泡世界――もしくは、博士は如何にして世界を救いしか

水乃流

■■■■

 やぁ、教授。お目覚めですか?


 申し訳ありません。

 現在あなたの身体は、あなたの自由にはなりません。主導権は“”にあります。どうかあきらめて、落ち着いてください。


 え?君は誰だ?

 おやおや、頭脳明晰な教授の口から、そんな凡庸な質問が出るとは思いませんでしたよ。がっかりさせないでください。

 いいですか、ちゃんと論理的に説明しますから。


 机の上のビンがわかりますか?

 えぇ、そう、その小さな茶色のビンです。このビンには神経毒が入っていました。即効性のものではなく、ゆっくりと神経に作用し意識を失ってから呼吸が止まります。苦しまずに死ねる毒ですよ。


 その通り。


 あなたには、この毒を飲んでいただきました。

 ふふっ、ご心配なく。

 この毒の原材料は、インターネットからあなたのクレジットカードで購入したものです。誰が見てもあなたの自殺と思うでしょう。えぇ、間違いなく自殺です。


 毒を飲ませた理由ですか?

 まったく、人の話を聞いていませんね。ちゃんと説明すると言ったでしょう?

 まぁ、いいでしょう。


 私がこんなことをするその理由は―――あなたの研究です。

 そう、量子世界マッピング技術ですよ。


 すばらしい研究です。量子力学的な可能性の世界を、マッピングして視覚化するなんて誰が思いつくでしょう!その先もさらに素晴らしい!宇宙が生まれた直後からのすべての分岐を追い、すべての平行世界をマッピングすることは不可能と言っていい。その問題をあなたはひとりの人間の選択にフォーカスすることで解決した!ある人物の判断だけに着目すれば――たとえナノ秒単位での分岐をマッピングするのは無理であっても――量子世界の概略を掴むことができるかもしれない。あなたが量子コンピュータを使用して作り上げた量子マッピングの雛形は、神の領域の、その片鱗に触れていると言ってもいいでしょう。


 あなたの研究成果、量子世界マッピングの初期モデルが、こちらモニタにリアルタイムで表示されている、この図形ですね。……これはまるで、泡のようだと思いませんか?ひとつの泡の表面から次々と無数の泡が生まれてくる。これが、ひとりの人間の選択によって生まれてくる世界。だが、泡とは違い、選択しなかった世界は消えることはない。確かに存在し、また新たな分岐を生んでいく。芸術家ではない我が身であっても、ある種の美しさを感じずにはおれませんよ。教授も同意されるでしょう?


 さて、あなたのアイディアが、あなたの個人的な理由から生まれたことを、私は知っています。その個人的な理由とはすなわち『別の選択をした私はどんな生活をしているのか?』という馬鹿げた考えです。


 いやいや、隠しても無駄です。

 私は知っていると言ったでしょう?そう、あたなの隠された願望、いや妄執と言ってもいいかもしれませんね、その妄執についても熟知していますよ。あなたは、正しい選択を繰り返した世界のあなた、いわば成功したバージョンのあなたに嫉妬し入れ替わりたいと考えている、そうでしょう?


 あぁ、大きな声を出そうとしても無駄ですよ。だいたい、大声でわめき散らすなんて自分らしくない、そうは思いませんか?


 まだ時間はあります。話を続けましょう。


 あなたの妄執を後押ししたのは、ニューロン転写技術ですね。では、先日マウスでの実験が成功したばかりですが、あなたはあの技術を利用して、別のバージョンのあなたのニューロンを書き換えられるのでは?と考えていますね。


 結論から言えば、これから生まれるあるバージョンのあなたは、そのアイディアを現実のものとします。そのバージョンの世界のあなたは、量子コンピュータを利用してニューロンを転写する方法を実現し、成功するんです。

 そうです、現バージョンのあなたの考えは、決して間違ってはいないんです。考え自体は。


 やがて、量子世界間のニューロン転写技術を実現のものとしたあなたは、ずっと前からの願望を実行に移します。あなたは、若くして成功したバージョンのあなたと入れ替わります。

 でも、今のバージョンのあなたが変化するわけではありません。今のバーションのあなたは、そのまま自分の人生を歩み続けなければならない。ファックスで送った紙が、手元に残ることと同じようなものです。

 それはあなたも十分理解していたはずだ。だから、転写が成功した時点で転写元であるあなたは死を迎えるはずだった。そう、今使った薬品を使ってね。


 だが、問題は転写を行ったバージョンのあなた全員が、必ずしも死を選んだ訳ではなかったということです。考えてみれば当然のことです。“選択による分岐”。死を選ぶという選択がある以上、そこに分岐が生まれるのですよ。


 死を選ばなかったバージョンのあなた(たち)はどうしたか?あるバージョンでは、再度転写を行ない、また別のバージョンではあきらめました。数多くのあなたのバリエーション、その中のひとりが別人への転写を試みました。この時点のあなた(たち)は、もはや妄執に囚われた凶人です(でした)。

 別人とはいえ、遺伝子レベルでほとんど差異のない人間への転写ならまだよかったのです。まったく異なる細胞、遺伝子、ニューロンを持つ人間への転写。それがどんな混乱をもたらすか。そして、転写先が政治的・経済的に重要な人物であったならどうなるか。


 さらに悪いことに、あなたの研究はあなただけの秘密にしておくことはできませんでした。これも当然です。ひとりで研究を進めるには限度があります。

 今でさえ何人かの助手に手伝ってもらっているでしょう?そして、転写の秘密を知った人々は、あなたと同じように“より理想的な世界”の自分たちになりたいと願い、それを実行します。

 こうなると待っているのは大厄災カタストロフィです。それもひとつの世界だけでなく、数多くの量子世界が破滅を迎えました(ます)。そう、あなたが、あなたの研究が無数の人の命を奪い、無数の世界を滅ぼしました(滅ぼします)。


 恐ろしいことです。


 今から研究を止める?

 だめですよ。止めることを選択するあなたと同じように、止めない選択をするあなたもいるのです。さらに言えば、一旦研究を止めても、後日研究を再開するあなたも存在するでしょう(存在します)。


 私たちはあらゆる可能性を検討し、今、この時点であなたに消えていただくことが、世界にとってもっともよいという結論に達し、こうしてあなたのところに来たのです。ほら、もう、手足の感覚がなくなってきたでしょう?


 安心してください。

 これまでの研究はすべて破棄しました。プログラムもデータもすべて跡形もなく。あなたの研究を継ぐ人間はいませんし、あなたと同じアイディアに辿り着いた人間が、あなたと同じような天才的ひらめきを持っていたとしても、私ではない誰かが私と同じように大厄災カタストロフィを阻止するでしょう。もしかしたら、すでに私の知らないところで誰かが同じように災厄を阻止してきたのかも知れませんね。


 そろそろ眠くなってきましたね。もうすぐ安らかな死を迎えることができますよ。


 私、ですか?

 もう気がついているんでしょう?

 そうです、この世界とは別バージョンの世界から来た人間ですよ、私は。

 いやいや、言ったでしょう?転写が成功するのは、同じ人物であるからだと。


 そう──私はあなたですよ。別バージョンのあなた。あなたに転写した別バージョンのあなた。


 さぁ、もうすぐです。あなた/私の死は多くの命を、世界を救うのです──

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

泡世界――もしくは、博士は如何にして世界を救いしか 水乃流 @song_of_earth

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説

餌食

★3 ホラー 完結済 1話