一目惚れ

 夜の公園のベンチで、こぼれ落ちる涙を必死に拭う。崩れた化粧を見られたくなくて俯いたまま顔を上げられない。ついに結婚式に関する不満を隼人はやとにぶちまけてしまった。互いに言いたいことを打ち明けてしまったけど、嫌われていないかな。もう、終わりになってしまうのかな。取り返しのつかないことをしちゃったな。


 顔を上げずにいると、私にくっつく形で隣に誰かが座った。顔を上げないまま横目でその正体を確認する。当たり前だけど、やっぱりこの状況で私の隣に座る人なんて隼人しかいなくて。私を包み込むように背中に回された手は少し冷たかった。


「本当にごめん。その、悪気はなかった。美穂みほの理想を叶えようとしただけなんだ。関心がなかったわけじゃなくて、結婚式をしたくないわけじゃなくて。ただ純粋に、美穂を思っての行動のつもりだったんだよ」


 隣から聞こえてくる声は震えていた。弱々しくて、今にも消えてしまいそうな声だった。その声に罪悪感が少し芽生える。だけど私は素直になれなくて、言葉一つ返せないまま。「ごめんね」の四文字でも言えればなにか違うんだろうけれど、言葉にしようと思っても声にならないただの呼気にしかならない。


「俺、ちゃんとやるようにする。美穂の意見を優先したいとは思うけど、ちゃんと俺の意見も言う。だからどうか、俺のこと嫌いにならないでください! 結婚、やめないでください」

「やめるわけないじゃない! 嫌いになるわけないじゃない! 隼人こそ私のこと嫌いになったでしょ?」

「なるわけない。前にも言ったでしょ。俺、美穂が思ってる以上にれてるって。……あれ、もしかしてまた同じこと考えてる?」


 隼人の言葉に思わず顔を上げた。嫌われてないことに安堵して。あなたも同じ気持ちだと知って何故か嬉しくて。でも顔を上げてから思い出した。さっき泣いたから、化粧が乱れてるに違いない。こんな顔を見られたら、今度こそ幻滅されちゃうかもしれない。なんて、隼人の前で泣くのは今更、かな。


 もう何度あなたの前で涙を見せただろう。一人の時は、頑張ればこらえることが出来る。「泣いちゃダメ」って強く言い聞かせて、別のことを考えて泣きたい気持ちに抵抗して。そうすれば我慢できたんだ。だけど隼人の声が、優しい言葉が、心をほどいて涙腺を緩ませてしまう。あなたの前では涙も感情も制御不能になってしまうの。


 いい歳して情けない。もっと大人にならなくちゃ。涙の数だけ強くなれる、なんてことはなくて。心許せる人の前では涙脆くて、零した雫の数は減るどころかむしろ増えてしまって。少しも強くなれないんだ。


「美穂は初めて会った時から泣いてたよね。傘も持たずに泣いてたから、話しかけずにはいられなかった。なんでだと思う?」


 そういえば、初めて会った時も泣いてたな。あの時は雪の日なのに傘がないことと、元カレが私に隠れてした行為を考えて、自然と涙が溢れだしたんだっけ。あれはもう、四年前の出来事になる。あの日、隼人がいなかったら雪が止むまで駅に佇むことになっていたな。


「傘を二本持っていたのは偶然だよ。でも傘が無くて困ってる人なんて他にもいた。俺が美穂さんを選んだのは……したから、だったんだ」


 隼人の衝撃的な発言に、呼吸を止めた。





 三年前の雪の日に、私以外に困ってる人もいたんだ。私、自分のことで精一杯で全然気付かなかった。でも問題はそこじゃない。今、「一目惚れ」って聞こえたけど聞き間違いじゃない、よね。この感覚、三年前にもあったような気がするけれど。


「なんで?」

「なんでって言われても……ほっとけなかったんだよ。頭の先からつま先まで濡れてたし、傘持ってないみたいだし、声を抑えて泣き始めるし。ほっとけないし、ほっときたくなかった。だから、偶然余分に持ってた傘をあげたんだ」

