第6話「雨の色は赤褐色」


 体の疲労と言う物は肉体を動かすことで発生した乳酸が溜まることにより発生する。


 筋肉を使いすぎて緊張状態に陥った筋肉は血行が悪く、乳酸が流れず止まってしまう。それが疲労となって体に現れるのだ。


 では乳酸が発生する運動とはどのようなものか。


 仮にスポーツ選手が全力で運動を行うとする。動き始めから乳酸が発生し、それが徐々に溜まる。そして体に現れ始めるのが約30秒後と言われている。


 無呼吸等の全力の運動を行って30秒である。それだけの時間が経過すると人間は疲労状態になるのだ。


「はっ、はっ、はっ」


 浅く、しかしながらテンポよく刻まれる呼吸音。


 それと同時聞こえてくるのはブーツによって踏みにじられる雑草の潰れる音であり、時々聞こえる野鳥の囀りなどだ。


 普通であれば長閑な、そしてほのぼのとした音に聞こえるだろう。


 光り輝く太陽光を体に受け、一面広がる草原に転がる様に日向ぼっこを行う。しばらくそうしていれば寝入ってしまい、夕日が現れたころにようやく起きる。そんな音だ。


 しかしながら森の中を全力で走る男にとってそのような行為は夢のまた夢であり、現に草原に寝転がるなど草原が存在していないために不可能なのだ。現在の男が生活している場所にそのような場所はない。


 そして、男が現在必死に走っている意味を知っているのは男しかいないだろう。


「はっ、はっ、はっ」


 テンポよく、かつ全力疾走する方法は軍に入ってすぐに身に着けた基礎技術であり、軍人である男にとって走る事は当たり前の事として身についている。


 しかしそんな男にとっても己の最高速度かつ、重装備を身に着けている状態での全力疾走など経験したことが無かった。


 地面を踏みしめる両足はすでに感覚がなく、僅かにバランスを崩すと倒れて起き上れなくなるだろう。振りぬく両腕は持っていた銃を放り出すことで軽量化していたがすでに惰性で動いている程度だ。


 呼吸だけは規則的に続いているがその程度で体に溜まった乳酸をすべて吐き出すことなど不可能である。


 しかしながらなぜ男は走るのを止めないのか。その理由はすぐに音として聞こえてきた。


 それは低く、喉を鳴らしたような音。


「ひっ!」


 その音を聞き取った男はさらに速度を上げる。


 まるで何かから逃げるように。近づくなとでも言うように足を、そして手を必死に動かす。


 だがその音はその努力を嘲笑うかのように徐々に近づいてくる。


 時折草を踏みつぶすような音。そして枝を折るような乾いた音も聞こえてくる。


 その後男がどれほど走ったか。人間の感覚にして300メートルほどか。


 草木生い茂る森の中での全力疾走はなかなかに難しい。スピードを保ちながらも障害物をよけていく必要がある。そう、人間にとっては非常に走りにくい場所だ。そう、人間にとっては。


 男が不意にこけた。


 その原因は疲労からか。または盛り上がった木の根なのか。それともその両方なのか。とにかく男はこけた。それはもう盛大に。


 顔面を削る様に前向きにつんのめりつつ、転ぶ男。すでに限界を超えている疲労のために脳で命令を出そうと体が動かない。


 それでも何とか立ち上がり、一歩進みだそうとした時だった。


 通常でも薄暗い森の中。それがさらに暗くなる。まるで雲が日を遮ったかのように。


 それと同時に聞こえてくるのは男の心音と呼吸音、そして男以外の息遣い。


 振り向いた男が視界に捉えたのは大きな緑色。樹木と同等の高さにある4つの光。



 その後、その場所には赤い雨が降り。地面を絨毯の様に彩っていた。







「なんだ?」


 最初に気づいたのはユウトだった。


 サキとハルカ、そしてユウトを含めた5人の班は防衛都市東京の第3防壁から数キロ離れた山中にて絶賛土木工事の手伝い中だった。


 現場について開口一番ユウトが呟いた“筋トレ”という言葉どおり、現場での手伝いはほとんどが肉体労働であり、重機が入らないような場所に入って人の手によって作業を行う事だった。


 ユウトと残りの二人の合わせて3人の男子生徒は中でも重労働の仕事を与えられており、切断された樹木が落とした大き目の枝や地面に転がる石を撤去する仕事だ。


 比較的大きなものを男子が拾い、残った小さいものを女子の二人が拾う。


 誰かが言い出したわけではないが男子が積極的に大きいものを拾い始めたことからこのフォーメーションが決まったのだ。


「どうしたの?」


 もくもくと拾い、後ろをついてきている自動運搬車オートカーゴに乗せていたハルカは不意に聞こえた声に顔を上げる。すでに数時間作業を行っているために10月終わりという気候にも関わらず額に汗がにじみ出ている。


