「最初」と「最後」の話をしよう

 

 世界中で一夜限りの小さな魔女や怪しげなモノ達が大量生産されるハロウィンが終わり、夏時間サマータイム(Daylight Saving Time)から冬時間へと時計の針を移動させると、バージニア州の秋は一気に深まる。

 とはいえ、この土地の天気はとっても不安定。暖房が必要になるほど急に冷え込んだかと思えば、翌日には半袖でも快適に過ごせる陽気になったり……『Roller coaster weather(ジェットコースターのような天気)』と表される、呆れるほど激しい寒暖の波が、感謝祭サンクスギビング(アメリカでは11月の第4木曜日)の頃まで延々と続く。



 サマータイムについては、既出のエピソード『春だけど、時差ボケは「夏」のせいにする』で解説済み。

 ハロウィンについては、ウェブ上に色々と興味深い話が転がっているし、好奇心旺盛な方なら「古代ケルト民族の収穫祭『サウィン』が起源」云々などは既にご存じかと思う。なので、ここでは割愛するとして。


 サンクス・ギビングについては、「母国イングランドでの宗教的弾圧を恐れてメイフラワー号で新大陸アメリカに渡った『清教徒ピューリタンの一団=ピルグリム・ファーザーズ』が、1620年に移住先のプリマス植民地(現マサチューセッツ州プリマス)に到着。厳しい冬の到来で多くの死者を出したものの、近隣に居住していた先住民ワンパノアグ族(Wampanoag)に助けられ、彼らの導きで土地に適した作物を栽培し、翌年秋、ワンパノアグ族の人々を招いて新天地での最初の収穫を祝う宴会を開いたのが起源」というのが一般的な見解。

 世界史の教科書にも似たような内容(だが、かなり端折はしょられている)で解説されているので、ご存じの方も多いはず。



 では、あまり知られていないお話を、ひとつ。


 バージニア州で語り継がれる『最後の魔女』のお話を――



***



 バージニア州きってのビーチリゾート「バージニア・ビーチ」方面へ向かうハイウェイ64号線(Interstate 64)を走っていると、妙に目を引く地名の書かれた経路案内標識がある。


Witchduckウィッチダック Roadロード



 初めてそれを目にした時、思わず首を傾げた。

「witch(魔女)と duck(アヒル/カモ)? 変な組み合わせやなあ……魔女には黒猫、とちゃうの?」

 窓の外を眺めながらポツリとれ出た私の声に、運転席の相方が苦笑する。

「そのduckじゃなくて、動詞のduckだよ」 

 動詞のduck。

 そう言われても、私の脳裏に浮かぶ日本語は「ひょいっとかがむ」「身をかわす」くらいだ。


 ひょいっと身を屈める魔女……? 

 なんのこっちゃ。


 ますます首を傾げる私に、相方が「ducking witchで画像検索してごらん」と助言をくれた。で、早速、iPhoneでググってみたところ……


「ひええっ! なんやの、コレ!?」

 iPhone画面に現れた画像を目にして、思わず悲鳴を上げた。

 両手両足を縛り上げられ、椅子にくくりつけられた女性を、数人の男性が川(あるいは池? とにかく水辺)の中に沈めようとしている図のオンパレード。痛いコトやホラーが大の苦手な関西人には、ちとキツイ絵柄だ。

「水責めだよ。拷問の一種。植民地時代、魔女裁判に掛けられた女性をここで水責めの刑にしたんだ」

 

 duckには「~をひょいと水に突き入れる」「(池・流れなどに)~をちょっと沈める」という意味もある。アヒルやカモが首を屈めて、ひょいっと水の中に頭を突っ込む姿を想像して頂きたい。ほんわかユニークなイメージのある動詞なのだが、「〜」の部分に「手足を縛られた人」を当てはめると、なんとも物騒な文章が出来上がる。

 「Ducking水責め」は、魔女裁判で被告が有罪かどうか判断するための一般的な手段だった。当時のキリスト教社会では、「水は神に捧げられる神聖なものだから、水に受け入れられれば(=水中に沈んだまま浮き上がってこなければ)無罪。水に拒まれれば(=水面に浮かんで助かれば)有罪」と考えられていた。要は、手足を縛られたまま水中に放り込まれ、そのまま溺死すれば無罪となって教会の墓地に埋葬されるが、必死にもがいて岸に辿り着けば「魔女」の烙印を押されて処刑される、というワケだ。どちらに転んでも全く救いようがない。


