私には彼を夫と呼ぶ資格なんてない

角増エル

小桜美奈穂(27)

「綺麗な星だね。まるで、あのときみたいだ」

 あのとき――。それは、私の知らない、あのとき。


 ☀︎ ☀︎ ☀︎


 今日は、二度目(厳密にいえば、私にとっては初めてだけれど)の結婚記念日。

 私は、夫――いや彼と一緒に、昼ちょっと前からドライブに出かけた。

(本当はもっとおしゃれなプランを考えてくれていたりもしたらしいのだけれど、私が「付き合いたての頃にしたデート、もう一度やってみない?」と提案したので、そういうことになった。)

 私たちが今日追体験しているのは――いや、自分のことなんだから追体験っていうのはおかしいのかもしれないけど――私たちが同期で同じ会社に入社してすぐに親睦会として同期のみんなで行ったお花見でお互いなんとなく気になりだしてから半年後、彼が初めて誘ってくれた(らしい)ドライブデート。

 あの時と同じく、まず海を見に行って防波堤の上で昼食をとった。

 朝早起きしてバスケットにきっちり詰めたサンドイッチ。それを頬張った彼に『昔よりちょっと卵の塩っ気が強くなったかな?』って言われて少しどきっとしたけど、概ね満足そうに食べてくれて嬉しかった。

 昼食を食べ終えて海辺を二人で歩いていたら砂に足を取られて転びそうになったところをしっかり支えてくれたときなんて、ああ、好きだなって思った。

 ――やっぱり、そういう本能的に好きって思える部分は、何があっても変わらないみたいだ。


 富山湾沿いに車を走らせ他愛もない話をしながら次に向かったのは、世界一美しいスタバとしてちょっと名の通った、スターバックス富山環水公園店。

 この、初デートだからってちょっとオシャレを気取ってみましたって感じがたまらなく愛おしい。って話を本人にしたら、『若気の至りだから……』みたいに照れて笑っていた。いや、まだ3年くらいしか経ってないんだけどね。

 ……とはいえこの3年で本当にいろいろあったので、精神的にはその年月以上に達観してしまったのだろう。

 暫く世界一美しいスタバでお茶をして(どうでもいいけど、珈琲をメインに提供するお店で「お茶」ってなんとなく違和感がなくもない)、環水公園を軽くぶらついた。

 残念ながら赤い糸電話は例によって切られてしまっていてできなかったけれど(天門橋っていう橋の両側に設えられた展望塔を赤い糸電話が繋いでいて、それを通じて愛の告白をするのが、富山で最もホットでクールなプロポーズの方法だったりするのかもしれないし、断るときはよく聞こえなかったふりもできるという優れ物です。で、そんなリア充の聖地ここに極まれりみたいな施設にある種のヘイトが溜まるのはもはや世の摂理なので、そのヘイト値が一定値を超えるとこの糸は切れちゃったりもするのだ。……結構頻繁らしいです)、それでもやっぱり私たちはそこに上って、雰囲気もへったくれもないけどスマホで電話をした。

『あのときは、ここで告白されたんだったよね』

『あれも、若気の至りだなぁ』照れたように笑う彼。

 私はここで、私が私であるということに疑念の余地を抱かせることのないよう、私でなければ知り得ない情報をさらっと開示しておいた。

『本当はあのとき、ちゃんと聞こえてなかったんだ』

『えっ』

『でも、きっと告白なんだろうなって、っていうか、そうだといいなって思って、はいって答えたの。そしたら、やったーーっ! って、糸電話手放して大声で叫ぶ声が聞こえてきたから、あ、あってたんだよかったーって。あれ、違ってたらすごく恥ずかしかったよね』

 そうクスクス笑ったら、

『なんだそうだったのか……実はギリギリまで告白するかどうか迷ってて…………してよかったぁ……』という安堵の声が電話越しに聞こえてきた。

 そうそう、こういうディティールに訴えていくのが大事だいじ。そんなことをしてたらそろそろ向かわないとチェックインがって時間になってたので、環水公園を後にする。もう一度車を走らせて、今度は山へ。

 あの日と同じく、今日も絶好の紅葉狩り日和だった(らしい)から、私たちは予定通り宇奈月駅へ。

 乗り場の近くへ車を停めてトロッコに乗り、富山県民秋の風物詩、「窓のないトロッコから眺む、紅葉に染まる黒部峡谷」に目を輝かせた。遠く西の空は既に赤く染まり始めていて、峡谷に流れるのは、日本最大のダム・黒部ダムを頂く黒部川の清流。そのせせらぎが、サスペンションの軋む音に混じって微かに耳に届く。

 ――確かにロケーションはバッチリなのだが、プロポーズの後、しかもあのオシャレ空間からいきなりこの渋み全開なルートってどうなの! って思わなくもなかったけど、婚姻届に下新川郡の郡を群って書き損じて、予備には今度は何故か自分の姓を私の姓で書いてしまって、慌てて市役所にもう一度貰いに行った(らしい)というエピソードを持つ彼のちょっとズレたところなんていまさら気にしていても仕方ないというか、そういうところもまた彼らしいしむしろ愛おしいとさえ思える。

