11.九月十一日、昼

 昨日の社長とのやりとりを引きずっていた。

 結局何も解決しなかった。社長の態度を通して、安蘭への畏れが肥大しただけだった。踏み込んだ世界の厄介さはきっと僕の想像を遥かに超えている。怯えた所で今日も今日とて安蘭との約束はある。僕は墓のベッドで微睡まどろみと不安を振り払う。寝汗で霧散した薬の臭いが、部屋を満たしていた。起きてまず全身の皮膚に薬をすりこみ直す。

 着替えて髭を剃りながら、一日の予定を確かめた。午前は集中講義、午後は厨房バイトでそのあと安蘭と夕食、コンビニの夜勤。

 身支度の仕上げにリップクリームを手に取ろう、と、指先が空を掻いた。いつもの場所に無い。机の上、下、探したが円柱の影は見当たらない。何処かへ転がしてしまったか。

 割れかけの唇で溜め息する。まだ使える物を失くすというのは、余り気分が良くない。

 気晴らしのため僕はカッターを取った。

 カッターで腕を切ること、僕自身は別に自傷とか自虐だなんて思っていない。人に言えない趣味を持つ事に対する自嘲ならある。この暑いのに跡を隠す長袖でいねばならぬ、それでも切らねば気が済まぬ辺りが自傷的と言えるかもしれないが、傷を入れる事それ自体の話ではない。僕には自傷と、自慰や鼻を掘る事との違いが分からないのだ。快楽を伴うが人に言ったり見せたりすべき物じゃない、長くしないで居ると不愉快になる、そんな共通点が強すぎる。

 自慰をするように鼻を掘るように、僕は子供の頃から手首を切っていた。いつからかは覚えていない。夕暮れから宵の公園で、生垣の裏の暗がりに息を潜め、百円のカッターナイフで切っていた。この習慣を誰かに教えた事はないし今後も言わないだろう。興信所じゃ調べられない事もあると、安蘭に言った理由のひとつだ。

 今朝は深めに二本の傷を刻んだ。安堵の溜め息。悦楽の余韻。まだ揺らぐ視界と火照った顔、文月の熱で滲んだ汗が傷に染みる。

 僕は血の付いた刃先を安全刃折器に突き立てた。折れた刃がプラスチックの底を叩く。

 違和感。

 僕は刃折器を振ってみた。鈴のように暴れる一枚の刃。

 蓋を開ける。中には鮮血を散らす刃が一枚だけ。一枚だけしか入っていなかった。内側一面、ランダムにこびり付いた赤褐色の線。乾いた血の跡を見ながら僕は考え込む。

 この刃折器は、溜まったら丸ごと捨てるディスポタイプだ。中身だけ不燃物として出すような真似はしない。血染めの金属片など人に見られたくもないから買った訳だし。しかし現に使用済みの刃は忽然と消えている。つい首を捻る。

 どうにも釈然としないが、そろそろ出発しないと。




 消化試合の講義をこなし、そのまま席で昼食を摂っていた。ライトノベル片手にハムサンドを頬張る。

 同級の男が数人、傍の席に移動してきた。

「よお陽石」

「あっ、ああ、はい」

 僕はくぐもった声で返事する。まさか話しかけられるとは思っていなかった。

 彼らはニヤニヤといやらしく笑い、互いに視線を交わしている。獲物を前に舌なめずりするような。僕を遥か格下に見ている目だ。不愉快になってきた。

 案の定、一人から飛び出した言葉は、突かれたくない私事だった。

「陽石さ、語学の酒匂と付き合ってんの?」

 斜め上から野次馬な笑みが注がれている。

 返答を考えていなかったのを後悔した。こう見られるだろうとは思っていた。しかし誰も僕になど興味が無く、尋ねられる事もないだろうと踏んでいた。甘かった。僕に何が無くとも安蘭は有名人だ。

「ただの友達だよ」

 何故かクスクス笑いが広がる。下手な返答だっただろうか。

「酒匂って結婚してるよな?」

 確認するような問いかけ。僕は道化を繕って言う。

「結婚しているみたいだね。相手は僕じゃないですよ。全く、やだなぁ。そんな噂どこから流れてるんです?」

「さあ。学科中、下手したら大学中の噂だけど。不倫してるって」

 背筋が凍る。別な男は言った。

「俺は千葉から聞いたけど? 千葉に相談したんだろ?」

 今度凍ったのは笑顔だった。

 千葉さんは、僕に優しい。ならば、誰にでも優しい。僕に好意を向けるなら誰にだって向ける。そんなの解っていた。解っていたさ。

 僕など居ないかのように、下劣な噂話が飛び交う。胸が冷えていく。

「で、酒匂と陽石はどんなことしてんの?」

 僕はサンドイッチを齧りながら思案する。動揺は去り、思考も感情も冷え切っていた。もし金を握らす瞬間を見たなら、友達など体の良い誤魔化しとしか取れないな。

「分かった。正直に言うよ。僕は酒匂さんに借金しているんだ。酒匂さんは僕を可哀相に思って、会ってはお金を貸してくれているんです」

 一匙の真実を薄めた虚構。決して模範解答ではないが、友達のふりよりはマシだろう。

 案の定、半数は納得顔になる。擦り切れた筆箱や千切れかけた鞄のベルトを見れば、僕の経済状況なんて察せるだろうから。

 残り半数のまだ追及したそうな顔から目を逸らしサンドイッチの残りを口に押しこむ。その圧で唇が少し裂けるのを感じながら、ろくに噛みもせず嚥下した。

「僕はバイトなので。じゃあ」

 嘘ではない。鞄を引っ掴み早足で去る。

 愛人、ヒモ、囲い、援助交際、不倫、等々等々不埒な言葉を孕んだ視線が背中に刺さる。

 違う。僕は違う。僕は自立した男だ。安蘭の持ち物でも、安蘭に依存した関係でもない。

 しかし、じゃあ何なんだと問われると答が出てこない。歯痒い。苛立ちの奥で呼吸が苦しくなってきていた。喘息の気配がする。この胸の鈍痛も喘息のせいに決まっている。




 そのまま厨房のバイト中も咳きこみ続けていた。軽い咳だが、体調不良なのは間違いない。これを理由にさっさと帰らせてもらえないだろうか。そう思いながら調理着を片付け、安蘭との夕食に向かう。

 生ぬるい空気が澱み、重い曇天がビルの屋上に触れそうだ。今夜は雨になるのかもしれない。

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