恋愛の向こう側

 ストーカー規制法の話は、隼人はやとが教えてくれたことだった。私は宏光ひろみつのしていることがストーカーの一歩手前の段階だなんて思わなかったし、警察に相談するほどのことでもないなって考えてたから。


 それに、本当は警察の話を持ち出すのは最終手段の予定だった。隼人と付き合ってるフリをすれば諦めてくれると思ってたの。だから、宏光が私のことを探してるなんて夢にも思わなかったんだ。


 隼人と一緒に帰っていてよかった。そう、心から思う。もし私が一人で宏光と会っていたらきっと、怖かったり感情的になったりして何も言い返せなくなってたはずだから。隼人はこうなることを見越して、一緒に帰ってくれてたんだ。心の中でとはいえ馬鹿にしてごめんなさい。


「宏光さん、でしたっけ。あなたは、美穂みほの気持ちを考えたことがありますか? 元カレから別れを告げられて受け入れたのに、今度はやり直しを迫られ、連絡を拒否しても無視され……。少しでも美穂を大切に思っていたのなら、どうかこれ以上は苦しませないでください」


 隼人が私に続けて言葉を紡いだ。いつもより低いトーンだからなのか、敬語で話しているからなのか。隼人の言葉は冷たく、どこか事務的に聞こえる。


 宏光はどんな顔をしてるんだろう。空を見上げるのをやめて視線を正面に動かす。そこには項垂うなだれた宏光の姿があった。さっきまでスマホ越しに叫んだりしてたのに、その迫力がない。人ってこんなに急にしおらしくなるものだっけ。


 顔を正面に向けただけなのに、にじんでいた視界が少しだけ晴れる。代わりに頬を温かな何かが伝った。零れないようにと必死に堪えていた涙が、顔を動かした拍子に目から溢れたみたい。


 強くいなきゃ。そう言い聞かせていたはずなのに抵抗出来なくて。泣いちゃダメだ。そう言い聞かせていたはずなのに、一粒こぼれ落ちたらもう、涙を抑えられない。こんなに涙脆もろくなったのはきっと、隼人の前だからだ。


「ごめん。美穂の気持ち、考えてなかった。そんなに苦しませてるなんて思わなかった。俺はただ、お前と会わなくなって、寂しくなって、それで……」


 考えてなかった。その言葉が、私の心を深くえぐる。宏光の気持ちはわかっていたつもりだけど、改めて言われるとやっぱり傷つくな。やっぱり宏光は、私欲のためだけに復縁を求めていたんだね。


 私のことを考えていない。その言葉で、宏光の心が私にないことがわかる。宏光の私への愛情はもう、消えているんだよね。そもそも、私に少しでも愛情があったなら、浮気相手を妊娠させたりなんてしないか。逆に、よくその状態で私に復縁を迫ってたなとは思うけど。


 もう会わなくていいよ、顔も見たくない。妊娠させた浮気相手と幸せになればいいじゃない。惰性だせいで付き合ったところで互いに後悔するだけ。終わりが見えてる。どうしてそんな簡単なことがわからないんだろう。


「別れよう。もう、連絡を取るのはやめようよ。私、宏光のこと、ブロックするから」

「美穂……」

「互いのことを思わなくなった、愛せなくなった。なら、情に流されて無理に付き合う必要もないでしょ? 私と宏光はがなかったってことにしよ」


 私の言葉に、宏光は小さく首を縦に振る。そして、私と隼人に一礼してからその場をあとにする。その背中はどこか寂しげに揺れる。これが、宏光を見た最後の日になった――。





 宏光と過ごした日々は四年と長い。社会人になってから初めて出来た彼氏が宏光だった。四年も付き合って、互いの良いところだけじゃなくて悪いところも見えるようになって。そんな日々に幸せを感じていた昔が懐かしい。


 社会人だから、あまり会えなくて。宏光の「忙しい」の言葉を疑わなかった。今思えばあれは、浮気相手に会うための口実だったんだろうな。そして私に隠れてで自分の欲を満たした結果、浮気相手を妊娠させてしまった、と。


 どうして別れてから別の人と付き合うってことが出来ないんだろう。隠れて浮気するならせめて、もう少しうまく隠してくれればいいじゃない。欲を満たすにしたってもう少し、やりようがあったんじゃないかな。


 宏光が私を愛していたのはきっと最初の一年だけなんだ。そして私が宏光に対して冷め始めたのはきっと、別れを切り出されるより前の話なんだ。私達二人は気付かないうちに、限界を迎えていたんだよ。こんな形だけど、それを知ることが出来てよかった。今はそう思う。


「美穂さん、大丈夫?」


 無言になった私を心配して、なのかな。隼人が私の背中を優しく撫でてくれる。でもあなたの紡ぐ優しい音が、私をこんなにも弱くする。あなたの前では、感情を制御することが出来なくなるの。


 今の幸せもまた壊れてしまうのかな。一度でも幸せが壊れてしまうと、二回目以降を恐れるようになる。隼人もいつか宏光みたいに、私の元から離れてしまうのかな。


 いつか離れてしまうなら、壊れて苦しむくらいなら。私は一人でいいよ。もう誰かに裏切られるのも、別れる別れないで苦しむのも嫌だ。いつか別れてしまうなら、この恋におぼれてしまう前に――。


「怖い? 怖いよね。大丈夫。俺は、転勤とかしない限りそばにいる。美穂さんが怖いなら友達として、これからも関わっていきたい」


 隼人に別れを告げようとしたら、優しい言葉をかけられる。そんな言葉、言わないでよ。今優しい言葉をかけられたら、別れを切り出せなくなるじゃない。もう恋愛で苦しみたくないのに、隼人に恋してしまいたくなる。そんな臆病な心が、ただただ憎い。


 宏光のことがあって、隼人と話して、自覚してしまった。私が隼人に感じていたこの胸の高鳴りは恋なんだって。自覚すると同時に怖くなる。もう二十代後半。ここで恋愛してまた失敗したら、あとが無い。


 ここまで考えてハッとする。そうか、私が怖いのは「恋愛すること」じゃなくて、「恋愛の先にある失恋」なんだ。愛を求められるのを恐れていたのは、その愛がいつか壊れると思っているからで。隼人との今の関係性が壊れることを恐れているんだ。

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