(もし本当に彼が私の夫だったなら――)

 そんな望むべくもない贅沢さえ、一瞬脳裏を掠めるほどに。

 そして私がそんな思いを抱えてしまったときは必ずと言っていいほど、彼は折良くというべきか悪しくというべきか、『トロッコ、大丈夫だった? ――電車は、今でもちょっと怖いんだよね……』なんて私を優しく気遣ってくれる。

『うん、平気。ありがとう』

 と平静を装って返したけど、そのたびに私は(これはずるいよー。っていうか、残酷だよー)ってなってしまう。

 そんなふわふわした気持ちのやり場に困ったまま、トロッコは終点である欅平駅へと到着。私たちはその足で知る人ぞ知る秘湯名剣温泉へと向かい、チェックインを済ませてさっそく温泉へと向かった。

 秘湯らしく(?)露天風呂しかない。

 秘湯らしい(?)熱めの湯にとっぷり浸かれば、そこから見える「名剣の秘峡」と銘打たれた景色もまた格別で、なんだかんだ素敵なデートプランじゃないですか、なんて何目線だよって感想を心の中で呟いてみたり。そのころにはすっかり、空には夜の帳が下りていた。

 私がお湯に浸かってすぐ、藁ぶきの板を挟んで隣の男湯からとぷんって音がして、あ、彼も入ってきたんだなってわかる。

 秘湯だから(?)今日この温泉には私たちしか泊まっていないらしく、実質貸し切り状態なのだ。そして、彼はふうっておっさんめいたため息のあと、おもむろに呟いた。


「美奈穂が電車に轢かれたってきいたときは、本当に心臓が止まるかと思った――」


 ――独り言ってわけではないだろう。

 一緒に暖簾をくぐったのだから、私が隣にいることを彼だってわかっている。だからこれは、私への言葉だ。

「ごめんね」

 私の謝罪に、彼は優しく笑って応える。

「美奈穂が謝ることじゃないよ。悪いのは、美奈穂を突き落としたあの男だよ」

「でも……! 私がもっと、気を付けてれば」

「いや、気を付けてても、どうしようもなかったさ。あの男はもう捕まっているわけだし、もう心配することはないよ。……あんな人、そうそういるもんじゃないさ」

 そうだろうか、と私は思う。

 ――環水公園の赤い糸だって、頻繁に断ち切られている。

 世の中には、他人の幸せをどうしようもなく妬んでしまう人が少なからずいて、それを行動にまで移してしまうって人はもちろん決して多くないのだろうけれど、かといって決して世界に一人だけってわけじゃない。

 でもきっと彼だって、そんなことは分かっているだろう。

 それを分かったうえで、彼は私を勇気づけようとしてくれている。


「本当に、美奈穂が生きていてくれてよかった」


 そんな、底抜けに優しい彼だから――

 そんな彼には、幸せになってほしいから――

「美奈穂が記憶を取り戻してくれて、帰ってきてくれて本当によかった――」

 だから私は彼に、


「うん。わたしも、帰ってこられてよかった」


 嘘をつかなくてはならない――。


 ☂ ☂ ☂


 私は一年前、結婚式の翌日、駅のホームで男に背中を押されて線路に落下し、電車に轢かれたらしい。

 彼の仕事の都合上新婚旅行は一月後を予定していて、私もその日は仕事に向かっていたらしい。

 そこで、いつも同じ車両に乗っていた男が私の指につい先日まではなかった指輪を認め、何らかの情念に突き動かされた末の犯行だったと聞き及んでいる。

 その電車は、いつもならその駅を通り過ぎる電車だった――。

 だから、その日たまたまダイヤの乱れによってその駅に停車することになっていなければ、減速なんてされていない列車に跳ね飛ばされ、私は死んでいただろうとのことだ。

 大きな外傷はほとんどなく、頭を強く打って昏睡状態に陥ったことを除けば、奇跡に近い幸運だったらしい。


 ここまで伝聞系なのは、私がそのことを覚えていないからだ。


 運よくなんとか一命をとりとめ、私が目を覚ましたとき、彼は私の手を握っていた。

 これが、私にとって最初の記憶。

 私の記憶は、この時よりも前に遡ることができない。

 電車に轢かれたというのに、私は外傷もほとんどなく、一月眠り続けただけで済んだ。しかし私の記憶は、事故を境に喪失していた。


「俺のこと、わかる?」と言った彼に、私は「琢磨さん」と返した。彼は一瞬喜色の表情を浮かべたけれど、「でも、それ以上のことは、思い出せません……すみません」という私の言葉に、私の手を取りながら、力が抜けたように見舞い者用の椅子にすとんと腰を下ろした。

