第40話 黒猫と目覚めと羞恥心






 黒猫が胸の奥底に燻っていていた『宮崎珠希』としての気持ちを吐き出し、疲れてそのまま寝落ちしてしまった次の日の朝の事。


 既に日が昇ってから時間が経ち、やや暑さを感じる日差しと、窓から入り込む涼やかな潮風がカーテンを揺らしながら入り込むホテルの一室。



「ぬおおおおおおお………………恥ずかしい………………死んでしまう…………恥ずか死んでしまう…………」



 黒猫は、そんな異国情緒溢れる目覚めも意に返さず、ベットルームに引き籠っていていた。


 思い返すは昨晩の出来事。あの夜、情緒が不安定となっていた黒猫は恥も外聞も捨ててクロエに泣きついた結果、気持ちの整理が付き、かなり気が楽にはなった。


 だが、代わりに羞恥心に苛まれてしまいベットの上で悶えていた。


「なんで、わた……吾輩はあんな事をしてしまったのだ。わーにゃー泣き喚いて女性に抱きついてしまうなど……」


 黒猫は今、布団の中で正座のままお辞儀をしたような格好で丸まっている。そして顔だけ布団から出し昨晩の記憶を振り払おうと耳をピコピコさせながら頭を何度も振るものの、延々とフラッシュバックしてしまい益々、顔を赤らめていた。


「クロエは悪くない、本当にまったく悪くないのであるが……うむぅぅ……何なのだコレは!いったいどうすれば良いというのだ!」


 黒猫は掛け布団の端を両手で掴み頭を覆って唸り声を上げる。だが、その分布団は持ち上げられ下半身が丸見になってしまっていた。


 その姿は、まさしく頭隠して尻隠さず。二本の尻尾はグネグネと縦横無尽にのたうち回り、かと思えばピーンと逆立てた後、マットレスを力なくペシペシと何度も殴打している姿は、いささか滑稽であった。


「煙草に頼るか?いや、だが、昨日の失態にはアレが大きく関わっている。出来れば控えたい。それに、この程度の羞恥心も乗り越えられぬようではいよいよクロエに笑われるかもしれぬ…………」


 黒猫は煙草の危険性をきちんと理解していた。情緒不安定となった理由は短期間で何度も服用したことによる過剰摂取。大元の原因を解決せずに、気持ちを奥底に全てしまい込んでいた事により、煙草の作用が切れて一気に溢れ出てしまった事だ。

 とは言え悪い物ではない、実際その場しのぎにはかなり役に立ち、この煙草に救われた事もあった。煙草自体は悪くない、悪かったのは使用方法だと、黒猫はそう結論づけたのだ。