 それにしても、その昔、「ウィッチ」が「ダック」された処刑地が、バージニア州に存在したとは……さすが、「北アメリカで最初の恒久的イングランド植民地」が築かれただけのことはある。

 地図で確認すると、Witchduck Road周辺には「魔女」と「水責めの刑」をキーワードにした地名の多いこと。Witch Duck Bay、Witch Duck Point、Witch Point Trail、Ducking Point Trailなどなど。

 ちなみに、水責めの刑を受けた女性の名前が付けられた道路もあったりする。



 悪魔と契約し、社会の秩序や安寧を破壊しようとする背教者――それが、かつてキリスト教を社会の基盤とする世界での「魔女」の定義だった。近年の研究によれば、ヨーロッパの「魔女狩り」は15世紀から18世紀にかけて行われ、その先導者は民衆だったそうな。

 魔女狩りの最盛期は16世紀から17世紀。その後は衰退の一途をたどり、18世紀末には終焉を迎える。

 ヨーロッパ最後の魔女裁判が行われたのは、1782年。スイスのグラールス州の貧しい家庭で育ったアンナ・ゲルティ(Anna Göldi)という名の女性が、奉公先の家庭の子供に呪いをかけた罪で裁判にかけられ、執拗な尋問と拷問の末に有罪となり、斬首刑に処せられた。



 ヨーロッパを駆け抜けた「魔女狩り」の恐怖は、イングランドからピューリタン達と共に海を渡り、新大陸アメリカの植民地へと引き継がれることになる。

 1692年、マサチューセッツ湾直轄植民地。ピューリタン達が多く暮らす寒村で、少女たちが「面白いから」と始めた「誰かを魔女として告発する遊び」が暴走を始めた。ただの遊びだったはずの告発は、やがて恐るべき「魔女狩り」となって周辺各地に飛び火し、次々に集団パニックを引き起こしていく。

 最終的に、植民地総督(=植民地の最高指揮官。当時の最高権力者)の妻までもが魔女として告発されるという事態が起きたことで、総督自ら魔女狩りに終止符を打つべく動がざるを得なくなった。1693年5月、「魔女」として有罪判決を受けて収監されていた人々に恩赦が与えられ、魔女騒動はようやく収束に向かう。

 1年以上に渡って各地で行われた魔女裁判で、告発された人々は200名以上。そのうち30名が「魔女」として有罪となり、最後まで魔女であることを否定し続けた19名が絞首刑に処され、1名が拷問中に圧死、乳児を含む5名が獄死するという惨憺さんさんたる結果をもたらした――


 この一連の騒動が、「アメリカ史上最悪の魔女裁判」として悪名高い「セイラムの魔女裁判(Salem witch trials)」だ。

 これについては、TED-Edのアニメーションビデオ『What really happened during the Salem Witch Trials - Brian A. Pavlac』(https://ed.ted.com/lessons/what-really-happened-during-the-salem-witch-trials-brian-a-pavlac)の解説(英語音声・日本語字幕付き)が秀逸なので、ご興味のある方はぜひともご覧あれ。

 ちなみに「TED-Ed」とは、非営利団体「TED(Technology Entertainment Design)」が無料で提供する動画サービスのひとつ。様々な分野の専門家がプレゼンテーションを行う「TED Talks」の方が有名だが、TED-Edはアニメーション動画を使った簡潔な解説に定評のある教育ビデオだ。どのビデオも5分前後と短いので、隙間時間にちょこっと視聴するのにピッタリ。興味のある分野について楽しく学ぶことが出来るので、知識力はもとより英語力アップにもつながる……かもしれない。



 さて、セイラムの魔女狩り騒ぎから13年後の、1706年。

 バージニア植民地のとある農村で、一人の寡婦かふが「魔女」として告発され、水責めの刑に処せられた。

 彼女の名は、グレース・シャーウッド。記録に残るバージニア植民地での魔女裁判において、水責めの刑で有罪判決を受けた最初で最後の人物であり、後に 「Witch of Pungo(プンゴの魔女)」と呼ばれる女性だ。

