墜落

10.九月十日

 講義、バイト、安蘭とお茶、バイト、講義、バイト、課題。少し眠ってバイト、講義、講義、食事に呼ばれ、バイト、講義。僕の夏は多忙を極めた。日に日に熱を増していく世界で始終目眩がしていた。春の成績が芳しくなかった為、単位が足りず、夏季休業中も集中講義が沢山入った。家族連れで盛況を極めるファミレスも、インターチェンジの傍にあるコンビニも、人手を求め僕のシフトを増やした。講義で椅子に座っていられただけ、休暇前の方が疲れなかったかも知れない。

 やっと取れた休憩、三件ハシゴ十三時間勤務の隙に僕は机へ突っ伏する。目の前の氏井も多少げんなりしていた。

 M字バーガーで買ったシェイクを啜りながら、氏井が言う。

「先輩、大丈夫ですか。バイト詰めすぎなんじゃないっすか」

「バイトもそうだけどさ、正直、安蘭の相手が……」

 そう、正直に言えば、一番の重労働は安蘭の相手だった。彼女の機嫌を損ねてしまえば酒匂青年から報復がある。そう考えると一挙一動に気を抜けなかった。幸い彼女は始終ご機嫌であったが、不安は拭えない。しかも彼女は僕の余暇を的確に突いてティータイムを入れてくる。忙しいなんて方便は通用しない。きっと安蘭は僕の予定を完璧に知っている。

「警察行ったらどうっすか」

「いや……。今となっては大切な収入源なんだ」

 事有るごとに安蘭は僕の手を取り紙幣を握らせた。僕の所持金は増え、今までじゃ考えられない事だが、貯金も増え始めた。三食きちんと食べられている。購入を諦めていたラノベも全部買えた。報復の怖さと同じくらい、余裕を手放すのが惜しい。

 金銭に余裕があるからこそ、必死に働かなければならない気がしていた。彼女の手が離れた時に焦らぬよう。そして男としてのプライドが萎えぬよう。女性と逢うだけで裕福になっていくこの生活への違和感、嫌悪感、罪悪感が僕を蝕む。曲りなりにも自由で自立していた僕から、力有る物が奪われたようだ。

 安蘭への不信も消えなかった。いつかあの高そうなバッグから水晶球でも取り出し、怪しげな口上を始めるのではないかと、まだ期待していた。

「そもそも僕が女性に好かれるなんておかしいんだ」

 そう、彼女が僕の何にここまで惹かれるのか理解できぬままだった。

 氏井は眠そうな目で首を傾げた。

「実は男とか?」

「いや安蘭は女だよ」

「童貞狩りって言葉もあるみたいっスね。やり手のお姉さまの間で」

「いや、安蘭は処女……のようだ」

「マジすか?」

 夫がそう言っているのだから、そうなのだろう。夫がいるのに純潔というのも訳分からないが。

 僕は溜め息して頬杖をつく。裏切るなら早く裏切って欲しかった。遅効性に僕の自我を侵す存在に、いつか抵抗できなくなり、何もかも駄目になってしまいそうだ。鮮やかな赤を好む彼女は、いつも火より眩しい。



 パソコン画面と睨みあう僕の傍らに、マグカップが置かれる。

 顔を上げるとダンディな顎鬚が微笑んだ。僕は自然と明るい声になる。

「ありがとうございます、社長」

 僕のバイト先の一つ、大学そばの雑居ビルにあるベンチャー企業。生活を便利にするアイディア小物とインテリアの開発をしている。

 メンバーは社長を含め三人とバイトの僕だけ。全員が僕の在籍している大学の卒業生だ。そのせいもあり、僕はそこそこ可愛がってもらえていた。静かな冷房の効いたオフィスで、ふかふかの椅子に座り、帳簿や売り上げデータの整理を手伝う。なかなか重い頭脳労働だが、大嫌いな接客に比べれば趣味のように幸福だ。

 何より社長が魅力的だった。洒落ていながら高飛車な雰囲気は欠片もなく、行動の端々から大きな包容力が覗いていた。面倒見がよく、僕の経済状況と体調に理解を示し、勤務時間も柔軟に変えてくれる。

「最近元気がないね」

 淹れたての珈琲が香る。どうしたのか、なにかあったのか、なんて続けない社長の気遣いが暖かい。舌が疼く。抑え込んでいた不安たちが暴れそうになる。人生経験が豊富で苦労もしてきた社長なら、何かいい心の持ちようを、もしかしたら解決策をも知っているかもしれない。

