最果ての島で猫を愛でる

 日本のニワトリが「コケコッコー」と鳴くようになったのは、つい150年ほど前の明治時代のこと。

 それよりずっと前の奈良時代、彼らは「カケロ」と鳴いていた。無駄のない、それでいて、そこはかとなくたおやかな鳴き声が『万葉集』が編纂された時代に生まれたのも、偶然ではないだろう。

 江戸時代になると、彼らは「トーテンコー」と鳴き始めた。東の天空が紅く染まる頃、夜明けを知らせるニワトリの声を「東天紅トーテンコー」と美しく言い表した江戸の人々のいきなこと、この上ない。



 アメリカのニワトリは「クックァドゥードゥルドゥー(cock-a-doodle-doo)」と鳴く。

 思わず「なんですと?」と聞き返したくなるほど自己主張の激しい鳴き方は、この国の国民性に通じるものがある。日本人の私にはコケーッとカキクケコ系にしか聞こえないが、一体、どこにドゥードゥル的要素があるのか教えて頂きたい。



 フロリダ・キーズ最西端の島キーウェストには、野良猫の代わりに野良ニワトリが街中を闊歩かっぽしている。正真正銘、野生のニワトリなのだが、人や車を怖がるワケでもなく、実に堂々と。

 そんなこととは知らない私達。ホテルのパーキングで相方が危うく一羽を鶏ミンチにしかけ、「何故、こんなところにニワトリが……?」と唖然とした。ホテルの正面玄関が開いた途端、大きなニワトリが飛び出して来たのには、二人で声を上げて驚いた。


 「ジプシーチキン」と呼ばれる彼らのルーツは、1800年代にさかのぼる。

 キューバからの移民が本土から遠く離れた異国の島に移住する際、海に囲まれた孤島では食糧事情は良くないだろうと自国のニワトリを持ち込んだ。卵と肉の供給源となる以外に、雄のニワトリ達には「闘鶏チキンファイト」の戦士となる宿命も課せられていた。

 時代は進み、スーパーマーケットで新鮮な鶏肉が簡単に手に入るようになると、ニワトリを飼育する意味を失った飼い主達が「キミ達、クビね」とばかりに彼らを野に放った。もちろん、それ以前に逃亡を企てたニワトリも居たはずだ。

 温暖な島で昆虫やトカゲをついばみながら、闘鶏で鍛えた腕……もとい、脚とくちばしで天敵の猫達に果敢に戦いを挑み、逃避行を重ね、ワイルドさに磨きをかけて、どんどん数を増やしたらしい。


 観光客の多い場所では、ふわふわのヒヨコ達を連れた母ジプシーとの遭遇率も高い。モフモフ好きにはたまらない愛らしさだ。カルガモの親子は列をなして歩くが、ニワトリの親子はヒヨコ達が毛玉のように押し合いへし合いしている横で、母親は呑気に道端の雑草をついばんだりしている。南国らしいゆるゆるな子育てに、思わずほっこり。

 色艶の素晴らしい羽根とキリリと引き締まった姿は、まさに「新鮮な地鶏」。「あのもも、唐揚げにしたら美味しいやろうね。手羽先もイケると思う」などと不謹慎な考えを抱いた旅行者は、私だけではないはずだ。

 だが、そこはジプシーと呼ばれるだけのことはある。彼らは人間の生活圏で暮らしてはいるが、決して人間に捕まるようなヘマはしない。近寄れば「ほれ、写真くらいは撮らせてやろう」とポーズを決めてくれるが、筋骨隆々(で美味しそう)な身体に触れようと手を伸ばせば、するりとかわして去って行く。必要以上の馴れ合いは許さない。その辺は野良猫と同じだ。カッコイイ。


 オーランドでは小さなトカゲが街中をウロチョロと走り回り、エバーグレーズではアライグマがワニの頭上で愛嬌を振りまき、キーウェストでは野生のニワトリが観光客のカメラの前でドゥードゥルドゥーとポーズを取る。

 長閑のどかなフロリダは、人間にも動物にも優しい楽園なのだ。

 


***



 オーランドから約632.8キロメートル(=大阪から中国自動車道を経由して福岡市に行けちゃうほど)の距離にあるキーウェスト。わざわざこんな遠くまでやって来たのも、青くきらめくメキシコ湾の海にもぐるという究極の目的があったからだ。


