拾われる

第8話 パンはうっすら塩味

 幸運な事に、少し開けている河原のすぐ側を道が通っていた。川から一段上がった場所を走っているそれは、土を固めただけの簡易な物だが、一応車一台は通れるだけの横幅は確保されている。山道を抜けていないのが少し残念だが、川の下流へ向かえば、人の気配も濃くなるだろう。


 皮肉にも川で溺れかけていた時に飲んだ大量の水が胃に残っているらしく、喉はまだ渇いていない。かなりの距離を流されたようだし、追って来ていた男達も流石に諦めただろう。粛々と歩を進める。


 最初に訪れたのはやはり、体力切れの危機であった。足は動くし、前には進んでいるのだが、如何せんもつれたり、ふら付く頻度が増してきた。右腕の脈に連動している痛みも、かなり精神的に効く。何度か休もうかという考えが頭を過ったのだが、一度止まったらもう歩けなくなるのではないかという不安から、ふらふらと道の脇を蛇行する。


 ぽんっと肩に何か乗せられた感覚。朝の緊張が尾を引いていたのか、無意識のうちに素早く振り向く。同時に一歩半の距離をとり、拳を胸の前で構える。


 目の前には五十代半ばと思われる白髪交じりの男性が、少しびっくりした様子で両手を小さく上げ、立っていた。その後ろには、今まで気付かなかったが、一頭の馬に引かれている馬車、というよりも車輪の付いた大きな木箱が止まっている。手綱を握っている男の子の表情は、緊張の色を帯びている。外国人の親子のようだ。時代錯誤と言えるような乗り物に乗っているが、人である。


 空っぽだった頭の中を、一気に血と考えが巡る。


 人だ。助かった。馬車なんて初めて見た。男二人。疲れた。大丈夫か? 良かった。何か食べ物。まだ気を緩めるな。帰れる。怪我の手当て。ここどこ?


 声を掛けられ、玩具箱を引っ繰り返した様な数々の考えが、一時中断される。男の顔を見上げると、彼は笑った。今朝方見た物とは全く違う、安心で全身から力が抜けるような、暖かい笑み。男は再び短く声を発する。問い掛けの様に聞こえるのだが、さっぱり意味が分からない。


 少し思案していたら、男性が両手を肩の高さまで上げ、私の方に掌を見せるように立っている事に気付く。敵意は無いよ。万国共通のサインだ。反射的にとってしまった警戒態勢を解く。私のその様子を見ていた男は、目尻に小皺を寄せるように笑みを深め、両手を下ろした。溢れかえる疑問をぶつける為、口を開く。だが乾いた喉からは声より先に、咳が出た。


 咳き込む私の背中に慌てて男性は手を当て、後ろの馬車に乗っている男の子に呼び掛けた。男の子は警戒しながらも、荷台をガサゴソと漁り、取り出した物を小走りで男性に渡す。水筒だ。受け取りながら、掠れた声でお礼を言う。


 口の大きい水筒を傾けて喉を潤す。私を見ている男性の表情を観察する。相変わらず笑っているのだが、困惑の色が窺える。きっとこの人も私と同じ事を心配しているのだろう。充分に湿った喉で声を試してみる。無事発声できる事を確認すると、男性の目を見て尋ねる。


「日本語は分かりますか?」


 男の困惑が一層濃くなる。予想していたが、日本語が通じない。駄目元で英語でもう一度訊いてみるが、男性は困った風に笑うと、首を小さく横に振った。どちらとも悪くは無いのだが、人の良さそうなこの人を困らせてしまったようで、申し訳ない気分になる。


 再び男性は私に話し掛けてくる。今度はジェスチャーを交えている。腕に何かを巻き付ける動作をした後、私の右腕を指差してくる。手当をしくれるのだろうか。願ってもいない。


「お願いします」


 どう返せばいいのか分からず、頷きとも会釈とも取れるような曖昧な動きをする。男性は、馬の隣に突っ立っている男の子に流暢に指示を飛ばす。私に向き直すと、ゆっくりと単語を発してくれる。手で何かを掴んで口に運ぶ動作。食い気味で返事をする。


「ご飯、食べます! えーと」


 先程男性が口にした単語のおうむ返しを試みる。確か、こんな音だったと思い出しながら、真似てみた。言葉に聞こえたかどうかは不明だが、思いは大いに伝わったらしい。歯を覗かせる様に男性は笑い、手招きしながら馬車の方へと歩き出す。蘇った足腰で私は、親鳥の背中を追う雛鳥の様について行く。


 馬車では先程の男の子が、荷台を詰め直していた。背は私より少し低いが、よく見れば体付きはしっかりしている。歳は十八、九だろうか。男性が近づいたのに気付き、小瓶と包帯を手渡す。荷造りに戻る青年に対し、男性は一言二言と音を零す。頷くだけで応じる青年の鋭い目は、私の一挙手一投足を逃さず捉えている。居心地が悪くなり、男性の後ろに半身だけ隠れる。年下と思うのだが、凄い気迫だ。


 会話を続けながら男性は荷物の中から風呂敷包みを取り出した。興味が湧き、作業する男性の手元を横から覗き込んでみたら、パンが見えた。思わず、喉が鳴る。どこからか取り出したナイフで器用に切り分け、一切れ差し出してくる。一応彼の目を見て確認する。食べても良いよね。男性は促すようにパンを私に更に近づけた。


「有り難うございます」


 伝わらないと分かっていながらも、何も言わずに受け取るのは些か無礼に感じる。一応お辞儀を交えてお礼は言う。男はパンの入った布の包みを荷物の上に退けながら、何か言い返してくれた。どういたしましてということだろう。案外言葉が通じなくても、どうにかなるものなのかもしれない。


 すると男性は、先程の包帯と瓶を片手に、私の右腕を示してくる。青汁を連想させる瓶の内容物は、少しとろみがあり、手作りの薬だと理解した。同時に戸惑う。贅沢を言えない立場であるのは重々承知しているつもりなのだが、それにしてもあの薬を塗るのは抵抗を感じる。そもそも塗り薬という解釈で正しいのだろうか?


 感情が表に出ていたのか、男は少量の薬を自分の腕に塗って見せてくれた。ここまでされてしまうと、断るのも気が引ける。覚悟を決め、右腕を突き出す。鳥肌が立ちそうな独特なぬめり感から気を紛らわす為、食事に専念する。


「いただきます」


 パンを口に含み、咀嚼する。決して柔らかくはないパンをなんて事の無い日に食べたとしても、別段美味しいとは感じられなかっただろう。しかし今の私には、治療されている右手から伝わる鈍い痛みとは関係無く、目の奥の方がツンと沁みる。目に溜まった水分が涙と変わらないように俯き、瞬きを止める。パンをひたすら噛む事で誤魔化す。彼らが気付いたかどうかは定かではないが、食べ終わるまで声は掛けられなかった。

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