第三章 その2 天ケ瀬ダムにて

 宇治川の上流はお隣滋賀県の琵琶湖である。大昔は琵琶湖からの水運が発達し、多くの人や荷物が行き来したと言われている。


 だが、今となってはそんな往時の姿を見ることは不可能だろう。


「やっぱでかいな、天ケ瀬ダムは」


 宇治駅から川沿いを上流へ歩いて3kmほどの丘陵地。そこで宇治川の水はせき止められ、巨大なダム湖が形成されている。


 これぞ京都の誇る天ヶ瀬ダムだ。高さは73メートル、淀川水系唯一のダムにして完成から50年以上経った現在でもなお発電に治水にと流域の住民の生活を守っているアーチ式コンクリートダムだ。


 新緑の山々に囲まれた波打つ湖面を覗き込みながら、小学生の頃には校外学習で訪れたことを思い出す。あの時体験フィッシングで釣り上げたオイカワは、今どうなっているのだろう。


「うやはっはあああ! タニガワカゲロウ、ゲットだぜぇええ!」


 感慨も何もない。すぐ後ろで走り回る川勝の奇声が、のんびりと泳ぐを眺めて遠き日の思い出に浸る俺を現実に引き戻す。


「おい、川勝……」


「おひょひょ! ヒラタカゲロウ、捕獲ぅ!」


 もう狙っているとしか思えないような奇怪な歓声。俺たち以外、誰もいなくて本当によかった。


 いつの間にか湖面の鵜も飛び立っている。敵と認識されたのだろうか。


 捕まえた小さな羽虫を虫かごに移し終えた川勝は、きらきらと輝く目を俺に向けた。


「ねえ、もっと下まで降りてみよ! ヘビトンボのさなぎ、発掘できるかもしれへん!」


「降りるって、川に入るんか?」


「ちゃうちゃう、ヘビトンボは幼虫は水生やけど、蛹は陸に上がって土の中で羽化すんねん。今の季節、土を掘り返したら絶対に出てくるで!」


「分かった。足元気ぃつけーや」


 そう俺が返すとほぼ同時に、川勝は速足で山の斜面を降りていった。危なっかしいことこの上ない、俺も後ろから落ち葉や枯れ枝の積もった傾斜を慎重に下る。


 それにしても聞きそびれてしまったが、ヘビトンボってどんな昆虫だ?


 何度かつまずきそうになりながらもようやく下まで降りる。そんな木々に囲まれた湖の畔で、川勝は俺に移植ごてを渡した。


「蛹は土の中にいるはずよ、探してみて!」


「探せって言われても、どんな見た目か全然知らんのやけど」


「すっごくわかりやすいから。もし変わったの見つけたら、すぐ言うて」


 そう言いながら川勝はしゃがみこみ、移植ごてでそこらの土をほじくり返した。


「わかりやすい蛹って、どんなんやねん」


 ブツブツと呟きながらも、川勝に気圧された俺は足元の土に移植ごてを挿し込む。


 3回ほど土を掘り返した時だった。腐葉土や小石に混じって、見たことも無い奇妙な虫が土の中からひょっこりと姿を見せたのだ。


「ん?」


 俺はじっと目を凝らす。土に紛れて巨大なアリのような白っぽく細長い虫が、じっと動かずに横たわっている。


 全長は人差し指程度、折り畳んだ細長い脚にカマキリのような細長い頸くびを持ち、その先端の頭部には真っ黒な目玉、そしてクワガタムシにも劣らない大顎が備わっていた。


「なあ、こいつ何や?」


 俺の声に、川勝が後ろから覗き込む。そして途端に表情が明るくなった。


「ああ、ヘビトンボやん! ラッキーやね!」


 どうやら目当ての虫だったらしい。


「てことはこれが蛹なんか。確かに、変わった見た目してんな」


「せやろ? ヘビトンボは大きなカゲロウみたいな形なんやけど、幼虫にも成虫にも大きなアゴがあって、川ムカデとも呼ばれてんねん。力も強くて、清流に棲む昆虫の中では生態系のトップにいるんやで。成虫は夜行性で光に集まる習性もあるから、川の近くなら人家にも飛来するんよ」