 今回のシュノーケリング・ポイントは、「ドライ・トルトゥーガス国立公園(Dry Tortugas National Park)」。キーウェストから、さらに西へ約113キロメートル、高速艇で約2時間半の距離にある南海の孤島だ。「乾いた亀(Dry Tortugas)」という名は、島を空から見ればきれいな六角形をしていることと、島に淡水の水源が全くないことに由来する。

 「ジェファーソン砦(Fort Jefferson )」とも呼ばれるこの公園は、約200年前にアメリカ北軍によって建てられた美しい石積みの要塞だ。北アメリカでは最大規模の海岸要塞であり、北半球で最大規模の石造建築でもある。


 ちなみに、バージニア州の我が家から程近い場所に、北アメリカ最大級の海岸要塞の一つ「モンロー砦」がある。ジェファーソン砦と同時代に建てられ、2011年まで米陸軍基地として実際に使われていた。

 ジェファーソン砦は、南北戦争中、その戦略的価値をほとんど見出されぬまま捕虜収容所に改造されたものの、1902年のハリケーンで壊滅的に破壊され、軍からも完全に見捨てられた。その後、砦の廃墟は海を渡る鳥達の楽園に変わり、いつしかバードウォッチングの穴場として観光客に知られるようになった。

 それも束の間、第一次世界大戦が勃発すると、再びアメリカ海軍の要塞として使われた。「利用価値がないからって私を見捨てたくせに、また好き勝手に利用して……アメリカのバカっ!」と涙を流すジェファーソン砦の悲痛な叫びが聞こえてきそうだ。

 そんな悲しい過去を乗り越え、1970年、未完の姿をさらしたまま、アメリカの歴史的遺構に登録された。かつての美しさを取り戻した海上要塞は、1992年に晴れて国立公園の仲間入りを果たし、厳重に保存・一部を公開されている。


 白い砂州とサンゴ礁に囲まれた砦が浮かぶのは、「アメリカ本土でこれほど美しい海はない」と賞賛されるほどの透明度を誇る、花緑青エメラルドグリーンの海だ。砦の赤レンガ塀が鮮やかに映えて、なんともフォトジェニック。

 その美しい姿を堪能したいという方は「Dry Tortugas National Park」でググって頂きたい。画像検索がオススメ。



 さて、旅のメイン・イベント当日。

 早朝6時前にホテルを出発し、ドライ・トルトゥーガス国立公園への日帰りボートツアーが出発する港に到着したのが午前7時前。

 まだ薄暗い中を、ツアーの事務所へと歩いて行く。途中、同じ目的らしいカップルとすれ違った。二人の会話が漏れ聞こえて「キャンセル」という言葉を耳にしたような気がしたが、どんどん先を歩いて行く相方を追いかけて、あっという間に受付に辿り着いた。既に長い行列が出来ていたが、皆一様にどんよりとした表情だ。

 見れば、受付の横のホワイトボードに「キャンセル」の文字が……!



「ごめんなさいね。ストームの接近で沖合が荒れて出航出来ないのよ。明日のツアーに変更するか、それが無理なら返金手続きをしまーす!」

 受付のお姉さんの声が、無情に響いた。

 またも熱帯暴風雨トロピカル・ストーム「フローレンス」のおかげで、丸一日の予定が空白になってしまった。ジプシーチキン達よりも早起きしたと言うのに、どうしろと?

 明日はオーランドに向かって帰宅の途に就かないと、それ以降の予定を全てキャンセルすることになる……仕方なく、ツアー料金の返金手続きを済ませると、一先ひとまずホテルに戻って、朝食を取りながら今後の予定を話し合おうということになった。



 ホテルのレストランで、ホイップクリームとチョコレートソースをたっぷりのせたストロベリーワッフルにメイプルシロップをたっぷりかけて頬張る私をよそに、相方はチーズオムレツをカフェオレで流し込みながら、テレビのニュース番組にくぎ付けになっていた。

 見れば、『フローレンス、マイアミに上陸』のテロップが流れ、各地の天気予報も軒並み「注意報」から「警報」に変わっていた。テレビの画面には、横殴りの雨と風に襲われるマイアミの街が映し出されていた。私達が数日前に観光を楽しんだエバーグレーズも、暴風雨の真っ只中だ。