 夫に先立たれたグレースは、女手一つで3人の息子を育て上げた。農作業の傍ら、自ら育てた薬草ハーブを使って人間や動物に治療を施し、助産師の役割も担っていたという。

 農作業は男の仕事とされていた時代に、再婚もせずにシングルマザーとして生きることを選び、たった一人で農園を運営するような女性は、当時としては異例中の異例だった。加えて、無学の者が多い農村地帯では、彼女のようにハーブの知識を駆使してケガや病気を治す女性は、村人から「得体の知れない魔術を操る」と噂されることが多かった。

 キリスト教社会の規範に縛り付けられて生きる人々から見れば、とんでもなく型破りな生き方を貫くグレース。そんな彼女が、奇異の目に晒され、誹謗中傷を浴びせられ、やがて魔女として告発されたのも、時代背景的には致し方なかったワケで。

 


 両手両足を縛られ、重石代わりに分厚い聖書を首にくくり付けられて水の中に放り込まれながらも、幸いなことに、グレースはなんとか縄を解いて岸まで泳ぎつくことが出来た。が、女性が泳げることが珍しかった時代に、(水辺の近くで生まれ育ったおかげで)グレースが溺れることなく岸辺に泳ぎ着いたことで、人々は「魔術を使って生き延びた」と恐れおののいた。

 結局、彼女は有罪となり、この後、8年余りの年月を牢獄の中で暮らすことになる――


 どういった経緯でグレースが絞首刑を免れて投獄されたかは、よく分かっていない。アメリカ独立戦争の戦火に見舞われたバージニア州では、植民地時代の裁判記録のほとんどが焼失/破壊されてしまったからだ。



 1973年にバージニア・ビーチの歴史学者による児童書「プンゴの魔女」が出版されると、それまで日の目を見ることがなかったグレースの魔女裁判に注目が集まり、学術的研究も進められた。

 さて、バージニア植民地「最後の魔女」グレースは、その後どうなったのか。


 1714年、(おそらく恩赦を与えられて)釈放されたグレースは、収監中に取り上げられていた財産を取り戻したものの、「魔女」の汚名は着せられたまま。再婚することもなく、80歳の生涯を閉じるまで農園でひっそりと暮らしたという。


 水責めの刑に処せられてから300年後の、2006年。バージニア州知事が「不当に有罪判決を受けた女性」と正式に認めたことで、ようやく、グレースの名誉が回復されることに。

 翌年、魔女裁判が行われた裁判所跡地から程近い場所に、彼女の銅像と追悼碑が建てられた。近隣の通りや地名に「魔女(witch)」や「水責めの刑(duck)」などの単語が使われ始めたのも、この頃だ。車道の脇には、彼女の災難を記した『Historical Marker(ヒストリカル・マーカー:史跡や歴史的に重要なスポットを示す標識。バージニア州は国内最多の設置数を誇る)』が置かれ、行き交う人々の興味を引く──


 ここまでくると、「観光客の誘致に必死なんやねえ」と思わず苦笑してしまう。

 が、残念なことに、観光客ウケはイマイチだ。どれくらい残念かと言うと、歴史オタクの相方をして「車道に挟まれた小さな区画に置かれた小さな銅像と追悼碑以外、他に観るものがないから、わざわざ行ってみようとも思わない」と言わしめるほど。

 バージニア州の観光スポットとしてガイドブックに載ることはまれで、強いて言うなら、ハロウィンの時期になると、ローカル番組が「バージニア州にも魔女がいたんですよー」と取り上げるくらいだ。


 グレースの銅像、初々しい少女の面影がとってもカワイイんやけどね。その足元で「ねえねえ、ボクを見て!」とばかりに後脚で立ち上がるアライグマの銅像も、とってもカワイイんやけどね。ホントにそれしかないんよね……残念。しかも、水責めにあった時のグレース、確か40代後半やったよね? ちょっとサバ読みし過ぎた感がハンパないしね……


 彼女の銅像がどれだけカワイイのか(はたまた、どれだけ残念なのか)興味のある方は、こちらのニュース記事『Separating fact from fiction: The Witch of Pungo』(https://www.wavy.com/news/local-news/virginia-beach/separating-fact-from-fiction-the-witch-of-pungo/)をご覧あれ。英語音声だが動画付きなので、実際の銅像の様子がよく分かる。



 北アメリカでの魔女裁判について色々と調べるうちに、「あれ?」と思わず首を傾げた。

「セイラムの魔女裁判が『アメリカ最後の魔女裁判』って思ってる人(あるいは断言している内容の記事)が多いんやけど、なんでやろ?」


 ここで、おさらい。


 「セイラムの魔女裁判」が行われたのは、1692年から1693年.

