第8話  青龍刀、ファーストコンバット

「ああン? 本番はこっからだってのによ」


 俺の走り出しと同時に、背後から少年の呆れ返った発言が聞こえる。一瞬だけ振り返ってみると、少年はやれやれと言いたげな様子で追走を始めていた。


 それを確認してからはもう振り返らず、とにかく全力で逃げ切る事だけを考えた。幸いにして、前方に障害物となり得るような物体は見当たらない。地面の固いアスファルトは陸上競技には向いていなかったが、条件は相手も同じだ。


 程なくして寂れた通りを抜け出した瞬間、俺の視界に、まるで何事も無かったかのように歩いている通行人の姿を確認した。あの神隠しに近い現象の範囲は限定的なものだったらしい。しかしその事で安堵出来るだけの余裕は持てず、むしろ容易く通り抜けられるだけの人数しか居なかった状況に、俺はこの逃走の長期化を予感してしまう。


 最初は名結駅のホームへ向かうべきかと考えた。しかし、先程の通りから駅の方向を目指すには、眼前に立ちはだかっていた少年の存在が邪魔だったのだ。ましてや、あの少年は拳銃を所持している。街中で射撃されでもしたら、大勢の人達を巻き込む可能性があった。


 それ以前に、どうやら少年は周囲の人達を消してしまう謎の力を所持しているようだ。理解も出来なければ、消えた人達の行方についても気になる所だったが、人混みを盾にした逃走という選択があまり上手くない事実はハッキリしている。


 結果として俺は駅に向かうどころか、むしろ遠ざかるようにますます人通りの少ない道を走り続ける事を選んだ。とにかく少年から距離を取る、少しでも遠くへと、それを成功させるしか手は無いと考えた。


「……はあ、はあ」


 クソったれ、部活動に全く参加していなかったせいか、体力が続かない。今更ながら龍二に「お前もバスケやろうぜ」と、時折冗談半分に勧誘されていた事を思い出す。バスケットは走りっぱなしのスポーツだ、というのは漫画でも読んだことがある知識だ。今日ばかりは、帰宅部で悠々自適に学生生活を過ごしていた自分をぶん殴ってやりたかった。


 ――だが走る!! 

 ――俺は、生き延びてみせる!!


 足が棒のような感覚になって、心臓が激しく脈動する。体力はとうに限界を迎えていて、視界が時折点滅する。それでも俺は走り続けた。少なくともこの状況から逃げおおせば、冷泉に事情を説明して……いやそんな後の事を考えるのはよそう。とにかく足を動かす事だけ考えろ、榊原修!!


 全力の逃走劇だった。






「……はあっ……はあっ……はあっ」


 もう、動けない。流石に限界も限界だ。思わず、たまたま視界に入ってきた壁に背中を預けて俺はへたり込んでしまった。


 気が付けば、既に名結駅がどちらの方向にあったのかさえ思い出せないほどに走り続けていた。数時間は動きっぱなしだっただろう。


 市街地を訪れたのが、確か昼過ぎの時刻だったはずだ。太陽はいつの間にか落ちて、夜の暗闇が周囲を覆っていた。フルマラソンでさえここまで長時間かけて走るやつは居ないのではないか。そんな冗談の言葉が頭をささやいた。


「ここは……」


 最終的に俺が辿り着いたのは、工場らしき建物の入り口だった。


 出入りを閉ざしている門のような物は存在せず、俺が背中を預けていた壁から少し顔を覗かせると、随分と広大な敷地が広がっているのが窺える。暗がりで中の様子ははっきりと見えてこないが、目を凝らせば明らかに居住用とは思えない大型シャッター付きの建物が数軒並んでいた。


 既に使われていないのか機械音のようなものは聞こえてこず、人の気配がまるでしない。そう言えば、と入り口周辺を見回してみたが、此処の所在地が記された看板すらも見当たらなかった。


 もしや廃工場なのだろうか。現在の時刻は不明だが、既に従業員が帰宅しているだけの可能性もあるだろう。だが、あまりの静寂さを受けて俺は、『』の可能性を導き出してしまう。


