16.九月十五日、墜落

 大学前のビルで僕は空を仰ぐ。数日続いた曇天はいよいよ重く、雨の匂いがし始めていた。僕は大きく深呼吸しながら、通勤で上がった息を整える。

 昨晩はあの後どうしようもなく、瓶が空になるまでひたすら焼酎を飲み下した。風邪気味の上にそうして負担をかけたのがよくなかっただろうか。喘息の調子が悪くなり、呼吸が苦しくてよく眠れなかった。タオルで拭った壁にもたれて、微睡みながら昼までを過ごしていた。今夕は病院へ行った方がいいかもしれない。

 盗聴器は処遇に困ったので机の上へ置いてきた。吐き捨てた孤独を、孤立を、塗り替えていく強烈な熱。僕の全てを知ろうとする熱。もしかしたら監視カメラなどもあるのかもしれない。嫌悪感は無かった。むず痒い高揚が胸を掻いて、喘息と見分けがつかない。

 雑居ビルの階段を上りながら、なんとか頭を仕事モードに切りかえる。

 タイムカードを差していると、社長が僕の肩に手を乗せた。

「陽石くん、ありがとう。酒匂先生からご連絡を頂いたよ。間もなくコラボ製品のプロジェクトに着手する。本当にありがとう」

 社長の笑顔はいつになく上機嫌だ。僕まで嬉しくなって、はにかむ。

「お役に立てて嬉しいです。あの、安蘭……酒匂 安蘭さんってそんなにすごいんですか?」

「凄いどころの騒ぎじゃないよ。酒匂先生は天才だ」

 社長は鼻歌混じりに僕から離れ、コーヒーメーカーに水を入れた。社員全員と僕のマグを並べながら、揚々と安蘭の武勇伝を語る。

「酒匂先生の絵やオブジェを置いた建物は、来客が迷わない。掲示がなくとも順路通りに動いていく。不思議な話だろう? 先生は空間と時間の流れを変えるんだ。人の視線の動き、認知の組み立てかたを神のレベルで知っているとすら言われているよ」

「神のレベルで……」

 新聞記事に踊る安蘭のドレス姿が思い出された。モノクロの記事だったが、真紅のドレスだったに違いない。

 神に愛され、神の眼を持って生まれるのはどんな気分だろう。それによって全ての人間に愛され、賞賛され、必要とされ崇められるのはどんな気持だろう。安蘭には美貌も金もある。

 一方僕には、何もない。

 燻した豆の黒い香りが舞いあがる。僕は咳き込んだ。一滴一滴溜まってゆく淡い毒。社長は続ける。

「そんな先生がスタンドライトをデザインしたらどうなるだろうと思ってね。きっと部屋を変える小さな大作ができるぞ。とても楽しみだ。それにしても紹介だからって、こんな小さいベンチャーの仕事をはした金で受けて貰えるなんてな。陽石君は先生と相当仲が良いんだな」

 僕は答えに困り曖昧に笑った。今となっては満更でもなかった。社長にこれほど喜んでもらえるなら、我慢して食事を重ねた甲斐もある。これからも、正社員になってからも、安蘭と社長の橋渡し役として機能できるだろうか。

 不意に来客のベルが鳴った。社長がインターフォンへ飛んでいく。

 不在になった主に代わり、僕が淹れたて珈琲をマグに分ける。黒褐色が渦巻く。澄みながらも濁って廻る。

「遅れてしまってすみません」

「いいえ、場所が分かりづらくて大変だったでしょう。気にしないでください」

「ありがとうございます。もう分かったので明日からは遅れずに来られるかと」

「階段は大丈夫でしたか」

「ええ、あれくらいなら平気ですよ」

 社長と話す、聞き慣れぬ声。僕は珈琲のポットを置いて振り向く。

「あそこに居るのはバイトの陽石君です。陽石君、こちらのかた、中途採用で今日から入社なんだ。目が不自由だから何かと助けてやってくれ」

 社長の隣でサングラスの男性が丁寧に礼をする。僕も礼を返そうとして、笑顔が固まった。

「陽石君? どうした?」

 犬、だ。男性は盲導犬を連れていた。

 金色の毛のそれは、僕を見て優しげに尾を振る。快適な冷房も虚しく、脂汗が浮いてきた。僕は気を張りつめて自己紹介を済ませる。

 珈琲を手に席へ戻る頃には、胸元がキューキューと異音を立て始めていた。

 処刑の時間が迫る。アレルギー、僕にしか効かない毒が気管を腫らす。呼吸は細くなっていく。咳が増える。恐怖に手が震えていた。

 犬は静かだった。仕事を教わる主の傍に大人しく控えていた。黄金色の従順な希望が、悪気なく僕を追いこんでいく。

 彼らに罪は無い。だからと言って僕にも無い。誰も悪くないのに理不尽な攻撃を受けている。僕は社会にも世界にも愛してもらえない人間なんだ。

 終業の頃にはもう咳すら止まっていた。タイムカードを押しながら、壁の鏡の自分と目が合った。歪な唇が青紫色になっている。社員証をしまう爪も青に染まっていた。

 転びそうになりながら階段を降りていく。一段下がる毎、零点何ミリ気管が狭まっていくような錯覚さえある。視界が薄れていく。

 身体が舞い上がる感覚。僕は最後の三段を諦めて落ちた。

 墜落。

 冷たい床に叩きつけられる。全身から熱が失われ、息は余計に狭まる。キウキウと軋むような音がしていた。もう横隔膜を動かすのさえ苦痛だ。顎を大きく上下して、なんとか呼吸する。

 逆恨みを殺すように、何度でも思う。「彼らに罪は無い」「彼らに罪は無い」陸で溺れる理不尽は誰のせいでもない。

 抵抗もできずただ奪われていく。

 出口の方から水の香りがしていた。霧雨が降っているのだろう。雨のせいかもうろうとした意識のせいか、かすれる世界。

 その果てに真紅のパンプスが現れた。

「陽石さん」

 夢か現か分からない。そういえばこのあと安蘭との約束が有ったなと薄ぼんやり思った。高いヒールがタイルを打つ音が階段中に反響している。雨の気配がする温い風、柔らかな甘い香り。

「陽石さん、救急車をよぶよ。いい?」

 僕は答える事ができなかった。それが何よりのイエスだったと思う。

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