31.十月十日、深夜、血

 ナビに案内されたのはごくごく普通のビジネスホテルだった。それでもみすぼらしい服を恥ずかしく思い、カウンターを遠巻きにしていた。安蘭にチェックインを任せる。

「一部屋?」

「申し訳ございません、満室でして……」

「二部屋で電話したはずよね?」

「こちらの手違いで、片方は入室済みでして……大変申し訳ないのですが」

 クラークの平謝りに絶句する安蘭。僕はもう既に全身が緊張していた。

 安蘭はひとつのキーを手に僕の元へ戻ってきた。言葉少なに目を逸らしている。

 エレベーターに乗り、部屋へ向かう間、ずっと気まずい沈黙が続いていた。

 401のプレート、そのノブに鍵が差し込まれる。がちりと重い音。

 少し煙草の匂いが残る、黄ばんだ壁紙。枕が二つのベッド。僕の墓より一回り狭い。

 安蘭は壁のハンガーを取り、コートをかけた。僕はどうしようもなくドアの前に立っていた。二人で動けば肩が触れてしまうくらいには狭い。陳腐なランプシェードから暖色の光が漏れている。

 僕はユニットバスへ行き、洗面台で薬を飲んだ。口元を拭いながら安蘭に言う。

「あー、安蘭さん、ベッド使ってください。僕は床で寝るんで」

 精一杯の気遣いのつもりだった。安蘭は困ったように笑い、僕を見た。

「いいわ。貴男がベッドつかって」

「女性を床で寝せる訳には……」

「私は寝ないからいいわ。ここでいい」

 安蘭はドレッサーの椅子に腰かけた。長い脚が組まれる。

 そっか。安蘭が人前で眠れないこと、やっと思い出した。同時に、無駄な緊張を抱いていた事に罪悪感を覚える。安蘭の気まずげな笑みは、そんな穢れた物ではなかったのだ。

 僕は何度も謝りながら靴を脱ぎ、ベッドで横になる。こっちも少し煙草の匂いが染み付いていた。顔を傾ければ、ドレッサーの鏡に映った安蘭の表情も見られるだろう。安蘭はドレッサー前の小さな手許灯を残し、部屋を暗くした。

 薄闇に包まれると、とろみのある眠気が降ってきた。なんだかんだで疲れていたらしい。僕は天井の方を向いたまま、ゆっくり瞼を閉じていく。

「私シャワーあびるね。うるさかったら、ごめんなさい。おやすみなさい」

 瞼が開いた。

 安蘭はベッドの傍に置いてあったバスローブとタオルを取り、ユニットバスへ入っていった。止まっては流れる水音。それを聞きながら僕は天井を凝視していた。少しだけ安蘭の鼻歌が聞こえる。知らない曲だ。日本語の歌ではないのかもしれない。音と天井に意識を集中することで、扉の足元に覗けそうな隙間があった事を思い出さないようにしていた。

 しかし、やはり、ほんの少しだけ。

 ベッドが軋まぬよう、ゆるり起きる。靴は履かず、カーペットに素足で降りた。忍び足で、息を潜め、ゆっくりと扉に近付く。板一枚向こうに全神経を集中させた。シャワーの音は続いている。僕はそうっと屈んだ。そうでもせねば関節が金属音を立ててしまうかのように。

 頭を横にし、扉の隙間に目を凝らす。

 存外近くに安蘭の足があった。シャワーを出しっぱなしで鏡を使っているらしい。薄い、白い足。くびれた足首からのびる、細いすね。見えているのはそれだけだ。なのに心臓が潰れそうなくらい早く鳴っていた。

 と、足首にカミソリが当てられた。顔から血の気が引く。

 カミソリはそのまま真上へ引かれた。なんだ、毛を剃っているだけか。その刃が真横に動くかと思った。そんな事に肝を冷やした自分が馬鹿馬鹿しい。自傷趣味など、よりにもよって安蘭にあるはずもない。

 安蘭が鏡の前を離れ、僕もベッドに戻った。

 やがてしばらくの静寂があり、浴室のドアが開いた。僕の眼が自然と安蘭の方へ吸い寄せられる。バスローブ一枚の湿った身体。少し上気した首筋に張り付く、濡れた金髪。湯を含んだそれは透き通り、電灯の光を貴金属顔負けに乱反射していた。

 安蘭はエアコンのリモコンを取り、風を強めた。髪を乾かそうという魂胆らしい。

 身体を起こせば触れられる距離の安蘭。そんなの墓にいる時も同じなのに、湯上りというだけで、何故こうも蠱惑的なのだろう。いつもは宝石か花のように冷たい美である彼女。でも今は暖かそうだ。抱きしめたらどうだろうか。身体の芯まで温めてくれるのではないだろうか。思いつきが胸を巡る。悶々と。