 この誰かが居そうで誰も居ない状況そのものが、少年の仕業だとしたら? 昼間のように、謎の力でここら一帯の人達を消してしまったとしたら……っ。


 そんな訳が無い、あれだけ走っていたんだ。普通なら、追走する側も体力が尽きる以前に根性が尽きてしまうだろう。どれほどの恨みを買っていたかは知らないが、まさかそこまで執念深いとは思えない。もしかしたら、名結駅のホームで待ち受けているのではないか……きっとそうだ。自分自身に対して、前向きな言葉を言い聞かせる。


 体力が戻ったら別の駅を探そう。いくら料金がかかってもいい、とにかく家に辿り着ければ。少しばかり精神的に余裕が生まれ始めた、そんな矢先だった。


「ご苦労さん。さぞ疲れたことだろよ。なあ?」


……これが夢なら、今すぐ覚めて欲しかった。


 銀髪の少年。もう二度と会いたくないと思っていた人物が、数メートル前方の地点に佇んでいた。その片手に、やはりあの黒い拳銃を携えた格好で、俺の姿を見下げている。


「なんで……はあっ……ここが」

 まだ呼吸が戻っておらず、上手く喋ることが出来ない。


「ま、直接ツラを拝ませてもらったからな」

 俺の質問に対する回答は得られなかったが、そんな事はもはや問題じゃなかった。


「なあお前。本当に修じゃねえってのか?」

「最初から……はあっ……言ってるだろ」

「……どうなってんだ、オイ」


 少年は考え事を始めた。もしかしたら本当に勘違いだったのかもしれないが、流石にその右手に握っている拳銃を見られた以上タダでは済まされないだろうと、とても楽観的な気分にはなれなかった。


「……そういうコトか、クックック」


 唐突に、意味深な笑みを浮かべた。どうやら勘違いに気が付いてくれたらしい、と俺は思ったのだが……


「全く、こんな言葉で片付けるのはクソ鬱陶しいがよ」

 次第に少年の表情が、真剣なそれへと変化する。


 氷のようだった眼差しが、今までの中でも一番冷たいモノに感じられた。怒りではなく、哀れみでもなく、呆れ返りでもない。


 無感情、無関心、無感動。

 そういう例えがしっくりときた。


「テメエ、バグったな?」

「……なに?」


 意味が解らない。


「全く、通りで情報がいろいろと食い違うワケだ。本来ならこんなことはあり得ねえんだがな。一体何がどうなってこんな面倒クセえ事態になっちまったんだ? 少なくともオレがテメエに干渉するのは今回が初めてだったはずなのによ。あーシラケちまった。テメエとは真剣に殺り合いたかったんだが、まさか――」


 少年は支離滅裂なことを長々と話していたが、その後に続いた言葉はこれまでの中でも一番難解過ぎるものだった。


「『NPC』が交じっちまうとは思わなかったよ」


 えぬ……ぴい……しい?


 なんだそれは、だぞ。いや、知ってる? 違う、知らない? 頭がこんがらがっている。


「余計な負担になるから、あんまし言いたくは無かったんだがな。面倒クセえし」


 頭が、痛い。脳味噌が第三者から抑え込まれたような感覚だった。右手を側頭部にあてながら、どうにか少年に対する視線は崩さないようにした。少年は混乱している俺を、まるで機械を見るかのように冷めた視線で見つめていた。


「この場合はどうなんのかね、俺にも流石に分からねえ。だがこのイライラをぶつけられるのもテメエだけなんだよなあ? だったら」


 ――少年は拳銃の銃口を俺の心臓に向けながら。


「さっさと死ねよ」


 ――躊躇うことなく、その引き金を弾いた。




「……あっ」


 死を覚悟する暇もなく、俺の生命は絶たれたはずだった。しかし拳銃の弾丸が、身体を貫くことはなかった。


 気が付けば視界に、俺のよく知っている手入れの届いた黒い長髪がなびいていた。後ろ姿しか見えていなかったが直感した、彼女が助けてくれたのだと。


 冷泉瑠華、心の中で他の誰よりも助けを求めていた女の子。


 敵と呼ばれる存在を追っていた謎の転校生。明らかに普通じゃない、普通じゃない故にこの場にもっとも相応しいゲストだった。


 彼女の本当の顔に関わる機会などもう二度とないだろうと思っていたし、そうならないように心掛けたはずだった。しかしその再開は、僅か数時間後に果たされる事になってしまった。


