

 そうだ。オバケなど存在しないことを証明するため、事故物件の映像を撮影してユーチューブにでも投稿してみようか。

 自分が人を殺した部屋に住むことを決心した後、貝塚はそんなことを思いついた。


***


 トシミツは朝の混雑する電車から降りて自動改札を抜けると、ややいらだたし気に歩を進めた。

 元のバンドメンバーである貝塚が、音信不通になってしまったのだ。事故物件ユーチューバーチャンネルの動画はある日、まるで最初から存在しなかったかのように消去された。LINEを送っても既読にもならないし、何度電話をしても留守電に切り替わる。留守電にメッセージを残しても、折り返しの電話はいっさいなかった。

 別にユーチューブをやろうがやめようがそれは貝塚の自由だが、貸しているハンディカメラは明日のライブで自分たちの演奏を撮影するために必要だ。返してもらわければならない。

 もともと音楽以外のことに関してはかなりいいかげんな性格で、特に女関係がだらしないのはメンバーのなかでも有名だった。

 そういえば、人気絶頂のころに貝塚が付き合っていた女の名前は何だったか。一度だけ紹介された、というか駅でふたりでいるところにばったりと出会って、簡単に自己紹介されたことがあった。小柄で髪の長いの女で、医療系の専門学校生。たしか吉川リオとか、そんな感じの名前だった記憶がある。

 その吉川某の顔もライブの客のなかにちらっと見たような感じがしたので、きっとあの娘も貝塚のファンだったのだろう。ずいぶんとだらしない男に捕まった彼女はその後、どうしてるのやら。

 トシミツは貝塚が一人暮らしをしている部屋の扉の前に立った。いくら家賃が安いとはいえ、事故物件に住むとはずいぶんと大胆なことをしたもんだといまだに感心する。

 インターホンのボタンを押す。ピンポーンという音が金属製の扉を抜けてこちらまで聞こえてくる。だが部屋のなかで誰かが動くような様子はまったく見られなかった。

 もう一度、ボタンを押す。

 誰も出て来ない。

「おい、カイ。いないのか? 俺だけど」

 扉をこぶしの背中でノックしてみたが、やはり何も反応はなかった。

 ドアノブを握って軽く回し引っ張ると、ドアが動いた。鍵はかかっていないらしい。勝手に入るのは悪いな、などと思う間もなく、開いたわずかな隙間からこちらに流れてくる異臭に、思わず「おえっ」という声が漏れた。ドブ川の水で腐った魚を煮たようなにおいだ。

 いったい、カイは部屋のなかで何をやってるんだ。

 鼻と口を左手で覆い、右手でドアを開け、中をのぞいた。

 褐色に染まった、何かの塊が部屋の中央にあった。


(終)

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