失われた町へ走る電車

神坂 理樹人

東武東上線川越行

 二軒目の居酒屋を出ると夜の色はさらに濃さを増していた。


 高校卒業以来、十年振りに再会した友人との話は私の気持ちまで若返らせたのかもしれない。当時は飲むことを許されなかった酒を傾けながら昔話に興じているとすっかり夜も更けてしまっていた。


「終電、何時だったかな?」


 友人と別れ、池袋駅の時刻表案内に目を通した。最終便はもう出ている。私鉄の東武東上線の最終電車はたった一分前に池袋駅を離れていた。


「失敗したな」


 若くなった気持ちは私の生来のうっかりまで思い出させてくれたらしい。酔いをさましながら歩いて帰るには物騒な上に遠すぎる。ネットカフェにでも逃げ込もうか、と考えていると、改札の向こうでホームに電車が入ってくるのが見えた。


「今日は、第二土曜日だったか」


 東武東上線には終電の後に走る電車がある。この辺りに住んでいる人間で知らない者はいない。全国でもよく知られた話だ。毎月第二土曜日にだけ、〇時四〇分発川越行きの電車が出る。


「乗っていくか」


 ホームにはいくらか電車のドアが開くのを待っている人がいる。とてもこれから帰るとは思えない緊張した面持ちをしていた。私は意を決して改札を抜け、ドアが閉まる寸前に電車へと駆け込んだ。最後尾の十両目だ。


 流れていく街の明かりを見ながら、私は乗ってしまったことを後悔していた。この電車の終点はもう存在しないはずなのだから。


 地盤沈下によって川越市がなくなってもう三〇年近くになる。私が生まれる少し前の話だ。分断されてしまった今は東武東上線の終点は新河岸しんがし駅になっている。川越駅はもう存在しないのだ。


 毎月第二土曜日の最終電車の後、一本だけ走る川越行きの電車。それは私が小学生の頃から公然の秘密として存在し続けている。馬鹿げた怪談話だと笑い飛ばしたこともつい今しがた友人と語り合ったばかりだった。


 最後まで乗り続けると、あるはずのない川越に辿り着く。事実この電車に乗った後、行方がわからなくなったという事件は数えきれないほどあった。そんなことあるはずがない、と思いながらも私はこの電車に乗るのを避けてきたのだ。


「川越まで行くんだろうか」


 ふと少年ような好奇心が私の中に芽生えた。無謀な冒険心は歳を重ねるにつれて擦り切れてしまったと思っていた。レールの上を走る電車に心を巻き戻されているようだった。


 新河岸駅で放り出されたらどこかで一泊することになる。そんなことも忘れて、私はあるはずもない川越の姿を思い描く。


 窓の外を流れる光の線が私を別世界にいざなっているようだった。


 各駅停車の川越行きが上板橋駅に止まった。やや大きなホームには深夜だというのに煌々こうこうと照らされている。LEDも改良が進み、いくら電気をほとんど使わなくなったとはいえ、過剰ではないかと思えるほどだった。運転士はまぶしくないだろうか、と私は車掌室に目を向けた。

 ここは最後尾だ。よく考えればこちら側にいるはずもない。しかし、閉められたカーテン越しに何者かが息を潜めている姿が強い光によって映し出される。

 明らかに人ではなかった。確かに人の形をしているのに、私の頭がそれを否定していた。気付いたときには私は逃げるように閉まるドアをすり抜けてホームに転げ出ていた。

「い、今のは……」

 私を置いて電車は川越に向かって走っていく。酔いはもうすっかり冷めてしまっていた。私の好奇心も電車に置き忘れてきたようで、もうあるはずのない川越の姿も見えなくなった。

 ただ一人ぽつりと残されたホームで私はゆっくりと息を吐く。ここからなら歩いても帰られるはずだ。

 無人の改札を抜け、駅舎を出て、私は何も走っていないレールを見た。今私が乗っていたのは本当に電車だったのだろうか?

 私の思考すら飲み込む別の何かだったのではなかろうか?

 ゆっくりと家に向かって歩き出す。どこかから野良猫の鳴き声が聞こえた気がした。

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失われた町へ走る電車 神坂 理樹人 @rikito_kohsaka

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