「エバーグレーズ観光を今日にしていたら、もっと残念な思いをしていたはずだ。あの辺りには観光名所が他にないからね」

 不機嫌になると甘いものを馬鹿食いする。そんな私の悪い癖を知り尽くしている相方は、甘ったるいワッフルの香りに少し顔をしかめながらiPhoneを手に取った。私が食べ終わるまで、今日の予定を立て直そうと情報収集でも始めたのだろう。

 相方をよそに、とってもアメリカーンな朝食を堪能して、ようやく機嫌が直った。スイーツは世界を救う。砂糖と脂肪の塊だってことは百も承知だけれど、「今日1日、キーウェストの街を歩き回ることになりそうやし、栄養補給は必要やん」と自分を甘やかしてみた。



 かくして、雨雲がキーウェストに到達するのが早いか、私達が駆け足で観光スポットを制覇するのが早いか……無慈悲な自然相手のレースが幕を切った。



***

 


 この島で絶対に外せない観光スポットの一つが、「アーネスト・ヘミングウェイの家(The Ernest Hemingway Home and Museum )」だ。ノーベル文学賞受賞作家ヘミングウェイが二人目の妻ポーリーンと息子達と共に、32歳から約8年暮らした邸宅が、現在は博物館として一般公開されている。


 ただし、私のお目当ては「文豪ヘミングウェイ」その人ではなく、彼が愛した6本指のモフモフ達だ。

 ヘミングウェイについては、彼の代表作のあらすじを読んだことがある程度なのだが、彼が無類の猫好きだったことは以前から知っていた。猫の居ない人生なんて考えられない私としては、ここに立ち寄らない理由はない。


 では、猫豆知識を。

『猫の肉球は前足に6個、後ろ足に5個の合計22個だが、猫の指は前足に5本、後ろ足に4本の合計18本だ』

 ほお、そうなんや、と感心しながら、「何するにゃっ」と甘噛みする愛猫シュリの肉球と指の数を数えてみた。なるほど、確かにそうだった。


 キーウェストに移り住んだヘミングウェイは、知人の船長から『スノーボール』という名前の猫を譲り受け、溺愛した。彼の執筆の邪魔が出来るのは猫だけだ、と言われるほどに。

 スノーボールは、前足の指が通常より1本多い「多指症たししょう」だった。多指症は近親交配が主な原因で、優性遺伝によって親猫から子猫に脈々と受け継がれる。


 猫の足先といえば、ちょこんとコンパクトなイメージがあるが、多指症の猫達の手足は驚くほど大きく、ミトンをつけているかのようだ。あまりの大きさに「ビッグ・フット」と呼ばれることもある。指と指がみっちりとくっついているので一見すると不器用そうだが、実は、とてつもなく器用で、転がるものを片手でキャッチすることが出来るほど。普通の猫には不可能な芸当だ。

 その昔、帆船が多かった時代。大きくて器用な手を持つ多指症の猫は、ネズミをつかまえる「船猫」として重宝された。船に張り巡らされたロープを軽々と登り伝って移動する彼らを見て、「船の守り神」として大切にしたと言う説もある。


 四方を海に囲まれたキーウェストには、昔から多指症の猫が数多く暮らしていた。ヘミングウェイは、スノーボールのような6本指の猫達を「幸運を運ぶ猫」と呼んで愛情を注いだ。

 スノーボールの子孫は、現在でも「ヘミングウェイの家」の敷地内に棲んでいる。そのほとんどが、6本指だ。中には、前後すべての足が6本指(合計24本)、前足と後ろ足の片方が7本指で、もう片方の後ろ足が6本指(合計27本)の子もいるというから、驚きだ。彼らは州の保護下に置かれ、常に頭数が50~60匹となるよう管理されている。「幸せを運ぶ」と言われるだけあって、フロリダを度々襲うハリケーンの被害をこうむることもなく、のんびり、まったり猫生を謳歌している。

 驚くほど人馴れした彼らが、観光客の前でも構わずお腹を出してぐーすかと寝ていたり、気ままに毛繕いする姿を邸内のあちこちで見ることが出来るのも、「ヘミングウェイの家」の醍醐味だ。

 入館料にはガイド付きツアーが含まれており、ツアーの所要時間は約30分、とのこと。

 

