忘れたくない

 テレビや小説に出てくるような「永遠の愛」なんて信じてない。だけど心は淋しくて、本当は「永遠の愛」を信じたくて。何も待たずに入れたなら、何も期待せずにいれたなら、少しは楽になれるのかな。そんなことを何度も思った。


 隼人はやととの懐かしい日々を思い出して、そのたびに胸が締め付けられる。過去の日々と隼人との恋におぼれてしまいそう。あの日々はもう、しばらくの間手に入らない。それだけなのに、生きる意味を無くしそうになる。たかが記憶の中の話なのに、どうしてこんなに私を苦しめるんだろう。


 嬉しいはずの思い出も、楽しかったはずの思い出も。隼人がいなくなった今ではその全てが辛く苦しい思い出で。日本にいるのは私だけだと知っているから、隼人になかなか会えないと分かっているから。心にポッカリと空いてしまった穴を埋める術が見つからない。


 あの優しい言葉を直接かけられることはなくて。あの心地よい声を直接聞くことは叶わなくて。思い出のある場所を訪れても、そこに隼人はいなくて。仕事帰りに嫌でも通る最寄り駅が、やけに広く感じる。



 隼人の海外出張から半年が経つ頃には、その寂しさから死人のようになっていた。会社に行って仕事をして、義務的に食事をして、寝る。ただそれだけの毎日が続いてく。義務的に口に入れる食べ物は何故か味を感じない。


 味なんてなくていい。食事はただの栄養補給でしかないから。必要最低限の食べ物を口に入れて、咀嚼そしゃくして飲み込む。それだけしていれば倒れることは無いって知っているから。心配だから食後にサプリメントも水で流し込む。食事はもはや、倒れないために行うだけの事務的な作業でしかない。


美穂みほ、そっちはどう? 俺は、なんとか仕事に食らいつくのが精一杯。周りの人が全員英語で話してて、その話をほとんど理解できないんだ。もっと英語に慣れないといけないとな。ねえ、美穂。ムリはしないでね?」

「最近やっと、英語で会話できるようになってきたよ。英語の書類も読めるようになってきた。現地で言葉に慣れるって大事なんだな。それを改めて実感してる。……また美穂の声を聞きたいです」


 時折隼人から送られるボイスメッセージは、近況報告と私の心配ばかり。同じボイスメッセージを何回も聞いて、忘れないように記憶に刻みつける。そして移動しながら何度も脳内で再生するんだ。離れている間に隼人の声を忘れないように、必死だった。


 人は、会っていない人のことを忘れていく生き物らしい。そう、どこかの情報番組の特集で見聞きした。私は隼人のことを忘れたくない。帰ってきた時に一番最初に笑顔で「おかえり」を伝えるのは、私でありたい。そのためには隼人の顔も声も仕草や癖も、隼人に関する色んな情報を忘れちゃダメなの。


 忘れたくない一心で隼人との思い出を振り返ると、懐かしい日々に溺れてしまいそうになる。早くても三年は離れ離れになる。いっそ私から会いに行けたらいいんだけど、そうもいかない。隼人のいる場所へは飛行機を二本乗り継がなきゃいけなくて。片道だけで約一日かかってしまう。それに……。


「下手に美穂に会ったら、日本に帰りたくなって逆に辛くなるから」


 出張前にそう語った隼人の言葉を忘れられない。私に会う事で逆に仕事に集中出来なくなるのなら、会わない方がいいのかな。そう思う。思うくせに、不安にもなる。


 私と会わない間に誰かと浮気してるかもしれない。もしそのまま帰ってこなくて、現地の人と結婚をしたら、どうしよう。「絶対無い」って言いきれないのが辛いんだ。だって、私のいないところで何をしてるかなんてわからないもの。元カレもそうやって裏切っていたから、余計に怖い。





 隼人がいなくなって八ヶ月が経つと、仕事以外は家に閉じこもるようになった。隼人がいない外の世界には興味がなくて、隼人への寂しさのせいか仕事の能率ばかりが上がっていく。残業は大歓迎だった、自由な時間は余計なことを考えてしまうから逆に辛かった。


 チャットでは、元気に暮らしているフリをした。淋しくて生きる気力すら無くしかけてる、なんてとても言えなくて。言ったらきっと、隼人は心配して連絡をくれると思う。でも私に気を使わせることは、隼人の出世を遠ざけることにも繋がってしまう。


 隼人との思い出は意外と短かったのだと、今頃になってようやく気づいた。振り返ろうにも思い出は限られていて、一日数時間で全てを思い出せるほど。大切な人のはずなのに、こんなにも思い出が少ない。それが私をさらに苦しめる。


 もう少し早くこの気持ちに素直になれていたら、もう少し長くそばにいれたのかな。私が恋愛感情に気付いていたら、恐れずにいたら。隼人は今頃、私の家族になっていたのかな。考えても意味の無いことばかりを考えて、その度に落ち込んで、本当に情けないと思う。


 隼人に海外出張を勧めた時は知らなかった。好きな人と離れ離れになることがこんなに辛かったなんて。私がこんなにも、隼人のことを愛おしく思っていたなんて。それを知ってたら私は、あんな選択しなかった。転勤してでもいいから、一緒に暮らす道を選んでいたのに。



 休日は家に引きこもって掃除ばかりをする。掃除をし過ぎてホコリも汚れも存在しないのに、それでも掃除をしてしまう。何もしないよりはその方が気が紛れるから。


 洗剤の匂いも消毒液の匂いも、洗ったばかりの洗濯物や食器の匂いも。洗う前の選択物の匂いや市販の香水の匂いですら、隼人から香るあの甘くて爽やかな匂いにはかなわなかった。もう一度あの匂いを嗅いで、その温もりを全身で堪能したい。後悔ばかりが積み重なっていく。


 せっかくの休日だけどすることもなく掃除をしていた時だった。部屋着のポケットに入れていたスマホが振動する。掃除の手を止めてスマホを見ればそこには、メッセージアプリのポップアップが出ていた。


「美穂、元気? あのあとどうなったの? まさかまた私を仲間はずれにしてるわけじゃないよね? これを見たら即返信すること!」


 送信してきたのは私の幼馴染、愛未まなみだった。

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