第6話 出逢い、エンカウントガール

「ありがとうございましたー」

「ふう……」


 とある書店の出入口の自動ドアが開く、そこから現れたのは書店のマークが記載された紙袋を持った俺自身だった。しかしその表情には買い物を終えた直後の達成感が無い、安堵感も無い、ただただ溜め息をつくばかりである。


 誰に聞かせるつもりも無かった後悔の念は、あっという間に周囲の雑音によって掻き消された。俺は雑音の発生源だった、通行人の往来を眺める。その人数は……とても数え切れるものではなかった。


 両目に映って余りある程の大勢の人だかりが、ここで休日を過ごそうと賑わいを見せている。


 その場所とは、おそらくこの辺りの地域で最も栄えているであろう『名結市めいけつし』の駅周辺である。週末の土曜日、つまりは休日の市街地を現在の俺は訪れていた。


 中心部とも呼べる名結市へと直結しているバスや電車の路線は数多く存在しており、今回は最寄りの駅から片道20分程度、次第に乗客が増えて最終的には満員近くとなった電車に揺られながらこうして足を運んできた次第だ。


 この場所を訪れる事にしたのは、衣類や生活用品を始めとして、文字通り何でも見つかる場所だったからだ。欲しい物があればここに来れば大体揃えられるという、子供の頃からこの地で暮らしを営んできた俺のような地元民にとって、これ以上の無いショッピングスポットだった。


 しかし残念ながら今の俺は、それだけの豊富な入手手段を備えている場所を訪れたのにも関わらず、次の目的地が決まらないまま足を止めてしまっている。




 昨夜床に着いてから意識を布団に預けるまでの刹那、明日は午前中を自宅の掃除にでも充てようかとぼんやり考えていたのを覚えている。しかし昨日の睡眠不足が祟ったのか、予想外に長時間の怠眠を貪ってしまい眼が覚めた時には昼の12時を回ろうかという時間を迎えていた。


 休日はまともに活動している、などと昨日心の中で呟いた件と矛盾している事に気付いたのか危機感を抱いたのか、俺は朝食を兼ねた昼食を早々に済ませると慌てて身支度を整えるなり手ぶらで自宅を飛び出した。


 その後、駆け足で最寄駅へ飛び込むと先程も説明した電車移動を経ての到着である。意識が目覚めてから、まだ1時間程度しか経過していなかった。人間やろうと思えばこれだけの事が短時間で出来てしまうのだから、時間の使い方という物は大事だなと思う。


 しかし既に午前中の数時間を無駄にしており、更に何もプランを考えてないままこの場所を訪れたのは、やはり失敗だったかもしれない。


 元々これと言った趣味も持っていない人間が、到着してから「何を買いにいこう」と考えてみたところで妙案が思い付くはずもなく……休日を満喫しようと動いた俺の計画は、早くも暗礁に乗り上げ始める。


 先程もとりあえず動こうと、たまたま立ち寄った書店で「そういえば料理のレパートリーを増やしたかったような……気がする」などと、まるで自己暗示をかけたかのような苦しい動機の末、自分でも本当に欲しかったのかよく分からない料理本を購入してしまった。


 少なくとも、これでわざわざここまで足を運んだ甲斐はあったはずなのだが、無駄足のまま休日を過ごしたくないという理由だけで衝動買いしてしまった感は否めない。


 特別本の中身にこだわっていた訳でも無かったので、その買い物も数分足らずに終わってしまい、結局は時間を持て余してしまっている事実に今現在の俺は途方に暮れているという訳だ。


 時間の使い方において重要なのは、日常のサイクルを簡略化する事だけではなく、一日の計画をじっくり練ってから動く事。それが良く分かっただけでも収穫と考えたい……あとは適度な睡眠摂取だろうか。


 このまま家に帰っても特にやる事がない。せいぜい購入したばかりの手元にある本に目を通して、今日の夕食の参考にする程度だろう。


「……まだ時間はあるし、適当にブラついてみるか」


 俺はこれといったあての無い買い物を続ける事にした。これ以上、時間稼ぎのための衝動買いを重ねてしまわない事を祈りながら。




 元々アルバイトもしていないのだから、買えるものは限られている。仕送りの残りだけで家電や洋服などの上等な品物を探す余裕は無かった。


 そのような貧乏学生が行き着く場所と言えば、低価格で購入出来る雑貨類が置いてある店が数軒並んだ、やや寂れた通りしか選択肢が残されていなかった。


 ここは駅からは幾分離れている場所に存在しているので、先程立ち寄った本屋の周辺に比べればまだ人通りは少ない。逆に言えば、掘り出し物が見つかりやすいという事でもあった。