 で、早速、ツアーに参加してみた。



 ツアーガイドは、ヘミングウェイをこよなく愛するボランティアの男性だった。広い邸内を、一部屋ずつ、そこに展示されている家具や写真についての丁寧な解説と共に、ヘミングウェイの逸話を面白おかしく語ってくれた。行く先々で姿を見せる猫達の名前と性格なども教えてくれた。

 猫達がごく自然に、ソファやベッドの上で丸くなっていたり、窓際に座り込んで外を眺めたりしている姿にメロメロになりながら、ヘミングウェイについての豆知識も学べる、なかなか有意義なツアーだった。



 邸内に飾られた趣味の良い調度品のほとんどは、ファッション誌「Vogue」の編集者だった妻ポーリーンが選び、ヨーロッパから運び込んだものだ。イタリアのムラーノガラス製シャンデリアなどの一流品がさらりと日常の空間に置かれているところなど、大地主のお嬢様だったポーリーンの審美眼の高さが伺える。

 食堂には、優雅なウォールランプを取り囲むように、ヘミングウェイの家族の写真が飾られていた。


「この写真は、ヘミングウェイの4人の妻達です」

 ガイドの男性が4枚の写真を指し示しながら、嬉しそうな声色で高らかに告げた。


 その瞬間、彼の人生に対する好奇心が、私の中でムクムクと芽生え始めた。



***



 ヘミングウェイは生涯で3度の離婚を経験し、4人の妻を持った。

 既婚の身でありながら、次々と若い女と関わりを持ち、ソープ・オペラも真っ青の自由奔放な私生活を送り続け、正妻となった女を悩ませた。かと思えば、カジキなどの大物釣りにのめり込んだり、わざわざアフリカまで出掛けてトロフィー・ハンティング(=獲物の毛皮やつのだけを目的にした、娯楽のための狩猟)を楽しんだり。

『実に精力的で、実に無慈悲で、実にアメリカ的な男だった』

 そう言えば聞こえは良いが、要は「自分の欲望を満たすためだけに生きた、超自己チューで、とてつもなく下半身のだらしない、どうしようもない男だった」ワケで。


 晩年は、アフリカ旅行中に遭遇した事故による後遺症に悩まされ、体力の衰えと共に創作意欲と精神のバランスを失い、遂には自らの猟銃で頭を撃ち抜いて生涯を閉じた。同居していた4番目の妻におやすみの挨拶をした翌朝のことだったと言うから、少なくとも孤独な死ではなかったが、彼の心の中は満たされていたかどうか。



 「ヘミングウェイの家」には、彼の若い頃の写真や肖像画が多く飾られている。長身で、趣味のボクシングで鍛え上げた肢体と、端正な顔立ち。はっきり言って、かなりの美男子だ。

 自分がイケメンであることを自覚していた彼は、身体の衰えを感じて以来、人前に出るのを避けた。ノーベル賞受賞式にさえ姿を現さなかったという。


 幼年期の彼は、「娘が欲しかった」という母親に4歳頃まで女の子のような格好をさせられ、息子として愛された記憶を持たぬまま大人になった。ヘミングウェイが生涯に渡って女性と健全で親密な関係が結べなかったのは、おそらく、母親からの愛情の欠落に原因があったのだろう。

 父親から手ほどきを受けた釣りや狩猟、ボクシングを趣味とし、若い頃からフリーの従軍記者として世界各国の戦地を駆け巡り、酒と女と闘牛をこよなく愛したマッチョなライフ・スタイルも、幼い頃に「娘」として自分を育てようとした母親への憎しみの裏返しと思えば、不憫ふびんでしょうがない。



 ヘミングウェイは22歳の時に結婚し、無名時代を(精神的にも経済的にも)支えてくれた一人目の妻ハドリーを熱愛した。初めての子供も生まれた。が、その愛も、彼女よりずっと若くて美しい(そして資産家の娘で超リッチでオシャレな)女性ポーリーンの登場で終わりを告げる。

 悪びれもせず、公然と不倫関係を続け、妻との旅行先にまで愛人を同行させるという暴挙に出た挙げ句、糟糠そうこうの妻と幼い息子をあっさり捨てた。

 ハドリーとの離婚後、わずか一ヶ月でポーリーンと再婚。

 どれだけ複雑な少年時代を過ごしたのだとしても、これは駄目だ。男として最低のことを平然とやってのけるヘミングウェイを、「何考えとんねん、オッサン!」と殴り倒してやりたい。

