36.十月十八日

 骨盤と背骨が砕けていた。本来クッションとなるはずの筋肉も脂肪も僕にはなく、乱暴な靴先は骨を砕いた。鎮痛のため麻酔を打たれ、いよいよ本当に麻痺した思考で白いベッドに寝かされていた。

 手術が必要だと聞かされた。骨がくっつくまで寝たきりでいるように言われ、仰向けのまま承諾書にサインする。故の字はもはや僕そのものとして相応しく、何の気後れもなかった。

 五日後に日本を発つと言った安蘭。今、あれから何日経ったのだろう。看護士が身の回りの世話をしてくれる。そういう意味で安蘭が必要な訳ではなかったが、ただ逢いたかった。彼女のことだから、時間さえあれば無理にでも逢いに来てくれるだろうが……。

 そんな事を考えながら麻酔オピオイドに身を任せ、日がな微睡んで過ごしていた。


 誰かがパイプ椅子を持ちこむ音がする。看護士かと思って僕は眠ったままでいた。

「陽石さん」

 意識を晴らす呼び声。真紅の気配。

 目を開けると、枕元に安蘭が居た。

「渡航をおくらせたよ。手術が終わるまでそばにいるから」

 安蘭が微笑む。僕も微笑み返した。そこで安心してまた眠ってしまった。

 微睡まどろみの中で考えていた。安蘭が行ってしまう。僕を買い取ると言った安蘭が。この身体で海外についていくなんて無理だ。僕はやはり、孤独になってしまうのだろうか。ハサミでねじ切るように胸が痛んだ。

 食事が運ばれてきて、看護士に起こされた。看護士が箸を持つ。すると、安蘭は自分がやると言って退けた。

 寝たきりの僕の口元へ食事を運ぶ安蘭。しかし魚も白米も箸先から滑って落ちるばかりだ。ほとんど舌まで届かない。余りにも稚拙な手つきに、僕の頬や胸元は汚れていった。安蘭は焦っている。

「ごめんね」

「いいえ」

 本当に気にしていなかった。安蘭の意外な一面が見られて嬉しかった。芸術家をしているくらいだ、手先は器用で何でも出来ると思っていた。

 箸の先が僕の歪んだ唇を突く。

 安蘭は食事をこぼしたり僕の口に落としたりしながら、事の顛末を簡潔に話してくれた。暴漢が銃で脅してきたから隙を見て奪って反撃した、という筋書きを「作ってくれたの」だと言う。皆まで聞かなかった。安蘭は護られる人間で、守られるべき人間だ。誰がどんな手段を用いようと不思議ではない。僕は手術が終わったら警察の用意したいくつかの質問に答え、書類に名前を書くだけで良いらしい。

「ねえ陽石さん、このまえ話が途中になってしまったけれど」

 やり直しを繰り返し液状になった杏仁豆腐をスプーンに乗せ、床に滴らせながら安蘭は言う。

「私、貴男を愛していると思うの。でもそれは恋のさきにある愛ではないと思う。貴男は耐えようもなく魅力的だけれど、セックスしたい、家庭をつくりたいって望みとはちがうんだ。そばにいたいのは確かだけれど、すこし違う。それに」

 杏仁豆腐の、ココナツの香りが舌に乗る。白く濁った甘い汁が僕の頬を伝う。それを指先で拭いながら安蘭は続けた。

「貴男は私を芸術家にしたけれど、私に芸術家でいることを求めなかった。私がどんな作品をつくるか、たずねたことすらなかった。貴男のまえでは私、酒匂 安蘭じゃなくて、アラン・クラークでいられるの」

「クラーク?」

「酒匂にひきとられる前の名前よ」

 スプーンの柄を紙で拭いながら、安蘭は微笑んだ。そういえば安蘭は両親に捨てられ、施設で育ったのだっけ。

 安蘭が杏仁豆腐に添えられたクコの実をすくう。

「私を愛してくれた人たちは、一人のこらず私が才能をもつから愛していた。特別な私を愛していた。でも貴男だけは違ったの。私、ただのアランと向きあってくれた。嬉しかったし、そうしてくれる貴男をもっと知りたかったし護りたかった。一生このつながりを深めていきたいと焦がれた」

 僕に彼女の気持ちは分からない。僕は生まれてこのかた、特別だった事などなかった。特別な者として愛されてみたいと思っていた。そして安蘭は僕を。

「特別。貴男は特別よ。でもこの気持ちをあらわす他の言葉を知らないの。だから……私、貴男を愛しているわ」

 僕らの関係、確かに恋とは違う気がする。でも僕には安蘭と性的に交わりたい気持ちがあった。家庭を営む一人前の男になり、安蘭を守ることに憧れがあった。やはり僕に安蘭の気持ちは分からない。

 安蘭は『創る者』だ。社会的規範からも倫理からも逸脱して、新しい関係のカタチを生み出そうと、不思議ではない。

 クコの実が僕の口に滑り込む。嘔吐の毒が喉を下る。それは吐露の毒にもなり得るだろうか。考えながら、僕は告げた。

「僕も安蘭さんを愛してると思います」

 確信を濁す。

 安蘭は曼珠沙華色に笑った。

「やっと言ってくれた」

 それはそれは奇妙な関係だろう。葉もなく咲き乱れ、根があるから種をつける必要もないのに、茎はしたたかに空へのび、天辺で腕を広げ、深紅の愛が踊り狂う。枯れることなく殖えながら、大地を赤く埋め尽くす。

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