今、君の元へ

 小さな結婚式会場で、私は今、前室の中で立っている。一緒に選んだ白いウエディングドレスに身を包んで、二人で悩んで決めたブーケを手にして。着物を身にまとった母が、私の顔にそっとベールを被せる。私の視界を薄くて白いレースが覆ってしまった。


 このベールは魔除けの役割、なんだっけ。花婿の元へ行くまでの安全と幸せを願って、ベールダウンを行うらしい。ベールを顔に被せてくれた母の顔はどこか悲しそうで。両目一杯に涙を浮かべているくせに、一生懸命笑ってる。


「お母さん……」

「これが、私に出来る最後の身支度だから。美穂。これからは隼人さんと、幸せになりなさい。そばで見守るのは今日が最後だけど……どんなに離れても、どんな時でも、あなたの幸せを願っているから」


 母の言葉に思わず泣きそうになる。喉の奥がツンとする。ここで泣いちゃダメだから、泣かないように必死に我慢しなきゃ。母との思い出が脳裏に過ぎる。


 小さい頃は色んなことを手伝ってもらったな。学生になってからは、忘れっぽい私に「これ忘れてるよ!」って呼びかけてくれたっけ。いつからか母といることが恥ずかしくて、離れるようになって。母に甘えてひどいことを言った時もあった。たくさん喧嘩したけど、どんな時もご飯は用意してくれていたね。


 大学生になってからは地元を離れて一人暮らしをした。その頃から母と会うことは減ってきて、年に二回帰るだけ。なかなか家に帰ろうとしない私を、母は責めずにいてくれた。失恋した時は突然電話かけて、泣きながら思いをぶちまけた。どんな愚痴でも笑わずに、呆れずに、真剣に聞いてくれたのは母だった。


 隼人のことを伝えた時に真っ先に喜んでくれたのも母だった。父を説得して話し合いの場を設けてくれて。隼人と父の仲を取り持ってくれた。


「今まで……お世話に、なり、ました」


 涙を堪えるのが精一杯で、伝えたかった言葉は途切れ途切れ。声も小さくくぐもってしまって、母に伝わったか定かではない。でも私が口を動かすと、母の目尻から透明な液体が数粒溢れた。それにつられて私も泣きそうになる。


「私こそ、美穂の母親になれて嬉しかったよ。今までたくさんの思い出をありがとうね。……ほら、しっかりなさい。隼人さんが待ってるわよ」


 母に急かされてハッとする。ここで泣いてる場合じゃない。泣くにはまだ早い。強くいなきゃ、泣いちゃダメだ。今まで何度も心に言い聞かせた言葉を使って、泣きたい欲求に抵抗する。よかった。今日はきちんと感情を制御出来た。





 バージンロードを一緒に歩くのは父の役目。母は着物なのに父が着ているのはタキシード。「そこは揃えようよ」なんて思ったけど、口には出せない。きっと両親の着ている衣装にも何かしら意味があると思うから。チャペルの扉が開いて、私と父の目の前にバージンロードが広がる。


 バージンロードは青い絨毯じゅうたんにした。青は青でも淡い青じゃなくて濃い鮮やかな青――ロイヤルブルー。私は青が好きだから、ロイヤルブルーは夜空を連想させる色だから。隼人と相談して、この色の絨毯にしたんだ。


 チャペルの扉は「花嫁の誕生」を、バージンロードは「花嫁の過去」を示すらしい。ゆっくり歩くことで、これまでの日々を噛み締めながら一歩一歩前に進んでいくんだとか。こうやって父と一緒に歩くのはいつ以来だろう。すぐに思い出せないほど遠い記憶。その事実が少し悲しい。


 父は仕事で忙しく、朝は早くて帰りは遅い。そのせいか小学生の頃とかはよくすれ違っていて、まともに話したのは休日くらいだった。私が起きる時間には父は出勤していて、私が寝た後に帰宅していたから。休日は、日頃の疲れからか寝てばかりいて、食事の時しか話せなかったっけ。


 中学生、高校生の頃だったかな。部活で帰りが遅くなる私を初めて叱った時があった。そのあとは高校卒業まで門限を決められて、門限を越えて帰ると父に叱られる日々が始まったんだ。当時父によく言われた言葉、今でも覚えてる。


「遅く帰って母さんを心配させるな。あまりに遅くなるなら連絡しろ。いつだって迎えにいくから」


 今ならわかる。父は照れ屋なのか素直に言葉を言えない人で、母を口実にしなければ迎えを提案することも出来なかったんだ。本当は、私が犯罪に巻き込まれるんじゃないかって心配してくれてたらしい。門限を設けたのも、母を理由に叱るのも、私を思ってのことだったそうだ。


 一度くらい素直になってほしかったな。もっと早くに父の本心を知っていたら、私の人生が大きく変わっていたと思う。私は、門限が嫌で大学から都会に出ることを選んだから。結局そのまま実家に帰ることはなく、就職したのも都会の会社だった。父の本音は、結婚式前に母に教えてもらうまで知らなかったよ。


 隼人のことを紹介した時、父は素性を心配して質問責めをした。生まれ育ちから職業、付き合った経緯、私を選んだ理由。聞き出せる限りのことを聞いて、最後には二人で酒を飲みに居酒屋に行ってしまって。残された私と母は心配しながら待つことしか出来なかったんだ。


 あとから隼人に教えてもらった。父と二人きりで飲んだ時、盃を交わしたそうだ。三国志の「桃園の誓い」の受け売りで、盃をかわすことで何かを契ろうとしたんだとか。今どきそんなことを現実でする人なんてほとんどいないし、あれは「義兄弟の誓い」だった気がするんだけどな。


 様々なことを話したらしい。私の昔話を色々聞かされたと言っていたから。挙句、酔った勢いで人前で土下座。大きな声で「どうか娘を頼みます」的なことを言って恥ずかしい思いをしたんだとか。父はそういった余計なことは全部、私に隠れてこっそり行う、そんな人だった。



 バージンロードの最後には新郎――隼人が待ってる。父から託され、新郎と手を取り合う。バージンロードの終点で新郎に出会った瞬間から、新しい未来が始まるらしい。結婚式には色々意味があるんだなと、話を聞いて驚いたっけ。隼人に私を託す時、少しだけ父の顔が見えた。


 すっかり老けてシワが目立ち始めたその顔には、薄らと涙がにじんでる。そのくせに涙を誤魔化して澄ました顔をしてるんだ。涙が零れないように必死に堪えて、鼻をすすって、結婚式の所作を行う。


 父は今日も、私の前では素直になってはくれなかった。今日くらい素直に泣いてもいいんだよ、お父さん。式中にそんな言葉をかけられるはずもなく。私は寂しげな父の横顔に、心の中でそう語りかけることしか出来ない。……お父さん、今までありがとうございます。私は今日、隼人この人と一緒になります。

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