「榊原君から離れなさい……死にたくなければね?」


 淡々とした様子で少年に対して告げた彼女の右手には、その言葉を有言実行出来る凶器が握られていた。既に拳銃なんてモノを見せつけられていた俺には、その存在を受け入れること自体はまだ容易だったと思う。


 青龍刀。


 刀身自体は短く、先の形状がやや広がっていた。俺の些細な知識を辿ってみれば中国では有名な古風の刃物であり、武器のひとつに数えられる。


 この際、『なぜ彼女がそんな危ないモノを持っていたか』については考えないことにした。おそらくは少年が拳銃を取り出した時と同じ事をしたのだろう、少年と彼女の性質が同じ物だったと考えれば話は早い。もはや俺の想像の範疇を超えた何かが始まっている、そういう認識だった。


「へえ、やるじゃねえか。まさかそんなコトが出来る女がいるとは思わなかったよ」

「あら、お褒めに預かって光栄とでも言えばいいの?」

「誤解するんじゃねえよ。殺し甲斐があるって意味だ」


 二人の会話の意味を、最初は理解出来なかった。


 だが、何事も無かったかのような振る舞いをしている冷泉の姿と、五体満足な自分の身体を見比べてようやく気が付いた。


 何故、身体に全く傷が付いていないのか。


 本来ならば、身代わりになったのであろう冷泉の身体には、それ相応の傷が付いているのが自然なはずだ。だが背中越しの彼女には、その傷を負った様子が全く見られなかった。


 彼女の携えている武器を見て、俺は推測した。


 答え合わせをするならば、おそらく彼女は文字通り――『』のだ。秒速数百メートルはあったであろう、拳銃の弾丸を。それは俺が彼女に対して抱いていた普通じゃないという認識を、更にもう一段階更新させるものだった。


 化物……このような表現を人間に対して使うとは思わなかったが。


「で、なんの真似だ? 女」

 少年は不快な表情を浮かべながら冷泉に尋ねた。


「聞こえなかった? 彼から離れなさいと言ったのよ」


 どうやら彼女は、本当に俺の事を守ってくれるらしい。その事が嬉しくもあり……同時に恐ろしくも感じられたのは、先程の人間離れした所業のせいだろうか。


「そういうことじゃねえ、テメエが邪魔する理由がどこにあるのかって聞いてんだ」

「……私のことを知っているの?」

「テメエが、そこでへたり込んでるクソ野郎と喋っていたのは見てたからな」


 どうやら少年のお気に召さなかった俺の評価は既に地に落ちていたらしい。もっとも、こんな奴から高評価を貰いたいとも思わなかった。


「あんたみたいな危険人物の存在にまるで気が付かなかったなんて、私もまだまだね……いいわ、聞かせてあげる」


 そう前置きして、冷泉はこの場所に辿り着くまでの経緯を語り始めた。既にその口調は、普段とは違う彼女の本性を顕現させている。


「あの場所で『転送武器ウェポン』の発動を感知した時は、流石に私も自分の甘さを恨んだけどね。大方、逆上した榊原君が発動させたのかと思った。でも、そうじゃなかった。あんたが彼の事を追いかけ始めた姿を見かけて、発動させたのが彼では無いことに気が付いた。それからはこっそりと、後をつけていたの。まあそういう事ね」


 またもや聞き慣れない単語が聞こえてきたが、どうやら冷泉は俺の逃走劇の始まりに間に合うタイミングで戻って来ていたらしい。ほんの数分戻って来るのが早ければ、これほど体力を使う必要は無かったのだが。


 と、小さな恨み言が出そうになるのを堪えた。なぜなら、彼女が戻って来なければ、俺は既に命を絶たれていたのだから。


「フン、オレが発動させたのは事実だ。だがよ、わざわざその辺の人間捕まえてこんなコト始めるとでも思ったのか?」

「彼は一般人よ。これは明らかに『』じゃない?」

「違えな、そいつもオレやテメエと同類だ。他の奴等からしたらとんだお笑い草だろうぜ、なんせ敵が敵を助けてるんだからなあ!!」


 ……? なにを言ってるんだ。俺には、こいつらの言ってることが皆目理解できていないというのに。


 俺には、あんな拳銃やら青龍刀のような物騒な凶器を取り出せるようなチカラなど持ってはいない。それなのに、少年は俺の事を同じような存在だと認識しているらしい。


 いや、先程は失望したようなことを言っていたか。

 意味不明だ、いい加減に答えが欲しい。


「同類ってまさか……」


 そう思い始めた矢先だった。俺の耳に、事の真相に行き着くまでの欠片ピースとなるワードが、またひとつ飛び込んできたのは。


「『』――オレたちが背負ってる二つ名の事だ」


 その言葉は、やはりこれまでと同様に意味を測りかねる物だった。しかし、どこかで聞いたような気がする。いや、俺じゃない。だが、俺じゃないならば一体誰だっていうんだ。ズキンと頭に響く、さっきと同じだ。頭痛が酷くなり始めた。