「そういえばあの日、なんでか二本も傘を持ってたものね」

「あれは――ってこれ、前に話したし、忘れてるならそのまま思い出さないでほしいな。すごく情けない話だから」


 傘を持っていたのは覚えてる。ビニール傘と黒い長傘の二本。で、二本持ってると恥ずかしいからってビニール傘をくれたんだよね。よく良く考えてみたら壊れていない長傘を持っているのにビニール傘を買う必要が無い。説明してもらったかもしれないけれど、見事に忘れてしまっている。


 そもそも、記憶力がよかったら傘を忘れて雪の中に飛び出さない。折りたたみ傘を忘れることもしない。隼人との思い出を覚えているのは、隼人のことを意識し始めたからで、好きになってしまったから。好きな人との思い出ならいくらでも覚えられる。一つ一つの思い出が大切だから。でもビニール傘をもらった時は、覚えておくほどの人じゃなかったんだよね。


「帰る時こそ傘二本あったショックだった。でも、最寄り駅で全身濡れて泣いてる美穂を見て『ラッキー』って思ったんだ。傘を余分に持ってるのは俺くらいだし、傘をあげたらもしかしたら覚えてもらえるかなって」

「作戦成功ね。ビニール傘を貰ってから、ずっとあなたのこと考えてたもの。もう一度雪が降れば会えるかな、なんてバカげたことも考えてた」

「だから二回目は声をかけてくれたんだ」


 隼人に惹かれた一番の理由は、偶然とはいえ私にビニール傘をくれたその優しさだ。その次は、元カレに諦めてもらうために彼氏のフリをしてくれたっけ。結局そのあと本当に私の彼氏になってしまったけれど。


 私が折りたたみ傘を貸さなかったら、未だに連絡先がわからないままだっただろうな。そしたら元カレに誤解されることはなかったけど、こうして親しい間柄になることもなかった。けど、なんで今そんな話をしてるんだろう。


 よく考えたらさっきまで喧嘩してたはずだよね、私達。「喧嘩」って言うより「話し合い」に近いけど。違う、隼人が「喧嘩」を「話し合い」に変えたんだ。話し合って解決しようとしてくれてるんだ。


 ふいに隼人が頭上に手を伸ばしてる何かを掴む仕草をする。手を開いて掴んだ何かを確認すると、笑いかけてきた。そして手のひらに乗っている何かを私に見せてくる。そこにあったのは、いつの日か掴み損ねていた桜の花びら。


「いいんだよ、言いたいことがあったら互いに言おう。我慢してる方が辛いし、喧嘩してもいいじゃん。最後にはこうやって話し合って、互いを理解すればいいんだ」

「それで解決しなかったらどうするの?」

「……どっちか困ってる時に助けようと思ったら、仲直り。とか?」

「なにそれ!」


 困ってる時に助けるなんて、当たり前の事じゃない。私も隼人もお節介を焼くタイプだから、そんなこと言われたら絶対に仲直りってことに……。


「そういうこと!」

「意味、わかった?」

「マンガに出てきそうなこと言わないでよ」

「カッコつけたかったんだよ」


 私も隼人も、誰かが困っているのを見たらほっとけなくなる。そうじゃなきゃ雨の日や雪の日に傘の貸し借りをしない。それをわかってるから、あなたの言葉の意味に気付いたの。


 何回喧嘩しても、その度に仲直りして互いを知っていけばいい。相手への思いやりを忘れなければ、気持ちがいろせなければ、何度だってやり直せるから。


 隼人の手のひらに乗っかったままの桜の花びら一枚。上から見るとハート型に見えて、なんだか素敵。この花びらみたいに、私の心も隼人の手のひらの上。私の考えること、全部隼人に読まれてる。だけどこのまま隼人に捕えられてるのは、なんとなく嫌だな。


 ふぅーっと息を吐いて、あなたの掴んだ花びらを飛ばした。花びらは運良く風に乗って遠くに飛んでいく。このまま空まで飛んでいけ。私の気持ちを乗せて、遠くまで飛んでいけ……。

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