 

『Once a cheater, always a cheater』ということわざがある。「一度浮気したヤツは、一生変わらんよ。何度でもするからめとき」と警告を促す時に使う表現だが、これを地で行ったのがヘミングウェイだ。

 二人目の妻ポーリーンとの間には、二人の息子を授かった。ところが、平凡で幸せな日々は、彼にとっては刺激のない退屈な時間でしかなく。

 結婚から9年後。スペイン市民戦争が勃発すると、ヘミングウェイは従軍記者として戦地に赴いた。家族が住むフロリダから遠く離れたその地で、同じく従軍記者だったマーサと激しい恋に落ちる。本当に、どうしようもない男である。

 それから3年後。ヘミングウェイは(事もあろうにフロリダから程近い)キューバでマーサとの同棲生活を始めた。


 風の噂で夫の不倫を知ったポーリーンは、当然、激怒する。が、彼女は夫の浮気に黙って泣き寝入りするような女性ではなかった。なんせ、誇り高き大金持ちのお嬢様だ。フロリダの家も、表向きはヘミングウェイが購入したと見せかけて、その実、実業家の叔父に結婚の祝いとして買ってもらったものだ。しかも、男に負けじとパリで編集者をしていたほど自立心も旺盛だ。

 彼女を止められる者など、誰もいない……



 ある日のこと。ヘミングウェイは久しぶりにフロリダの我が家に帰宅すると、同伴していた若い女性を「今、付き合ってるだよ。マーサって言うんだ」と脳天気にポーリーンに紹介した。

 ええ、愛人をね、堂々と正妻の待つ自宅に連れ帰ったんですよ……もう、狂気としか言いようがない。


 妻の反撃が既に始まっていたことも知らないヘミングウェイは、自宅の庭を見て仰天した。

 なんとポーリーン、ヘミングウェイに無断で(とは言え、この家を買ったのは彼じゃないし)彼が使用していたボクシング・リングを取り壊し、2万ドル(=現在に換算して約3,800万円)もの大金をかけてプールを造らせていた。長さ約20メートル、幅6メートル、最も深い所で2.7メートルという個人宅用としてはケタ違いに巨大なプールは、現在でもキーウエストに存在する最大のプールだそうで。

 愛する男に裏切られた女の怨念が、どんよりとプールの深みによどんでいるのが目に見えるようだ……



「はい、ここを見て!」

 巨大なプールの前で、ガイドの男性が指し示したプールサイドの一角に、小さな1セントコインが埋め込まれていた。

 趣味のボクシングを楽しむための場所を無断で壊された上、莫大な資金を費やして独断でプールを造った妻に怒り心頭のヘミングウェイが、「そら、俺が持っている金はこれが全てさ。受け取れ」と言って、まだ半乾きのプールサイドのセメントに押しつけたのだとか。

 逆ギレする文豪ヘミングウェイと、男前過ぎる正妻ポーリーン。そして、文豪の名声を利用し、彼を踏み台にして人気記者にのし上がろうと企む野心家の愛人マーサ……この三つどもえ、それぞれの個性が強すぎて怖すぎる。まさに、事実は小説よりも奇なり。


 ヘミングウェイはポーリーンと離婚した2週間後にマーサと再婚している。妻がいるのに愛人と同棲していたワケだから、彼にとっては「正妻」が入れ替わっただけなんだろうけど。

「絶対に関わり合いたくない部類の男やん。こんな男と結婚なんて、とんでもないわ」と思った方。あなたの直感は正しい。


 

 それでも、そんな彼を「パパ・ヘミングウェイ」と呼んで愛して止まないアメリカ人(特に男性)は、実のところ、とっても多い。男なら誰でも憧れる情熱的で刺激に満ちた人生と、己の望んだものを強欲に手に入れる彼の行動力に魅了されるからだろうか。

 アメリカン・コミックスのヒーローに、完璧な正義の味方は驚くほど少ない。心に抱えきれない暗闇を抱え、誰かを裏切っては深く苦しむ人間臭いヒーローの方が圧倒的に多いのだ。弱さをさらけ出し、悩みながら悪と戦う彼らの前には、決まって若く美しい女性が現れる。彼女に心を救われて、憎らしいほどのカッコ良さと強さを発揮するのが、アメリカ人の好きなヒーロー像だ。