「おかしいわね、彼が代行者だとして」

 冷泉はそんな俺の状態を知ってか知らないでか、反論を始めた。


「彼が何の抵抗もせず逃げ出し、あんたに殺されかけたのはどういうことなの?」

「それだ。最初はオレも意味が分からなかったぜ。こんな臆病者のへっぴり腰なクソ野郎が代行者とかあり得ねえだろ。だが、オレの情報によれば間違いなくそいつは代行者だよ。今さっき、その理由が見えてきたトコだ」

「……理由って?」

「ま、言っちまえばそいつは代行者のはずなのにその事を覚えてねえって状態だ。とんだ計算違いだぜ、代行者の記憶が無くなるとか予想付くワケがねえだろうが」


 記憶が無いだって……? そんな訳がない、俺がこんな馬鹿げたコトを元々やってた人間だって言うのか。あるはずがない、あるはずが。


 それにコイツは、『えぬぴーしー』とやらが混ざったと断言していた。それは、記憶喪失の類とは違うのでは無いか。っ、言葉の意味はわからない。それにしても、この頭が痛くなる現象は一体何なんだ。


「それが本当だとして、どうやってあんたは彼が代行者だと突き止めたのか、その根拠を聞きたいところね」

「企業秘密ってヤツだ、こればっかりは話せねえよ」

「……そう」


 どうやら二人は、情報交換を終えたらしい。


 それからは互いに一言も喋ることなく、しばらく平静な時間が続いた。次第に頭痛は収まってきたが、俺の脳裏には「まさか、彼女に裏切られるのではないか?」という可能性が浮かんでいた。話を聞けば、彼女が助けてくれたのは、俺があくまでも一般人だったからという定義に基づいた行動に他ならない。


 もしコイツの話している内容を鵜呑みにしてしまえば、その手にしている凶器の矛先は、真っ先に俺の所へと向いてくる。コイツがそうしたように、武器も持たず、腰を抜かしている敵など容赦する必要なく一刀両断にするのが自然な流れだろう。


 しかし、仮に俺が万が一にでも本当に『代行者』とやらに該当していたとしても、その自覚が全くないのも事実だ。それなのに殺される、というのは理不尽極まりない行為ではないのか。


 戦う必要があるのならとっくにそうしてる。でも知らないモノは知らない。『やらないといけない』事ならやる、だが『やらなくてもいい』事をやれと強要されるのは嫌いなんだ。少しずつ、怒りの感情が湧いてくる。しかしそんな俺の予想を、静寂を断ち切るかのように突然口を開いた彼女は、いい意味で裏切ってくれた。


「……決めたわ」

「で、どうするつもりだ?」。

「……あんたの言う情報とやらが、どこまで真実味があるかは興味があるけど」


 彼女は、青龍刀を持ち替えた。


「私は、彼を一般人だと『』の」

 その矛先は俺の方を指していたのではなく。


「……それを否定するのは誰にでも出来ないし、許されない。だから」

 眼前にいる少年を対象としていた。


「――今から殺してあげる」


 冷泉瑠華は、少年を打倒すると宣言した。その表情は、背後で腰を落としている俺からは読み取れなかったが、なんとなく想像出来る。


 彼女は今、あの意地の悪い微かな笑みを浮かべていることだろう。それは……俺を責め立てていた時と同じ言葉の調子だったのだから。


 榊原修という人間の何を信じてくれたのかは分からなかった。でも、信じてくれた。先程まで湧いていた怒りは消え去っている。


 心の底から嬉しいと感じた。


「……結局こうなるワケか。まあいい。結果は何にも変わんねえよ」

「どうかしら、私を楽しませてね?」

「それはオレの台詞だ。せいぜい気張るんだな、女」


 二人の代行者――その戦いが、遂に始まろうとしていた。

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