 またまた長い解説が始まったと、俺は小さくため息を吐く。


 しかしこの蛹、見ていると確かにおもしろい。


 蛹と言えばチョウやガのように完全に全身を殻で包み込んでしまうイメージがあるが、こいつは動いていた姿のままコールドスリープをされたようで、まるで今にも歩き出しそうだ。


 ちょっとつついてやろうと、考えなしに俺は蛹に指を伸ばしていた。


「で、ヘビトンボの変わってるところは、蛹でも大きなアゴで噛みついてくるところなんやで!」


「へ?」


 俺が声を上げた直後だった。


 それまでじっとしていた蛹が、突如ハサミのような大顎で俺の人差し指をはさみこみ、そのままガブリと噛みついたのだ。


「ぎゃあああ!」


 予想だにしない激痛に、俺は手を振り上げる。


 蛹の大顎は俺の人差し指の肉に食い込んでいた。その力は強く、腕を振ってもぶら下がっているほどだ。土の上に尻もちをつき、何度か腕を上下に振り回して、ようやく緩んだハサミがぽろりと落ちる。


 かなり深く刺さったのか、指からはどくどくと血が流れ、あっという間に手のひらまで赤く染まってしまった。


 痛みよりもその流血具合にショックで背筋がゾクッとする。「ひえええ」と情けなくも震えながら声が漏れた。


「ちょっと待ってて!」


 パニック一歩手前の俺の隣で、川勝はリュックに手を突っ込んで素早く小さなポーチを取り出す。中には絆創膏や消毒液が入っていた。


「ほら、指見せて」


 不安げな顔を向けながらも消毒液片手に、しゃがみ込んだ川勝がそっと手を伸ばす。


 俺は止めどなく血の流れ出続ける指を素直に差し出した。


「しみるからね、我慢してや」


 川勝はそう言って俺の手首をつかむと、傷口に消毒液を垂らした。皮膚の内側からじわじわと痛みが走り、全身を駆け巡る。


 正直、噛まれたときよりも痛い。だがこれをしないと後で化膿する。俺は歯を食いしばって耐えた。


「すまん」


 消毒を終え、ガーゼで汚れを丁寧に拭き取る川勝に身を縮めて謝る。


 だが川勝は首を横に振った。


「いや、ごめんね。私が先に説明するべきやったわ」


 そんな風に言われたら余計に申し訳なく思うじゃないか。


 ガのなかまには振動を感知して反射的に動く蛹があることは聞いていたが、まさか噛みついてくる蛹がいるとは微塵も思わなかった。理科についてはそれなりに自信もあったが、この世は本当に不思議なことだらけだ。


 それにしても……。


 俺はちらりと目を上げた。俺の手をつかみ、せっせと絆創膏を巻く川勝。その細い指先の温もりとは逆に、川勝の顔は真剣そのものだった。


 何よりも目が行ってしまうのが、俯いて伏し目がちになった眼鏡の隙間から覗く瞳。じっと俺の指先を睨みつけるその目は、今まで見たことのないほど透き通って見えた。


 もしかしたら、普段からこいつはこんな目をしていたのではないだろうか。ただ俺が奇人川勝というフィルターを通して見ていたおかげで、ずっと気が付かなかっただけなのかもしれない。


