初めてなこと *


 この三年間、聖竜たちと過ごしてきて未だに、エルフィは知らないことが多い。


 彼らが扱う神秘という名の不思議な力のことだとか、万能と呼ばれるほど変幻自在なあり方についてとか。


 エルフィが知らないことはたくさんある。

 毎日、驚かされては目を丸くしているのだ、その反応を楽しまれている気さえする。


 そしてそれは今日も変わらず。

 エルフィは初めて知った、ニールの特技を目の当たりにしたのだった。



 ***



 ──完全に風邪をひいた。

 この三年間、エルフィが元気に動き回れていたのは、皆と共同生活を送っているこの土地の影響が強かった。


 リリとミミが教えてくれたことなのだが、聖竜は「聖域」という自分たちの領域を作ることができるのだそうだ。

 その中では豊かな土地と綺麗な空気が保たれ、邪竜の侵入をも拒む。


 そこから滅多に出ないエルフィは、図らずもとても素敵な療養空間で生きていた。

 ニールとヴァン、リリとミミが形作る聖域に守られて、エルフィの健康はあったのだ。


 が、先日シャーナに連れられて、街まで買い出しに、聖域の外へ出た。

 一時期は外界を拒絶していたエルフィも、慣れるためには行くしかないと腹を括って行ったのである。

 結果、買い出し自体はとても楽しかった、楽しかった、のだけど。


 しっかり、風邪を貰って帰ってきたというわけである。

 皆から安静にと言い渡されて、でもじっとしていられず。

 結局、家事に手を出してしまっていた。


 エルフィは衣類を畳む手を止め、喉に手を当てて、何回か咳き込む。

 激しい動きはなるべく避け、適度に休憩もしているものの、体は上手く言うことを聞いてはくれない。


 家の中にはエルフィしかいなかった、シャーナは裏の畑の様子を見に行っていて、それをヴァンが追いかけていったのを見た。

 ルドーはリリとミミと共に、森へと遊びに行っているはずだ。


 息苦しさと怠さにエルフィはため息を吐きながら、もう一度休憩をすることにする。

 自分が病弱なのをやっと思い出した。


 三年前までは体調が良い日の方が少なかったというのに、まさか安静にする方法を忘れてしまう日が来るとは。

 幼い頃、散々手を焼かせた実の両親の顔を思い出して、エルフィは笑みを浮かべた。

 もし今の健康さを知ったら、二人はどんな顔をするだろうか。


 エルフィは自分の過去のことを、皆にはあまり話していない。

 此処にやってきた経緯がアレなので察されている部分はあるのだろうけど、あんまり思い出したくもないし、皆も聞いては来ない。


 せめてニールには、ちゃんと話さなければと思いながら時間ばかりが過ぎていた。

 恐らく相談したら話せるようになったらで良いとか、優しいことを言われて甘えてしまう気がする。


 水を飲むために台所に向かおうと、立ち上がるがよろけた。

 もしかして熱も出てきたのだろうか、眩暈に耐えきれず膝から崩れ落ちそうになる。


 そんな彼女を、後ろから支える誰か。


「え?」

「大丈夫か?」


 聞き慣れた大好きな声。

 エルフィは現状において聞こえるはずのない声に混乱する。


 だって彼がここまで来ることは不可能なのだ、体格的に。

 それに体を支えるのは明らかに人間の手。


 とりあえず振り返ろうとして、抱き締められたから動けなくなった。

 エルフィより頭二つ分くらい背が高いだろうか、細身の様でがっしりとした体が、エルフィの華奢な背中を包み込む。


「あんまりこっち向くな。慣れてないから見られると……元に戻るかも知れない」

「ニール?」


 耳元で聞こえる声は、紛れもなく彼、ニールの声、いつもより喋りやすそうである。

 エルフィは言われたとおり、振り向かずに大人しく抱き締められたまま聞いた。


「ニールは、人間の姿になれるのですか?

 服までちゃんとあるようですし」

「力の制御が得意な竜なら難しくない。

 ヴァンも双子も出来るだろう。

 俺はあまり得意じゃないから、最近できるようになった」

「そうなんですか……聖竜の神秘ってこんな事まで可能にするのですね」


 エルフィは言葉の途中で軽く咳き込んだ。

 軽く背中をさすられる。


「きみは貧弱な人間の中でも弱い部類なのに、すぐ無理をするな。

 咳き込む声が聞こえた時は竜のまま突っ込んでやろうかと思った」

「それは皆に怒られちゃいますよ」


 落ち着いてきて、エルフィはニールの手に触れてみる。

 体温も感じるし、触った感じは人間の手と全く変わらない、脈動だってある、けれどちょっと重たいような。


「ニールの手、温かいですね」

「ああ、鱗を触るより分かりやすいだろう。

 きみに触れるなら竜の姿よりも、人の姿でいた方が良いと思っていた」

「確かに新鮮だし、くっつけて嬉しいですけど……鱗も好きですよ、わたしは。

 爪だって大きな体だって好きです。

 どんな姿形でも、ニールが自分で好きだと思えるのが一番良いと思います」


 ふふっと、エルフィは何だか楽しくなってきて笑う。

 ニールがこんな近くにいるなんて初めて、嬉しい嬉しい。

 彼も嬉しいのだろうか、ちょっとそわそわしている感じが背中から伝わってくる。


「……でもお顔を見れないのは残念です」

「そう言われるともう少し頑張ろうと思うな。少し窮屈だけど、この姿のまま安定して動けるようになってみたい」


 彼の言葉遣いが少し砕けた気がして、エルフィはあれ、と思う。

 竜の姿だと喋りにくいからか、言葉は短くゆっくりとした威厳のある口調な彼だが、人間の姿だと喋りやすい分、素が出やすいのかもしれない。

 少し前に自分は実はお喋りだとか言っていた気もするし。


「喋りやすいしエルフィと距離も近い。うん、これはいいものだな」


 (……なんかすごく可愛らしいこと言ってる)