「睡眠に役立つ物でもあればいいんだが……」


 そんなとって付けたような淡い期待を抱きながら、一軒目の入り口に近づいた瞬間だった。


「……え?」

「……っ。あなたは」


 俺は、つい最近にもこぼしたような間の抜けた台詞を。

 あの時と同じ相手を目の前にして、再び呟いてしまった。


 冷泉瑠華、最近同じクラスに転入してきた謎の転校生。

 同時に、友人達から頼まれて(嫌々)情報を集めている相手。


 視界に入った女性が彼女だとひと目で認識することが出来たのは、どういう訳か週末だというのに我が校の制服であるブレザーを着ていたからだった。私服の彼女の姿なんて想像したことは皆無だったが、まさか学校での装いのまま出歩いてるとは思わなかった。


 しかしながら冷泉瑠華は、俺以上に動揺している様子だった。いつもと同じ制服姿でありながら、まるで普段の自分ではない隠していた姿を知人に見られてしまったかのように。


「ええと……冷泉さん、で合ってるか? 同じクラスで、隣の席の榊原って言うんだが、こんな場所で会うなんて驚いたな」


 無視する訳にもいかず、俺は当たり障りのない常套句を口にした。ただでさえ女子とはあまり喋らない上に、彼女が美人であるという事実も認識していたためか、酷くぎこちない口調になってしまっている。


 彼女の名前は、ここ数日の探偵業の一件で嫌でも頭に入っていた。しかし、俺は彼女とただの一度も直接言葉を交わした機会が無い。隣の席なのだから、挨拶の言葉程度は交わしておけば良かったなと今更ながら後悔している。


 だから……少しうろ覚えのように尋ねる事にした。彼女もまさか、俺のような人間の事を覚えている可能性は皆無ではないかと考えていた。


「え、ええ……大丈夫よ、覚えていたから。その……驚いてしまってごめんなさい。まさか、こんな所で知っている人に遭遇するとは思わなかったから」


 冷泉は、気分を落ち着かせるようにしながら挨拶に応えてくれた。どうやら彼女は、俺のようなクラスメートA君の存在を覚えてくれていたらしい。それが幸運だったのか、出まかせだったのかは置いておくとして……流石に下の名前までは覚えていなかっただろうが。


 しかし、これと言って話のネタになる物も無かったためこれ以上会話が続かない。どうしたものかと悩んでいた時に、俺は昨日の彼女とクラスメートの会話の内容を思い出した。


「そういえば……週末は予定が入ってるって聞いたけど買い物だったんだな」

「……え?」


 その迂闊な一言が、微かでも和やかだった雰囲気を一変させた。


「……そんな事を、あなたに話した覚えはないけど」

「そう……だったか」


 俺の失言を、冷泉瑠華は聞き逃さなかった。


 しまった……と後悔しても後の祭り。本来ならば知っているはずのない、彼女に関する情報を何故かクラスメートA君が把握していた事を、あろうごとか本人に気付かれてしまった。


 ずっと横で聞いていた、なんて事実は口が裂けても言いたくない。そんなことを告白してしまえば、変な気があると勘繰られてしまう。


 そもそも、あのような聞き耳を立てていたのは俺自身ではない友人達の為だった。流石に普段の俺がそんな行為に及んでいたとは思えない……はずだ。半ばパニック状態に陥っていたのか、少しだけ自信が持てなくなっている。


「……たまたま昨日隣で話してた会話が聞こえてきたんだ。それだけで、深い意味は、全然、無い」


 ところどころの語尾に不自然さが残る苦しい言い訳だったかもしれないが、これが現状で出せるベストの返答だと考えた。意図した行為だったとは言え、会話を聞いた経緯としては間違っていなかったのも事実だ。


 しかし、俺は気が付いてしまった。


「……そう」


 あの目……


 一応納得してくれたように見えたそれは、俺が調査した数少ない『知っている情報』と照らし合わせてみた結果。彼女は俺の事を、『疑っているかもしくは警戒している』そういう結論が導き出されてしまった。


「…………」


 冷泉は警戒した眼差しを崩さずに両腕を組むと、その後右手の指先を捻るように口元へ置くなり何か考え事を始めた。俺は思わず、気まずさを感じてしまう。


 いっその事、全てを明かしてしまおうか。龍二達には悪いが、こんな事であらぬ誤解を受けたくはない。しかし状況を見れば、誰がどう考えても俺が彼女に付きまとっていると勘違いされそうだった。頼まれた事とは言え、彼女の事を少し調べていたのは間違いない。


 俺は今更ながら、一分だけでも時間が戻って欲しいという衝動に駆られた。


「……榊原君」


 黙ったまま何かを思案していたようだった冷泉の口から、突然自分の名前が出た事に驚いてしまう。心中としては、謝罪の言葉が飛び出す一歩手前というところだ。


「私から直接仕掛けるつもりは無いけど。あなたがそうするのなら……覚悟した方がいいわ」


 ――そのつもりだったのだが


「あなたが、『』に含まれてるかは知らないけど。返答次第では、半殺しまでで済ませてあげるから」


 彼女が意地の悪そうにニコっとした微笑みを浮かべながら言い放った、意味深な言葉を聞いて、俺はそれまでの頭の思考を全て止めてしまった。


 仕掛ける? 覚悟? 