 ヘミングウェイは、アメリカ人にとって「永遠のヒーロー」なのだろう。

 女の私には理解出来ない点も多々あるが、確かなことは、ヘミングウェイは欲望と暴力に身を晒すことで多くの名作を世に送り出し、4人の妻達には捧げることさえ叶わなかった「永遠に変わらぬ無償の愛」を6本指の猫達に注ぎ続けた、ということだ。


 

 人間は大まかに分類して犬型と猫型に分かれる、と言うのは持論だが、ヘミングウェイは絶対に猫型だ。

 気が向いた時にふらりとやって来て、ぐるぐると喉を鳴らしながら全ての情熱を注ぐかのように愛嬌を振りまき、ボディタッチの相手をメロメロにする。ふと姿を消したかと思えば、お気に入りの場所で惰眠だみんむさぼっていたり、空に舞う鳥の姿に狩猟本能を掻き立てられてハンティングの真似事をしてみたり。

 自由奔放で「世界の中心」は自分だが、他者への愛情が全くないわけではなくて。美味しい餌と温かい寝床を提供してくれる者には擦り寄ってくるが、必要以上に馴れ合おうとはしない。目新しいものを見つけては果敢にアタックし、飽きればさっさと忘れて、次の獲物を探し始める……

 そんな気まぐれな生き物に魅了された者は、「どうしてそんなにつれないの? 私だけを見て。私だけをもっと愛して」と悩み苦しみながらも、愛されようと必死になる。

 決して媚びを売らず、常に適度な距離感を保ちながらも、時にとろけるほどの愛情を全身で示してくれる猫達を、ヘミングウェイが溺愛したのもうなずける。



 「ヘミングウェイの家」のツアー終了後は、キーウェスト一番の繁華街デュバル・ストリートに繰り出し、ふらふらとお散歩がてら、ヘミングウェイが愛した「スロッピー・ジョーズ・バー」に立ち寄った。

 彼が愛飲したフローズン・ダイキリを堪能……したいところだが、私は全くアルコール類がダメ。旅の間は専属ドライバーとなる相方も飲むわけにはいかず。結局、ノン・アルコールのカクテルと、「シュリンプ・ポーボーイ」を注文した。相方が選んだのは、牡蠣かきフライのポーボーイだ。

 ちなみに、「ポーボーイ」とは、バゲットに好みのフライを挟んだ南部名物のサンドウィッチだ。これがとっても美味。「poboy」で画像検索して、食欲をそそられて頂きたい。

 

「キャンセルになったボートツアーのリベンジもせなあかんし、フロリダ・キーズ、また来ようね」

 相方にそう言って、小エビのフライがこれでもかと詰め込まれたピリ辛ケイジャンソース味のポーボーイを口いっぱいに頬張った。

 お洒落なオジサマがノリノリにピアノの鍵盤を叩きながらジャズを奏でる店内には、ヘミングウェイにちなんだ装飾品や、大海原で釣りを楽しむ彼の写真が飾られていた。


 キーウエストの夜空には、嵐が近づいていることを暗示するような稲妻が光っては消えを何度も繰り返し、黒々とした雲が渦巻いていたけれど、結局、雨に降られることもなく、無事に観光を終えてホテルへ戻った。



 ……で、翌朝は、からりと晴天。

 

 「なんでやねん」と心の中でつぶやきながら、空港のあるオーランドに向けて、ハイウェイに車を走らせる。

 色々ハプニングもあったけど、気ままな旅はやっぱり楽しい。

 満足しながら、窓越しに見えるフロリダ・キーの美しい海に別れを告げた。


 また来るね。バイバイ、フロリダ。



***



 真夏のフロリダで大暴れした熱帯暴風雨「フローレンス」。

 アメリカ南東部を迷走し続けた挙げ句、カテゴリー4の超巨大ハリケーンに成長を遂げた「彼女」が、フロリダ旅行を終えて帰宅した私達を追いかけるように、バージニア州とノースカロライナ州に接近し、「非常事態宣言」の発令により州民を大混乱に陥れるなどとは、この時は夢にも思わず……


(2019年3月1日 公開)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る