第三章 その1 宇治川ムシムシフェスティバル

 宇治川は京都府の南部を流れる一級河川だ。


 お隣滋賀県の琵琶湖から流れ出た瀬田川は、京都府に入ると同時に宇治川と呼び名を変え、山間部を抜けた後にやがて平地を貫く雄大な河川へと姿を変える。


 そんな宇治川の流れる宇治市は京都と滋賀の境界である山地と面しており、1日の寒暖差の大きさから良質な茶の産地として古くから親しまれている。


 土曜日、約束の昆虫採集の日だ。


 昼ご飯を食べて家を出た俺は京阪本線を中書島ちゅうしょじま駅で宇治線に乗り換え、そのまま終点の宇治駅まで到着した。ここに来るのは5年前に家族で平等院びょうどういんを訪ねたとき以来だ。


 改札を抜けるとすぐに川勝が立って待っていたので、俺は急いで駆け寄った。


「わざわざありがとうね」


「いや、気にせんでええよ」


 分厚い眼鏡の下でにかっと笑う川勝は、ジーパンにシンプルなポロシャツ姿とお洒落にはまるで遠い姿だった。おまけにリュックサックを背負い、さらに手提げの大きなカバンとかなりの大荷物だ。


 一方の俺は何も持ってこなくてもいいよ、と言われていたので小さなショルダーバッグに財布とスマホを入れただけの超軽装だ。


 なんだか申し訳なく思い、俺は川勝から手提げのカバンを半ば強引に譲り受ける。


「ほな、いこっか!」


 そう言って川勝は学校では見せたこともない笑顔で歩き出し、俺は半歩後を続く。


 宇治茶カフェやコンビニの入店する駅舎を抜け、晴天の下駅前ロータリーに出る。この駅はすぐ近くまで宇治川が流れており、水の流れる音がよく聞こえる。


 日本だけでなく海外からもやって来た観光客の集団を横目に、意気揚々と歩く川勝。だが俺は想像以上の居心地の悪さを感じていた。


 こうやってふたりで並んでいると、どう思われているのだろう。


 高校生の男女カップル? いや、それにしては出で立ちがおかしい。こんな勇ましい格好でデートなんて、そんなアウトドア派はうちの部にはいない。


 おまけに共通の話題が何も浮かばない。これでは遠足のバスで親しくもない奴と席が隣になって、妙な気まずさのまま目的地に向かうパターンと同じじゃないか。


「ところでさ」


 この雰囲気をどうにかしたいと、俺は考えるよりも先に話しかけた。川勝が「ん?」と振り返る。


「今日はどんな昆虫を捕まえるんや?」


 至極まっとうな質問だろう。よくやったぞ、俺。


「今日はね……と、いたああああ!」


 言いかけた川勝が突如、叫び声とともに走り出した。


 青信号で良かった。川勝の小さな身体は横断歩道を疾風のように突っ切り、俺は荷物を抱えたまま慌てて追いかけた。


 早速目当ての虫を見つけたようだ。トシちゃんの話したように、あいつが道の真ん中までアケビなんちゃらとかいうガを追いかけて出たというのはやっぱり事実なのだろう。


 そんな川勝の駆け寄ったのは、川の近くに植えられている松の木だった。水生昆虫と聞いていたが、水中に生息する種ではないのか?


「ひやっはあぁぁぁぁぁぁぁ! たくさんおるぅ!」


 松の木のすぐ傍で歓喜の叫びを上げる川勝。道行く人々は皆驚いてその姿を一目見ると、相手にしてはいけないと急ぎ足で立ち去っていく。


「どうしたんやおま……て、うわぁ」


 川勝に追いついた俺はちらりと松の木に目を移した途端、思わず声を上げてしまった。


 遠目では松の緑の葉に混じって枯れ葉が連なっているようにしか見えない。だがこの枯れ葉、よく見ると動いているのだ。


 そう、茶色い枯れ葉のように見えたものはすべて昆虫だった。細長いからだと茶褐色のはねに細長い触覚を持った、一見ガのようで違う小指ほどの大きさの虫たちが何百何千と集まり、うごめいていたのだ。