「過ぎたるは猶及ばざるが如しか、意識して使用せねば、あのような失態は二度と起こさぬ…………!」


 黒猫が失敗から新たな決意を固めているその時だった。寝室にコンコンコンコンっ小気味のいいノック音が響いた。


「シャルル様、起きていらっしゃいますか?」

「にゃい!?」


 意識外から突然クロエに声を掛けられ柄でもない悲鳴を上げ元々真っ赤だった顔を更に赤くさせてしまう黒猫。

 流石にまだ顔を合わせるには気分が落ち着いておらず、黒猫は必至で声を作り返事をした。


「…………あ、ああ。すまぬがクロエよ、吾輩はもう少し寝ていたい。眠気が醒めれば直ぐに起きるゆえ、もう少し放っておいてはくれぬだろうか?」

「…………はい、わかりました。では、近くで待機しておきますので、ご用意が出来れば呼んでください」

「え、いや、吾輩は一人で起きれるが…………いや、そうさな、わかった」

「はい、では失礼させていただきます」



 適当な理由を造ってクロエとの対面を防いだ黒猫は何とか心を凪いだ状態に出来ないか試行錯誤した。気分の切り替えは元々黒猫の得意技の一つだ。

 ここまで追い詰められても必要に駆られれば出来ないことも無い。

 だが、そんな黒猫でも羞恥心を抑え込むのは難しく、結局クロエを呼んだのはここから四十分ほど経ってからになってしまったのであった。



 ー-------



「…………よし、もう大丈夫だ」


 心が落ち着いた黒猫は布団から這い出て、マットレスの端に腰かけ脚を組むと、コホンとわざとらしいため息を吐いてクロエを呼んだ。


「…………クロエよ…………その、入ってきてもよいぞ」

「…………はい」



 クロエは本当に近くで待機していたらしく黒猫の呼びかけに直ぐに答え部屋の前まできた。


「失礼します」


 部屋に入ってきたクロエは、黒猫の様子を見るなり優しく微笑みかけ傍に歩み寄った。黒猫は彼女の顔を見た瞬間に昨日の出来事を鮮明に思いだし気恥ずかしさから顔を逸らしたくなる衝動に駆られたが、何とかその衝動に打ち勝ち、笑みを返して朝の挨拶をする。


「おはようクロエ、爽やかな朝であるな」

「おはようございます、ご気分はどうですか?」

「気分か?そうさな、気分は悪くない、体の疲れも精神的な疲れもとれておる。ぐっすりと眠った御蔭で調子は良いな」


 黒猫は立ち上がると二歩前に進みその場で体のコリを解すかのように伸びをした。その際に黒猫は今の自分の格好に初めて意識が行った。

 着ていたはずの軍服が脱がされ、ネクタイは無くシャツの第二ボタンまで開けられ鎖骨が見えていた。スラックスは穿いたままだが、ベルトは外されている。寝る前に誰かに脱がされたのか、そもそも誰が自分をこの寝室まで運んだのだろうか、その考えにいたった黒猫はクロエに質問を投げた。


「なあ、クロエよ。吾輩をこの部屋まで運んだのは君か?」

「…………はい、私が寝室まで運ばせていただきました。」

「アトスでは無いのだな?」

「はい、アトス様は夜遅くまで応接間でアドリアーナ様と話し込んでいらっしゃいました。先ほどリビングでお会いしましたが、昨夜の出来事には気づいていないご様子でしたよ?」

「そうか、それはよかった」


 黒猫はホッと安堵のため息を吐いた。アトスにあの醜態は見られなくてよかったとそう思ったからだ。

 昨日はたまたま黒猫の優しく傷付きやすい部分が表に出て今の性格が陰に隠れてしまっていただけだ。

 アトスの前ではこれからも強く逞しい主君としてありたい、ゆえにこの情報は黒猫にとって救いでもあった。


「それと、吾輩が着ていた服を知らぬか?いつの間にやら脱がされておったのだが……」

「申し訳ございません、シャルル様。昨日この部屋に運んだ際に少し息苦しそうなご様子でしたで、私の判断で上着、ネクタイ、ベルトを外させていただきました。衣類はそこのテーブルの上に畳んで置いております」


 クロエはそう言ってテーブルを平手で指した。そこには確かに黒猫お気に入りの軍服が綺麗な状態で畳んで置いてある。


「いや、確かにそのままでは息苦しくて敵わんかったかもしれぬ、ありがとう」

「いえ、礼を言われるほどのものではありません」

「そうか…………」


 そして、黒猫は覚悟を決めた表情で深く呼吸し、小さく「よし」と呟くと、クロエの正面に立った。

 そしてクロエの瞳を真っ直ぐ見て腰に手を当て、少し俯きがちになりながら笑みをつくり自分の正直な思いを告げた。


「えっと…………そ、のだな、昨日はすまなかった。あんな見苦しいさまを見せてしまって………まだまだ未熟な主かもしれぬが、できればこれからも吾輩の傍に居てくれると……そして、もう少しラフな感じで接してくれると……う、嬉しいのであるが…………構わぬであるか?……………」


