第10話 知らない世界

 日が傾き、空が微かに色付き始めた頃、コニカはリーファに馬車を道から逸れた、少し開けた場所に止めさせた。移動速度は歩くより少し速い程度ではあるが、それでも半日移動を続けて町が見えないというのは、ここがえらい田舎だという事だろうか。


 今夜は野宿なのか。


 途端に、自分のアパートの狭いユニットバスと煎餅布団が恋しくなる。静かな絶望に心が浸っていく。


 早く、帰りたいな。湯船に浸かって、布団で寝たい。


 だが無い物は無いし、命の恩人であるコニカ達に文句を言っても、お門違いも甚だしい。黙って荷台から降りる。


 手伝う意思を伝えるべく、拠点となるであろう馬車の周囲で作業をしているコニカを呼び止め、自分の胸を軽く叩き、コニカの手元を指差す。コニカは口角を上げながら頷き、リーファを呼び付ける。馬から馬具を外していたリーファは、無愛想にこちらを一瞥し、馬車を外しに取り掛かる。リーファの手伝いという事だろう。私は馬の側へと歩み寄った。


 馬は、というよりも動物は好きである。生きる、という事に素直な彼らは魅力的で、私の好奇心を掻き立てる。そして私が熱心に興味を示すからか、動物には結構懐かれ易い性質たちだ。役に立たないが、私の特技は犬猫の痒い部位を瞬時に探り当てる事である。


 馬車に近づくにつれ、馬だと思っていた生き物が馬ではないという事に気付く。大きさはおよそ同じなのだが、耳が一回り大きいように思える。速そうという印象よりも、頑丈そうというものが先走る。初めて目にするが、ロバと馬を掛け合わしたらばというやつかも知れない。


 真ん前が見えないであろうらばを考慮し、視界に入るように横から近づき、鼻の先に手を出してみる。明日もお世話になるのだから、匂いだけでも覚えてもらおう。何度かフーッと息を掌に吹き付けると、確認するように鼻を軽く押し当ててくる。餌でも持っていると思ったのだろうか。残念。何も無いよ。


「シー」


 リーファに呼ばれ顔を上げれば、馬具を全て外したらばの体にブラシを掛けていた。その様子を観察していたら、ブラシを目の前に差し出される。受け取り、見様見真似で手を動かしてみる。リーファは私の技術を問題無しと判断したのか、一撫で見届けるや否や別の雑務に移った。


 ゴムみたいな感触のブラシを円を描くように動かせば、面白いくらいに毛と埃が出てくる。肩辺りから始め、ゆっくり背中の方へと移行する。腰にブラシを当てれば少し重心を寄らせてきたので、重点的に掛けてやる。胴体から脚、そして首を入念に手入れしていたら顔を私の肩に擦り付けてくる。大きい動物という事もあり、思わずよろける。


 痒いのか。耳の後ろや額を中心にブラシを動かす。


 リーファが餌を入れたバケツを持ってきた頃には、らばは目を瞑って腰に再び戻ってきていたブラシに自身を押し付ける様に立っていた。リーファは呆れた表情でバケツをらばの前に置くと、顎でくいっと、私について来るよう促してきた。


 連れられた先には鍋や食材がこじんまりと置いてあった。知っている野菜もあれば、見た事の無い材料に興味を惹かれている間、リーファはさっさと薪の準備に取り掛かる。慌てて彼が始めた並べ方に沿って、薪を配置していく。


 終わったところで火を点ける物を探すが、見当たらない。ライターやマッチならば使えるが、火打石を手渡されたらどうしようという不安が浮上する。


 リーファが持っているのかもしれないと思い当たり、彼の手元に注目するが、手ぶらだった。次の瞬間、有り得ない事が起きた。


 リーファが火を起こしたのだ。


 だが、手には確かに何も持っていない。薪の上に両手を数秒かざしたと思ったら、ぼっと小さな産声を上げ、焚き火が現れたのだ。


 今。一体何が。


 驚きと戸惑いから、目線がリーファの手から顔へと泳ぐ。そこには初めて見る、どこか得意げな表情。そしてあろう事か、リーファは掌からうずらの卵程の大きさの火の玉を浮かして見せた。


 意識が少し飛んでいたのか、いつの間にかコニカに両肩を掴まれ、険しい顔で名前を何度も呼ばれていた。ようやく認識し、彼の目を見る。見ているが、目が合ってないような気がする。二人は何だか変な顔をしているようだ。


 何が、起きた。


 薪を並べてリーファと焚き火の準備に取り掛かっていた。そしたら、そしたら。


 火が出た。いや違う、リーファが火を出した。何もない所から火を出したのだ。


 頭が凄まじい速さで回る。カシャカシャと高速でルービックキューブを解いていくように一つ、また一つと鍵となる面が揃っていく。十二月とは思えない暖かい気候。小剣。馬車。聞いた事もない言葉。掌の上に浮かぶ炎。


 駄目だ。そのパズルを解いてはいけない。導き出される答えは、私の求めているものではない。だが思考は止まらない。


 そういえば、いつから。いつから私の右腕は痛まなくなっていたのだろう。


 巻かれている包帯を乱暴に掴み、むしり取る。慌てた様子でコニカが止めに入るが、もう遅い。見えてしまった。そこには薄い一文字の筋が、昔こさえた古傷の様にあるだけだった。


 自分の中で芽吹いた不安は大樹となり、内側から私の喉に根と枝を絡ませ、締め上げる。目覚めた直後に見たあの大きな木を思い出した。違和感を纏った、あの月を。地球から見たものとは、別物の月を。


 ここは、日本じゃない。


 ぽたぽたと涙が零れ落ちる。


 ここは、私の世界ですらない。

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