「休憩時間に、相談を聞いていただけませんか」

「長引いても気にならぬよう退勤際にしよう」

 そう言って社長は僕の背を叩いた。大きな厚い手が心地よかった。

 社長が去ってなお彼の気遣いの余韻を味わおうと、僕はマグに口をつける。苦い苦い黒が舌を痺れさす。

 僕は毒が好きだ。ブラックコーヒー、アルコール、えぐみの有る果実、効きすぎな程のスパイスやハーブなど。喘息でなければ煙草も吸っていただろう。法が許すなら麻薬もしていたことだろう。


 カフェインで冴えた頭で業務をやりきり、タイムカードを押した後、社長に声をかけた。社長は応接室で待っているよう言いつけた。来客さえなければ誰にも邪魔されず話しこめる場所だ。

 応接室のソファーが僕の身体をふわり受け止める。珈琲を飲んでいなければ寝てしまっていたかもしれない。

 間もなく社長は二人分の新しい珈琲を手にやってきた。僕の正面の席にかける。

「実は自分も陽石君に相談がある。どちらを先に済まそうか。恐らく自分の方が早く終わる」

「じゃあ社長が先に……」

「そうかい、ありがとう」

 柔和に微笑む社長。お天道様のような笑顔。この笑顔が会社の芽をゼロから育てたと思うと、頼もしい。社長は一口珈琲をすする。

「単刀直入に言おう。陽石君、大学を卒業したら正社員になってはくれないか」

 舞い上がりそうだった。願ってもない提案だ。冬から就職活動が始まる。この醜い顔を晒しながら雇ってくれと懇願して歩く作業、楽しいはずがない。考えるのも嫌だった。就活なしで正規雇用で働ける、しかも他でもない社長の下でなら必ず頑張れる。

「陽石君の真面目な働きにはみんな助かっているんだよ。末永くよろしく頼んでいいかな?」

「はい! よろしくお願いします!」

 深々と礼する僕に、頭を上げるよう促す社長。

「それで、陽石君の相談事は?」

「ええ、それが。業務に無関係で恐縮なのですが……」

 僕は安蘭の事を話した。大学で声を掛けられた事。相手は僕を興信所で調べてよく知っていた事。モデルとして時間を買う契約を持ちかけられた事。そして酒匂青年に脅迫され札束封筒で殴られた事。ほぼ毎日安蘭と食事を共にしている事。自分でも状況を整理できていず、話が前後してしまった。それでも社長は根気強く聞いてくれた。

「成程。興信所を使われているんじゃ、忙しいと断りづらいね」

「そうなんです。何より相手の真意がよく分からなくて気持ち悪いです。言葉通り僕をモデルにしているなんて到底思えません。目の前でスケッチを始めるでもないし」

「そもそも本物の芸術家か怪しいね。その女性は何と名乗っていたんだい?」

「あ、言い忘れてすみません。『酒匂 安蘭』です」

 社長の手からマグカップが離れた。

「え?」

 ガイン! 危うい音が響く。カップがガラスのテーブルに衝突していた。

 幸いマグも机も割れず珈琲が散っただけだった。しかし社長は目を剥き、拾おうとしない。

「今、なんて?」

 マグカップは転がり床に消えた。陶が床を打つ鈍い音。人が変わったような社長に気圧されながら、僕は真っ赤な女性の名を繰り返す。

「『酒匂 安蘭』と……」

 僕は財布に名刺を入れたままなのを思い出した。安蘭と酒匂青年の分、二枚を珈琲が触れぬ位置に並べる。社長は食いつくようにそれらを取って傾けた。LEDの光を反射し、抽象図形のプレスが浮かび上がる。

「本物だ」

 社長は芸術学科を出たデザイナーだ。安蘭と養父の事は知っているのだろう。それにしても尋常でない驚愕に、僕はどうすれば良いか分からなかった。

「悪い、陽石君、酒匂先生にオレを紹介してくれないか? これは、これは凄い事だぞ……」

 名刺を舐る目は、柔和で穏やかな社長ではなく、野心に燃える男のものだ。窓の外にある太陽の如く机を、名刺を、僕まで焼きつくしかねない。僕は木偶のようにガクガク頷いた。

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