 それは、ストーカー紛いの行動の事を言ってるのか。

 いや、そうだとしても。


 『どっち』って……どういう意味だ

 いや、そうじゃない。

 冷泉瑠華は確かにこう言った。

 答え次第では、半殺しって


 それってつまり、と言っているのか……?


「どっちって……何を、言ってるんだ」


 頭の中に沢山の疑問系が浮かんだところで、俺は一つ目の単語について尋ねた。自分でも理由が分からなかったが、全身から冷や汗が流れ始めているのを感じていた。


「意味が分からない?」

「……分かるわけがないだろ」

「猫を被ってるのかしら? じゃあ、もう少し踏み込んで言うと」


 冷泉は、あからさまに敵意を剥き出しにしながら告げた。


「あなたは、私の……敵?」


 彼女の視線が、これまで以上に鋭く突き刺さる。

 その瞬間、これが冷泉瑠華という女の子の本当の顔なのだと俺は認識した。


 ……ようやく合点がいった。


 彼女には敵と呼称している存在がいて、あの目が、相手がそれに該当するものであるか否かを分析していた眼差しだった事を。


 そして、その敵は……彼女にとって。

『殺すという行為』に値する存在である事を。


 しかし、俺は彼女が言うところの敵では無い……はずだった。自分の今までの行為がそれに近い物だったとしても、それだけで殺されるなんて事はありえない。どうして……何で俺は、こんな物騒な事を考えている。


「俺は……敵じゃない」

「じゃあ、なぜ私の事を嗅ぎ回ってるのかしら?」

「待ってくれ、話を、聞いてもらえないか」

「……いいわ、話してみなさい?」


 俺は冷泉瑠華に、これまでの行いを包み隠さず説明する事にした。こうして束の間の探偵業は、文字通りに事実上の廃業となった。


「……なるほどね」


 彼女の反応は芳しくない物だった。当然と言えば、当然かもしれない。友人に頼まれたなんて理由だけを話したとしても、それは証明能力に欠ける物なのは明らかだろう。


「ま、いいわ」

「……え?」


 再び間の抜けた呟きが零れてしまった。


「流石に、あなたみたいなうっかり者が敵とは思えないし。何より、説明してる時の榊原君の姿は真に迫る物があったから。無罪放免とまではいかないけど、釈放してあげる」


 どうやら、俺の誠意を込めた謝罪が伝わってくれたらしい。もっとも、まだ容疑者候補からは外れていないようだが。


「……助かる」

「勘違いしないで、まだ疑ってるのは事実だから」


 それだけで充分だ。今後の態度次第では、彼女も俺の事を信用してくれるだろう。だから、その寛大な処置に感謝せざるを得ない。


「言っておくけど」

 彼女は再び微かな笑みを浮かべながら宣言した。


「今日話した事を言いふらしたりすれば、私は容赦しない。どんな手を使ってでもあなたの口を封じる事にする」


 ……前言撤回。


 それは、最後通告という奴だった。言いふらすつもりは欠片も無かったが、それでもこの秘密だけは、守ろうと思う。何故このような、ただのクラスメートの女の子の脅し文句程度に、俺はここまで恐れを抱いているのか。


 その答えは、俺自身がまさに先程の言葉通りの感情を、冷泉瑠華という人間から本能的に感じてしまったからだろう。


 ――恐怖だ。


 今思えば、彼女に対する俺の反応は序盤からその兆候を感じ取っていたと言える。最初に彼女が口にした半殺しという言葉。それは物騒な物ではあったが、冗談で言う人間も世の中には少なからず存在するはずだろう。しかし目の前で彼女の変貌を目撃した俺は、その言葉を真に受けてしまった。彼女ならやりかねないと信じられてしまった。


 彼女にとって俺の謝罪が、真に迫る物だったと受け取って貰えたように。俺にとって彼女の最後通告は、嘘でも何でもない真剣さを込めた言葉だと受け取るには充分過ぎる――殺気を秘めていたのだから。


「……分かった、約束する」

「そう? じゃあまた学校で会いましょう」


 そう去り際に残して冷泉は、俺の存在を通り過ぎると駅の方へと歩き始める、と思いきや突然足を止めてこちらへ振り返った。


「あなたにもう一つだけ忠告しておくわ。命までは取られないと思うけど、しばらくはあまり出歩かない方がいいと思う。大丈夫よ、全ての事が済めば安全だから。多分あなたがそれに『気が付く』事はないだろうけど。それじゃ、さよなら。榊原くん」


 結局……彼女は最後の最後まで、意味深な謎かけを残していった。その真意を聞くことは、多分もうないだろう。


 気にならないのか? と聞かれればそれは勿論嘘だ。しかし、その欲求を満たそうとして無謀な橋を渡るほど俺は馬鹿ではないし、愚か者でもないし、臆病で、身の程を知っていた。




「っ!?……な、なんだ……これ……は」


 それは、冷泉瑠華が俺の視界から完全に居なくなって、ようやく心を落ち着かせようとしていた矢先の事だった。

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