 いつの間にか心臓の鼓動が速まり、喉の奥がにわかに熱くなっていた。


「よし、これで安心!」


 最後に絆創膏を巻き付け、指の傷はすっかり塞がれた。まだ少し痛むものの、物を握るのに不便な程度ではない。


「ありがと。ほな、こいつも捕まえ……あれ、どこいった?」


 今しがた振り落としたヘビトンボの蛹を探して、キョロキョロと地面を見回す。今の大騒ぎでどこかへ放り投げてしまったのか、せっかく見つけたのに見失ってしまった。


「ええよ、また見つけたらええし」


 落胆する俺に、川勝ははにかんで慰める。昆虫が絡めば周囲の見えなくなる奴だと思っていたが、実際は他人のことを第一に考えられる優しい子なのだ。


 その時だった。落ち葉まみれの地面をぴょんぴょんと跳びはねていた小さな何かが、屈んでいた川勝のシャツの裾にとびついたのだ。


「カ、カ、カ……」


 それを見て、笑顔を浮かべていた川勝の顔が急にひきつる。声も裏返り、顔色が一気に青ざめた。


「カエルぅうううううう!」


 川勝が立ち上がった。川勝のシャツの裾には、小さなアマガエルがひっついていた。森の中で暮らしているせいか、落ち葉や土とよく似た焦茶色の迷彩模様だ。


「お願い、取って取って!」


 川勝は開いた瞳孔をこちらに向けてぎゃんぎゃんわめきながらカエルの貼り付いた部分をこちらに伸ばす。白い肌にへそがちらちらと見えるが、俺だってカエルが大の苦手の身、周りの状況にかまっている場合ではなかった。


「無茶言うなよ、俺やってこいつは苦手やで!」


「男子やろ、なんとかしてよ!」


 ののしり合うカエル嫌いふたり。その間も川勝はシャツの裾を何度もバタバタと振った。


 そんな川勝の必死の抵抗で、カエルもついにシャツを離れて飛び跳ねた。だがあろうことか、カエルの飛び移った先は川勝の眼鏡、それも右側のレンズにぺったりとへばりついたのだった。


「あ――」


 一瞬だけ、地球の時間が止まった。俺も川勝も、呼吸をするのさえ忘れ、人のいないダム湖の畔で水の音だけが鳴り続ける。


 そして時は動き出す。


「あぎゃへあぐあぎゃああああああああ!」


 人間の言語とは思えない大絶叫だった。山の鳥が一斉に飛び立ち、ダム湖からも一匹の魚が跳び上がって大きな水音を上げた。


 直後、耳を塞ぐ俺の目の前で川勝は手を振り上げた。その時、手の甲が眼鏡を払い、川勝の顔から眼鏡だけが勢いよくポンとを弾き飛ばされた。


 そして勢きれいな放物線とともにふっとんでいった眼鏡は、そのままダム湖にぽちゃりと落ちて波紋とともに消えてしまったのだった。


「お、おい、お前!」


 すぐ近くで鳴り響いた大騒音に頭を痛めながらも、ぜえぜえと息を切らす川勝に俺は声をかけた。


「あかん、カエルだけは……ダメ……」


「いや、それよりも! 眼鏡、どうすんだよ!」


「へ……あ!」


 自分の顔を押さえ、ようやく我に返る。




「うう……全然見えへん」


「ええか、こっちやぞこっち」


 新緑のトンネルの中、俺は川勝の手を引いて元来た道を引き返していた。


 川勝の視力は俺の想像以上の悪さだった。乱視と近視を併発し、眼鏡が無ければ店の看板すら見えないレベルだ。


 足場の悪い場所では段差さえもわからず、俺の補助が無ければろくに前に進むことさえできない。おまけに行きの時よりも捕まえた昆虫の分だけ荷物は増え、俺の手提げカバンもその分だけ重くなっている。まるで介護の気分だ。


「てか川勝、昆虫は好きやのに何でカエルはあかんねん」


「幼稚園の頃、捕まえたトノサマガエルが掌の上で胃袋を吐き出してん。その頃からずっとあかんわ」


 まるっきり俺と同じ経験じゃないか。変な生き物ならどんと来い、な奴かと思っていたが意外ながら心の底から共感できる弱点を見つけ、なんだか嬉しくなった俺は「一緒やな」と小さく呟いた。

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