 機嫌が良くなるほど崩れた言葉遣いになっていくニールに、エルフィは真っ赤になる。

 触れ合えることがよほど嬉しいのか、ニールはエルフィの手を両手で握った。


「男女差の事は分かっていたが、実際触ってみるとやっぱり小さいな、エルフィは。

 女の中でも小柄な方なんだろう?」

「ええと、そうですね……背は小さい方なのかもしれません」

「そうか、竜の体だと遍く全てが小さいから細かい事に気付けないんだ」


 竜の大きな体で人間に触れ合うには、どうしても限界があって、擦り寄るくらいに留めなければ潰してしまいかねないから。


 リリやミミの様な子竜なら別の話かもしれないが、ニールはヴァンよりも二回りくらい大きな成体だし。

 エルフィの首が疲れないように、いつも話す時は伏せてくれるのだから、このひとは優しい。


 こんな風にくっついて、それこそ互いの息遣いや、体温が分かるような距離は滅多にないことだ──たまに頭や膝に顎を乗せられたりはするんだけど。


 考え事をしていたのが伝わったのか、ニールが少しだけ強くエルフィを抱きしめた。


「ニール?」

「力加減を確認している。こうしたほうがエルフィが柔らかくていいかもしれない」

「や、やわらかい、ですか……」


 ニールの言葉にまさか、と身を固くするエルフィ。

 最近やたらとご飯が美味しいのだ、太ったとか、まさかそういうことでは。


「どうした、寒いのか?」

「あ、いいえ……」


 エルフィが身を固くしたことに気付いたのか、ニールが少し心配げに問いかける。

 あわてて違うと言おうとして。

 首筋に彼の吐息が掛かって、身が震えた。


「やっぱり寒いか?」


 むしろ熱い、熱すぎる。

 かあーっと、顔を真っ赤にしてエルフィは思った。

 一度意識すると全部意識してしまう。

 耳元で響く声、背中を支えてくれる体、回された腕、かかる吐息。

 近い体温、心音、肌の感触、本来の姿でいる彼と触れ合う時とはまた違ったどきどきが。


「エルフィ?」

「……はい」


 何だかぼんやりしてきて、エルフィは間抜けな声で返事をする。

 何て言うんだろう、すごい男の人みたいだ、いやそれはそうなんだけれど。

 中身と気配は確実にニールだから、えーと。


「熱でもあるのか?」

「そ、そんなことは……」


 ないと思いますと、言おうとした時、そっと手で目隠しをされた。

 視界が真っ暗だ、彼により齎された暗闇──何を思っているんだ、混乱しすぎ。


「ニール、なにを……」

「目を閉じろ、絶対に開いてはいけない」


 エルフィは言われるがまま瞼を下ろす。

 すると、目隠しが外れたのが分かった。

 促されるまま体が回って後ろを向く、目の前にある彼の気配、恐る恐るといった感じで頬に添えられる手。


 ニールの手に頬を擦り寄せたのは無意識だった、もっと触れて欲しいと思ったから。


 彼が一歩踏み込んだのを感じる、高い位置にある顔がそっと寄せられて。

 何をしたいんだろう、なんて思っていたエルフィの思考が、唇が重なったことで完全に停止した。


 状況を理解してから熱が上がった、気がするとかじゃない、絶対上がった。


 戸惑って暴れる右手を彼の胸におく、しかし押し返すという選択肢は浮かばない。

 血の通った体は人の形を確かにしていて、心音が大きく掌から伝わってくる。

 初めてだ、触れた先から彼の鼓動を感じるのは。

 エルフィは初めて、好きなひとと口付けをした。


 嫌ではなかった、混乱が過ぎてむしろもっと来いとすら思ったくらいである。

 何をどうすれば「もっと」になるのかはエルフィは知らない。


 唇が離れて、思わず目を開けたのは彼がどんな顔をしているか見たかったからだ。

 自分と同じ幸福を感じてくれているのか気になって、それを確かめたくて。

 彼の顔を目が捉える、その前に──。


 ズバアッンっっ!!!

 という凄まじい轟音と衝撃波がやってきた。

 吹き荒れた風に髪が煽られ、エルフィは呆然と立ち尽くす。


 舞い上がった煙、それが晴れた時。

 目の前には家の天井をぶち抜いた状態の、竜の姿のニールがいた。


 落ちてくる木から翼でエルフィを守りながら、ニールは言う。


「目を開けるなと言ったろう」


 じゃあ、あんなことしないでくれ。

 そう思うのは間違いか。



 ちなみにエルフィの風邪は、あの口付けによって一発で治った。

 エルフィから悪いものを吸い出すための行動だったらしい。


 人間の男女の関係においてどんな意味を持つか説明をしたら、凄く恥ずかしがって翼をばたばたさせていた。

 何かそういう概念もあったような気がするとか何とか言ってじたばたしていた。

 ニールは何万年もの間人間を観察してきたはずだが――そういうところは初心らしい。


 当たり前のことだが、ニールは家を壊したのでシャーナに凄く怒られた。

 ニールにも怒ったシャーナは手が付けられないらしく、一日中追い回されて罰として疲れ果てるまでリリミミと遊ばされていた。


 エルフィは人の姿のニールがどんな顔なのか気になって仕方がなく、数日間何も手に付かなかった。

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