「森が静か過ぎないか?」


 ユウトがいう異変。それこれまでうるさいように聞こえていた野鳥などの囀りや、小さな虫たちの合唱が聞こえないというものだった。


「確かに静かだな」


 同意しながら己の手に持った枝を自動運搬車へと投げ込んだ男子生徒。彼も先ほどまでやけに煩く聞こえていた音が聞こえなくなったと感じているらしい。


「ジュンペイの言うとおりだ。確かにおかしいな」


 もう一人の男子生徒も同意するように周りの木々を見渡す。


 彼らがいる場所の前後には正規の整備課の者たちが重機や機械を使って整地作業を行っている。そのためエンジン音や人の声は聞こえるが、それ以外の音が聞こえなくなっていたのだ。


「これってよくフィクションで言う不吉なことの前触れってやつ?」


 腰に下げたバックポーチの横にぶら下げていた水筒を取り出し、一人休憩するように立ち止まったハルカは再度確認するようにあたりを見渡す。


 しかしながら異常という異常は見つけられず、杞憂であるという結論に至った。


「まあ、バルグが近くにいるのかも知れないわね。防衛課の人たちの輪を抜けてきているとは思いたくないけど」


 現在武装をしていない者たちが整地作業に勤しむことができている理由としては防衛課が護衛任務についていることがあげられる。


 事前に輪を組むように整備課の隊員たちを取り囲むように配置され、作業の進行と同時に輪を前進させているのだ。


 もちろんその輪に綻びが出ても複数人の防衛課の残っていた隊員たちによって殲滅される。そんなことは作業途中では何度もあり、すでにサキを含んだ5人の学生にとっては当たり前のことと認識されている。


「ああ、俺たちがいるのは森から近い場所だ。万が一の時に備えて心構えでもしておいたほうが良いな」


 実質的なリーダーと化しているユウトの言葉にうなずく3人。一人頷かなかったハルカは認めていないようだが、仕方なくしたがっている様子である。


「そろそろ3時の休憩の時間だよね?」


 4人が話しているときもぼんやりと枝を拾っていたサキは疲れてきた体を軽く伸ばしながら呟く。


 重労働から数時間おきに休憩時間が設定されており、水分や栄養の補給を受けることができる。本部である後方部隊に合流すれば食べ物も貰えるため合流したいとの意志だろう。


「そうだな。中野の言うとおり一度戻ろうか」


 そう決断し、自動運搬車オートカーゴのプログラムを変更しようと手を伸ばした時だった。


 甲高く響く炸裂音。


 それはいくつ者連続音を奏で、数秒間鳴り止まずに続いた。その音源は


「この音はアサルトライフルの発砲音だな。恐らくM4だけど、確か防衛課の人が何人か持ってた銃のはずだ」


 5人の中でも銃に詳しく、族に言うミリタリーオタクといわれているジュンペイと呼ばれた男子生徒が解説をする。


 もともと防衛課が使用している主要武器であるアサルトライフル、日本では自動小銃といわれているが、それらは統一されている。


 その理由としては使用する弾薬やそれを収めているマガジンなど緊急時に互換性があるほうが好ましいという至極まともな判断によるものだ。そのため使用されているライフルも同じであり、元自衛隊で使用されていた89式5.56mm小銃である。


 1990年以降に陸上自衛隊の主力小銃として配備されていた銃は日本国産のものであり、日本人の平均的な体格に適した設計がなされている。


 使用する弾薬は5.56mm×45mmNATO弾であり、国際的な標準となっている弾を使用する。世界的に有名な銃器たちと比べても遜色ない性能を誇り、銃剣等のアクセサリ等も使用できる。


「M4って、正式採用のじゃないじゃん」


 もう一人の男子生徒が言うようにM4カービンはアメリカのコルト社が製造し、同国では軍に正式採用されているベストセラーである。使用する弾薬は89式と同じく5.56mm×45mmNATO弾であり、防衛隊員の中では物好きが使用する銃として一定数存在している。


 そんな隊員たちに共通しているのが


「M4、使用できるのは特殊部隊の隊員だけだったはずだが」


 ユウキが将来入隊を希望している特殊部隊。そのため事前にある程度内部事情を聞いている彼にとっては聞きなれた名前だった。


「もう聞こえなくなったって事は駆除したのかな」


 すでに発砲音は聞こえなくなっており、その音がした方向に視線を向けながらサキが呟く。


 世の中にはフラグというアニメなど創作物が好きな者たちの間で囁かれているものが存在する。それはこの後起こる事の逆のことを口に出すことであり、すなわち


 バキバキ


 木々をなぎ倒すような異様な音と同時に。何かが目の前を驚異的な速度で通過した。


 その際に僅かに見えたのは白と黒。


「なっ、何だっ!」


 驚きの声を上げつつ、5人の目の前を通り過ぎ、地面を削るようにして転がった物へと視線を向ける。


 地面に転がった物。それは黒を基調とした衣服に身を包み、白色の頭髪をした


「ケイル、先生?」


 血塗れであり、戦闘服バトルスーツのあちこちを破損させ、その下にある肉体を内部までさらしたケイル副担任の姿だった。



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