 本人としては格好つけているつもりのようだが、顔は真っ赤なうえ耳は激しく動き、尻尾は落ち着き無くうねりまくっている。やや締まらない形になってしまってはいるが、クロエも言わぬが花と思ったのだろう。指摘するなんて野暮なことはせず、黒猫の想いに温かな微笑みで返した。


「シャルル様を見苦しいなんて思っておりませんよ。それにわたしこそ至らない事も多々ありますが、よろしくお願いいた…………いえ、よろしくお願いしますね?」


「う、うむよろしく頼む!君がいれば心強いからな」


 クロエの返答に黒猫は安心したのか、晴れ晴れとした表情をうかべて黒猫はクロエの手も握り顔を近づける。その距離は正に鼻と鼻が付きそうな程に近づいており、女性との距離感に関しては何も学んでいなかった。


「シャ、シャルル様!?」


 そして、クロエは先ほどまでの余裕のある態度から一変し、なんと慌てふためきはじめた。実は黒猫を抱きしめたあの時、彼女は内心必死だったのだ。目の前で力無く泣き出す黒猫を救わんとした結果、あのような大胆な行動に出る事ができたが、本来のクロエはシャイで自分からは口をあまり開かない静かな人物だ。


 泣き崩れた黒猫は幼子をあやす様に接する事が出来たが、今の元気を取り戻した黒猫はあまりにも煌めく美しさに溢れており、手から感じる温かさ、チラリと見える鎖骨、その天真爛漫な雰囲気も返って蠱惑的にも感じてしまいクロエは黒猫と入れ替わる様に顔を真っ赤に染めてしまう。


「あ、あの、す、すこし近いです…………」

「うむ、そうか?っははは!まぁそう遠慮するでないわ!」

「ええ!?」



 すっかり関係が元の位置に戻ってしまった両者。困惑したものの、黒猫の元気な様子にホッとしたクロエだっただが、その時、彼女はある聞きたかった事を思い出した。



「あ!…………あの、シャルル様、一つ質問をよろしいですか?」

「む?なんであるか?何でも好きに聞くがよい」


 それは、黒猫の持つ煙草の事。あの煙草を何処で手に入れたのか、誰が作ったのか、何が含まれているのかを彼女は気になっていていのだ。


 ここで聞くしかない。クロエはそう思い口を開いた。だが——————



「あの………………」



 —————————その瞬間だった。



「あれ…………?」


 クロエの意識と視界が一瞬、真っ白になり、明転した意識が戻った瞬間には自分がいったい何を黒猫に聞きたかったのか忘れて口を開いたまま固まってしまった。


「……………………あれ?」


 自分は何を危惧していたのだろう。クロエは頭からその疑問をひねり出そうとするも出てこない。そもそも先ほどまで本当に胸騒ぎなど感じていたのか疑問に感じる程だった。


 ただ、そんな中でも何となく煙草が気になる事だけは思いだした。エルフの里も人間の国々も煙草は嗜好品として広く流通している。そして、それが健康的な害がある事はエルフの里ではある程度知られた事でもあった。

 だから、自分が気にしたのは黒猫の健康に関する事だろう。いくら黒猫が『森の王』、超常的な存在だからとはいえ害がない可能性は否めない。そう自然と結論付けたクロエは、口を開けて固まってしまった自分を不思議そう見ている黒猫に笑みを返して言葉をつづける。


「———ああ、いえ、あの、参考程度で構わないのですが煙草は控えた方がよろしいと思います。シャルル様がいくら魔物、人間とは根本的に肉体強度が違うといえ害がないともかぎりませんから…………」


「むぅ………ああ、そうだな。その通りだと先ほど骨身に沁みたところである」


 黒猫は腕を組んでフンッと恥ずかしそうに視線を逸らす。クロエは黒猫の姿をみて思わず笑ってしまい。クロエの笑う姿をみた黒猫をまた同じように笑顔を作って、二人は顔を見合わせ笑い合うのでだった。



 こうして黒猫はいつもの勇ましさを取り戻したのであった。
























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