「なんや、こいつら」


「トビケラよ! 正確にはシマトビケラ科のオオシマトビケラ!」


 川勝が松の木の枝を軽く握り拳で叩く。


 直後、木に群がっていたトビケラの大部分が飛び立ち、風に巻きあげられる木の葉のように俺たちの周囲を飛び回る。


「うわああああ、揺らすな! 鱗粉りんぷん落ちるやろ」


「違う、この子たちに鱗粉は無いで! 翅に色がついて見えるのは表面に小さな毛が生えているから!」


 トビケラの渦の中、川勝が語気を強める。こんな得体のしれない昆虫をこの子って呼ぶ女子、初めて見た。


「共通の先祖から進化したと考えられているけど、ガは鱗翅りんし目、つまりチョウ目。トビケラは毛翅もうし目っていう、また別の分類になるんやで。チョウのなかまはよく知られているように陸上の植物に卵を植え付けるやんね。でもこのトビケラのなかまが産みつけるのは水中、しかも幼虫は石の間に糸を張って巣を作るねんで」


「てことは……宇治川から発生してんのか、こいつら?」


「そやで! 宇治川は流量の割りに水質が良くて流れもちょうどよいから、水底の環境がこの子らの生育にすごく良いねん。せやからこんな人家の近くでも、たくさん発生すんねん」


 目を輝かせて解説する川勝。ある程度覚悟はしていたが、さすがにこの姿は少し変わってるとかそんなレベルではなかった。


 市民の皆様には迷惑な話だが、こいつにとってはここは楽園、ボーナスステージのようなものらしい。


 そんな彼女のシャツの胸元に止まった一匹のトビケラが止まる。川勝はそれに気付くと、「あ、かわいい」と言いながら細い指で触覚をつんつんとつつくのだった。


「『虫愛づる姫君』なら、こいつとは絶対に話が合うだろうな……」


 古文の授業で聞いた一文を思い出し、俺はぼそっと漏らした。




「あひゃひゃひゃっはあ!」


 大量の羽虫を蹴散らしながら、奇声とともに網を振り回す女子高生。世紀末でもなんでもない、21世紀の日本の光景だ。


 川勝の持ってきた虫取り網はおもちゃ屋で売っているちゃちな物ではなく、折りたたみ可能でさらに最大2メートル近くまで伸びるプロ仕様だった。


 宇治川は駅前からさらに上流へと進むと平等院や茶屋街など観光名所が密集しているが、それは駅から宇治橋を越えた対岸の話。京阪宇治駅を降りた後、向こう岸に渡ることなくそのまま上流へと歩いていくと、あっという間に木々生い茂る谷間となる。


 ここは観光客の姿もほとんどなく、登山や釣りが目的でなければまず来ようとも思わないだろう。


 人の姿が少なくなると、いよいよ川勝は本性を包み隠さなくなってきた。木々の間のわずかな隙間にも目を光らせ、気になればすぐに網を振って昆虫を捕まえる。そして後ろからついていく俺は5個も持ってきた虫かごに種ごとにそいつらを放り込んでいく。


 すでに虫かごのひとつはトビケラのすし詰め状態となっており、別の種を求め俺たちは宇治川を遡っていたのだった。


 正直、さっさとこの場を離れたかった。まあ、俺も有機物の分子構造式を見るとわくわくする、と言うとよくドン引きされるので川勝の気持ちはわからないことはないまでも、こんな奇人と同類だと思われると恥ずかしい。


「さあさあ、もっと上流まで行こ! 天ケ瀬あまがせダムまで行ったら、もっとたくさん珍しい昆虫見つかるかもしれへんで!」


「マジかよ」


 このまま道を進み続ければ確かに天ケ瀬ダムなのだが……そんな場所までこいつと一緒に虫を捕まえながら歩くなんて、新手の晒し刑だろうか。どうかこれ以上、釣り人とすれ違いませんように。

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