 バージニア州のグレース・シャーウッドが魔女裁判で有罪となったのが、1706年。

 どう考えても、セイラムの方が最後のハズはない。


 実は、アメリカ合衆国最後の魔女裁判は、確かにマサチューセッツ州セイラムで行われていた。が、年代も内容も全く違う。

 1878年に行われたセイラムの魔女裁判は、『Ipswich witchcraft trial』とも呼ばれ、新興宗教「クリスチャン・サイエンス」絡みのお粗末な訴訟内容だった。そのため、担当した裁判官が「それ、ボクが判決を下すようなモノじゃないよね」と棄却したそうな。 

 エジソンが「音楽を録音再生することができる世界最初の製品=蓄音機」を発明したのが、1877年。その翌年の出来事なので、「魔女裁判」自体が時代錯誤の骨董品として扱われても無理はない。



***



 最後に、あまり知られていないお話を、もうひとつ。

 バージニア州で語り継がれる「最初の感謝祭」のお話を──



 1619年12月4日、イングランドからの開拓団が、バージニア植民地のバークレー・ハンドレッド(Berkeley Hundred:現バージニア州「バークレー・プランテーション」敷地内)に上陸。同日、航海の無事を神に感謝するための宴会が催された。 


 プリマス植民地でピルグリム・ファーザーズ達が初めての収穫を神に感謝するための宴会を催したのは、1621年。それより3年も前に、「イングランド人による北アメリカ最初の感謝祭」がバージニア州で行われていたという事実は、アメリカ国内でもあまり知られていない。

 かくいう私も、相方に連れられて現地を訪れた際、ガイドさんの解説を聞いて「ほおおおっ! 植民地時代の新たな歴史発見!」と驚いたものだ。興味のある方は、『The First Thanksgiving Took Place in Virginia, not Massachusetts』

(https://www.washingtonian.com/2015/11/18/the-first-thanksgiving-took-place-in-virginia-not-massachusetts/)をご参照あれ。




 長い歴史に培われた伝統や文化を誇る日本。

 かたや、建国から300年も経たずして世界の超大国のひとつとなったアメリカ合衆国。 

 日本からすれば「若輩もの」のアメリカで、バージニア州は特異な輝きを放つ。


 かつて、イングランドの植民団が築いた「13植民地」の中でも、最古参のバージニア。そんな土地の歴史を掘り起こしてみたら、面白い話がごろごろ転がっているのだから、歴史好きにはたまらない。

 奴隷制を保持するべく北軍と戦い敗れた負の歴史は、「自らの故郷を守るために戦った。これぞ南部州の誇り」とすり替えられた。その結果、現在に至るまで、白人至上主義や人種差別の思想が州民の根底に蔓延はびこっているというマイナス面は否めないけれど。


 なんせ、あのポカホンタスが生まれ育った土地だ。おまけに、ジョージ・ワシントンに始まり非常に多くの大統領を輩出した州として「大統領たちの母」の別称を持つ。多くのアメリカ国民が「一生に一度は訪れたい」と思う州のひとつでもあるそうな。


 「最初」つながりでバージニア州出身の歴史的有名人を上げるなら、太平洋までの陸路を開拓した最初のイングランド系アメリカ人探検隊「ルイス&クラーク(Lewis and Clark Expedition)」を率いたメリウェザー・ルイスとウィリアム・クラークや、バーボン・ウイスキーを最初に製造したエライジャ・クレイグは外せない──



 そんなユニークな歴史が眠る州の片隅で、日々暮らしている。

 そう思うと、南部州の田舎暮らしも、なかなかどうして、悪くない。


 Happy Thanksgiving Y’all.



(2021年11月25日 公開)

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