 清潔に禊がれたその肌に、僕の穢れで触れたらどうなるだろう。ざわり、ざわり。全身の血が熱を帯びていく。

 僕は半ば無意識に、小さな声で呼びかけた。

「安蘭さん……」

 安蘭が鏡を使ってこちらを見る。桜色の頬。無防備な瞳。

「あら? ごめんなさい、眩しいよね」

 安蘭は手許灯を消した。

 ふっと光が消え去り、灯りはカーテンの隙間から漏れ入る街灯だけとなった。モノトーンに落ちる室内。安蘭の綺麗な勘違いに、僕は妙な安心を抱く。

 それでもしばらくは寝つけずに天井や壁、そして安蘭を見ていた。安蘭は最初こそ携帯をいじったり、手帳に何か書きつけていたが、それも飽きたのだろうか。ぼんやり頬杖をついて、船をこぎ始めた。無理もない。何時間も独りで運転したのだ。その様子を眺めるうち、僕にも再び眠気が降りる。

 瞼を閉じると、だんだんと深く、意識がベッドへ呑まれていった。


「ぎいやあああああああああああああ!」

 絶叫で目を醒ます。何の夢を見ていただろう。思い出そうとする僕の耳に、二度目の悲鳴が響く。

「ああああああ! やだ! やめてええええええええええ!」

 僕の声ではない。僕は顔を傾けた。蕎麦殻の枕がザリリと鳴る。

「あああ! ああああ! ごめんなさああああい!」

 絶叫しているのは安蘭だった。今まで聞いたこともない、獣のような声。ドレッサーの下にもぐり、頭を抱えてうずくまっている。

「いやあああああ」

「安蘭さん? 安」

「ごめんなさああああい!」

 僕の声をも拒絶し、安蘭は血を吐くように叫び続ける。僕はベッドから起きた。

「やだやだやだやだ! 来ないで来ないで! ごめんなさいごめんなさい!」

「安蘭さん、僕です、陽石ですよ」

 もう何も聞こえていないようだった。怯え縮こまり力の限り叫んでいる。言葉は徐々に英語交じりになり、ついには何を言っているか分からなくなってきた。マニキュアの塗られた長い爪が腕に食いこみ、今にも肌を裂きそうだ。

「ぎいいあああああああ!」

「安蘭さん……」

 当惑し、部屋を見渡す。ソーイングセットが目にとまった。備えつけの簡素なアメニティ。僕はそれを手に取る。

「ああああああ! あああああ」

 僕はライトを灯した。

「安蘭さん、安蘭さ――安蘭! 見て!」

 安蘭の前に屈みこみ、そして小さなハサミで腕を切る。

 ばつん。

 カッターとは違う、つねる感じを伴った痛みが巡り、全身を打つ。僕は吐息と共に膝をついた。目眩を覚えながら、安蘭に切り口をかかげて見せる。

「ほら」

 安蘭の悲鳴は止まっていた。カフェオレ色の瞳と、広がり切った瞳孔が僕の腕を凝視している。

 どす黒い僕の血が肘へ流れ、滴り、安蘭の足に落ちる。その瞬間に広がる王冠状の飛沫、ミルククラウンならぬ深紅のブラッド・クラウンはまるで曼珠沙華だ。咲いては散る。咲いては散る。咲いては跳んで香ってく。

「……陽石、さん?」

「悪い夢でも見ましたか?」

 僕は微笑んだ。上手く微笑めたかは分からない。目眩がしていた。今までに無いほどの血が流れている。もろに血管を切ってしまっただろうか。

 安蘭は強張っていた腕を解き、力なく床に下ろした。僕を見上げる瞳から恐怖は消えている。はだけそうなバスローブ。腕に残った爪の痕。

 安蘭の目に涙がたまっていた。何度も瞬きを繰り返し、その目は真っ赤に充血していく。

「ごめんなさい……。寝ているあいだに誰かがそばに来るなんて、それこそ殴るか無理矢理」

「言わなくて良いです。言わなくて大丈夫ですから」

「ごめんなさい……」

 消えてしまいそうな懺悔。

 いつだか安蘭は「自分は幸せだ」と言っていた。両親に捨てられたけれど色々な人に愛されて育ち、幸せだったと。それは本当なのだろうか。

 僕にはもう何もない。けれど、だからこそ、安蘭の孤独を預かれないだろうかと思った。その気持ちを言葉にしようかと、迷いに迷い、でも僕は黙っていた。何もかも炎に包まれ燃えてしまったように、安蘭もいつか僕の元を離れ消えてしまいそうで怖かった。近しくなりすぎるのが怖かった。

 安蘭の細い足首に、僕の血が飛び散っている。ドレッサーの下の安蘭。その縁の僕。今より近づいてしまったら、後戻りできなくなる気がした。何もない僕の最後の最後に残った形ない何かが、跡形もなく砕け散るような、そんな恐れが膨らんでいた。

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