 ……そのときの、彼の絶望に打ちひしがれた、全てを失ってしまったかのような表情は、今でも忘れることができない。


 私の記憶障害は、言葉やその意味といった知識はあるが、思い出はないというもの。人が長期的に保持する記憶は大きく陳述記憶と非陳述記憶に分けられ、陳述記憶は更にエピソード記憶と意味記憶に分けられるらしい。そして、エピソード記憶と意味記憶は記憶の方法が違うらしく、私は思い出……つまりエピソード記憶だけを失うタイプの記憶障害だった。

 私が記憶を失ったと知って、その一瞬こそ彼は気力を失っていたが、すぐに私の記憶を取り戻すことに力を注いでくれた。思い出の(らしい)場所にいくつも、何度も連れて行ってくれたり、いろいろな思い出話を聞かせてくれた。その話をする彼はすごく楽しそうで、私もほとんど他人の話を聞かされている感覚ではあるのだけど、自然と楽しくなった。

 だが、彼の尽力もむなしく、一年と半年ほどが経っても私の記憶が戻ってくることは一切無かった。

 そんなとき、私はついに、身体面での不自由はもうないだろうということから、退院を言い渡された。

 私たちは結婚と同時に新しい家をローンで買っていたらしく(富山では家と車を持っていることが何よりも尊ばれる)、本来なら既に完成しているその家に帰るのが正しかったのだけれど、『住み慣れた家に戻った方が記憶の戻りも早いかもしれないでしょ』と医師や周りの人間を無理に説得し、実家に戻ることになった。

 そしてその日、私はその部屋をいろいろと物色した。

 私にとっては他人の部屋だから最初はちょっと気が引けたけど、次第に『まあ私の部屋で間違いないらしいから、いいか』という気持ちになった。そして私は、勉強机の袖机の中に、あるものを見つけた。それは、数十冊の日記だった。

 私はなかなかにマメな人物だったようで、その日記は、毎日欠かさず、その日あったことがざっくりとではあったが記録されていた。その中でも特に、彼と出会ってから、彼のことが記録されたこの日記は、その詳細までが丁寧に記録されていた。


 私は、これを探していた。


 私は彼に、『どう、何か思い出した?』と聞かれるたび、首を横に振るしかなかった。その度彼は『そっか』と笑ったけれど、その顔はいつもさみしそうだった。私はそんな彼を、それ以上近くで見続けることができなくなっていた。

 こんなにも優しい彼が、一人の男の身勝手な行動で、大切なものを奪われた。男は捕まり法の裁きを受けるけれど、彼の失った物が戻ってくるわけではない。そんなことが、あっていいはずがない。私は彼にもう一度、心の底から笑顔になってほしい――。

 だから、私は決意した。


 記憶を取り戻したふりをしよう――。


 私は日記を、ことさら彼と出会ってからの日々を何度も何度も読んで、頭に叩き込んだ。彼のこと、彼としたこと、彼がしてくれたこと、彼といった場所、そこで感じたこと……。一番新しい日記の内容は結婚式のことを書いたもので、彼が結婚式で緊張のあまり愛の誓いの文言を神父のカタコトそのままに復唱していたことまで、しっかり頭に叩き込んだ(ここは、想像してさすがに笑った)。

 そして私は数日後、記憶を取り戻したふりをして、彼の待つ新居へと向かった。

 彼は声を上げて涙して、私の記憶が戻ったことを喜んでくれた。

 膝から崩れ落ち、私の胸の中で落涙して喜ぶ彼の頭を撫でながら、私は覚悟を決めた。

 私は彼のことを、死ぬまで愛し、死ぬまで騙し続けようと。


 ☁︎ ☁︎ ☁︎


 あれから半年、まだ彼には、本当のことは気づかれていない。

 これからも、気づかせてはいけない。

『美奈穂が記憶を取り戻してくれて、帰ってきてくれて本当によかった――』

 彼はこう言ったが、彼の言う本当の美奈穂わたしは、帰ってきてなどいない。私は、彼の妻の顔を持ち、彼の妻の記憶を盗み見ただけの、彼の妻を騙った別人だ。だから、私には彼を夫と呼ぶ資格なんてない。でも、私はもう、こうやって生きていくことを決めたのだ。

 私はもう、彼の苦しむ姿を見たくはない。

 私はただ、彼に幸せになってほしい――。


 夜空に煌く星を見ながら、ぼうっとそんなことを考える。すると、彼がぽつりと呟いた。

「綺麗な星だね。まるで、あのときみたいだ」

 あのとき――。それは、私の知らない、あのとき。日記にも、流石にそんなことまでは書かれていなかった。でも、


「――そうだね」


 私はそう返す。それが、私の選んだ道だから。

 でもたまに、こうやって彼が私の知らない記憶に触れたとき、記憶の中の深いところに、なんとなくだけれど、前にもこの景色を見たことがあるような、その時間を共有したことがあるような、そんな感覚がちりっと呼び起こされる気がすることがある。

 ……それが私の思い込みなのかどうかは、今の私にはわからない。

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