破:教師アンナ=ストレーム


 生きた者が死んでいく。

 死んだ者が食われていく。

 老若男女、誰も彼も、無関係に、無情に、生を略奪されている。

 今まで何の気兼ねもなく生きてきた世界が、ひっくり返ってしまったようだった。

 教師アンナは魔術学校の寮に残った生徒達を誘導しながら、魔術学校の敷地から街道へと出た。

 魔術学校が、悪魔に侵されている。

 その様をアンナは見届けることしかできなかった。

 あそこで過ごした日々は短かったが、それでも愛着がなかったわけではない。

 学校の教室よりも自宅の研究室の方が似合っていると思っていた。が、教師という職業は退屈ではなかった。自分よりも幼く、頭の悪い子供を何人も相手にしていても、苛立ちよりも先に根気が湧いていた。

 その生半可な心構えを正してやろう。

 その真っ白な頭に知識を叩き込んでやろう。

 その果てしない夢に力添えをしてやろう。

 沢山の思い出はない。しかし大切な思い出はある。

 思い出の場所は悪魔によって、赤いインクで汚されていた。

 その光景を目の当たりにしたアンナは、どんな愚かな生徒を相手にしたときよりも、激しい怒りを覚えた。

 赤いインクは――生徒の血。

 自分の血が煮えるほどの激情がアンナの胸中に産み落とされる。

 そんなとき、

「アァーハッハッハ! 逃げろ逃げろ! 止まってる獲物を狙うほど、つまんねーもんはねーからな!」

 一匹の悪魔が飛んできた。

 悪魔は片手に三つ叉の槍を持ち、生徒達に向けている。

「さっきは三匹同時に串刺しにできたからなぁ……次は四匹だな!」

 舌なめずりをし、槍を構えた。

 同時、アンナは足を止め、狙いを定めるように人差し指を悪魔に突き出した。

「やらせません! 水の精霊・ウンディーネ!」

 アンナの指先から、矢の形をした水が現れる。

「頼みます!!」

 声が撃鉄となり、水の矢が発射された。

 一線の矢は旋回しながら悪魔の眉間に突き刺さった。

「ギィイイイイイイイイ!」

 失墜する悪魔。

 しかし、安心はできなかった。

 新たに二匹の悪魔がこちらに近づいてきているのだ。

「炎の精霊・サラマンダー! 宿敵を焼き尽くしましょう!」

 四つの火球ファイアーボールが、宵の町を照らす。人の頭ほどある火炎弾を、アンナは躊躇無く放った。

 火の粉をまき散らしながら、火炎弾は悪魔との距離を詰め――爆発する。

 周囲の生徒が悲鳴を上げるが、アンナは走れと叱咤する。

 彼女の視線はまだ爆発し、黒煙が漂う空に定められていた。

 汗が頬を伝い、息が上がる。極度の緊張のせいで、呼吸するのでさえ辛かった。

 自分一人の命ではないのだ。

 背後(うしろ)には生徒達がいる。

 ただの研究者ではなく、教師としてアンナは戦うことを意識していた。

 ――絶対に死ねない。

 生徒に手出しをさせない。

 気を引き締めた瞬間、煙をまとわせた悪魔が飛び出してきた。

 数は一匹。

 すばやく、アンナは迎撃に移る。

「空気の精霊・シルフ! 遊んでやりなさい!」

 右腕を縦に振り下ろすと、空気の刃が発生する。不可視の刃は周囲の空気を巻き込みながら、風と化して悪魔に殺到し、相手の片翼を両断した。

 悪魔はバランスを崩し、地面を滑走する。

 その隙にアンナは次なる攻撃を加え、相手の命を奪った。

 目の前で絶命する悪魔を見ても、アンナは心を痛めるようなことはない。むしろ、不思議と高揚感が心を支配していた。

 悪魔に魔術が通じる。培っていた技術は無駄ではなかったのだ。その達成感にアンナは笑みを作りながらも、その次の瞬間には自分の異常性に寒気を感じた。

 ――私は、今、何を……?

 敵を殺して、満足感を得ていた自分がいる。

 目的は殺すことではなく、守ることであったはずなのに……。

 感覚が麻痺している――否、感覚が毒されている。

 戦場という異常な空間が、その空気が心をおかしくさせているのだ。

「……狂っている」

 こんな世界、歪んでいる。

「はぁい、そこの魔女さん。悪魔の特技は何でしょう?」

 突如として聞こえてきた声に、アンナは我に返った。

 声は頭上から。

 反射的に視線を上げると、真上から剣を持った悪魔が飛来してきた。

 煤だらけの悪魔は、先ほどアンナが爆撃したはずの――

「正解は不意打ち、でしたぁ!」

 鮮血が飛び散る。

「――――っ!」

「キャハハハハハハハハ! あんた、ラッキーじゃん! 本当だったら、頭から真っ二つになってたのに! 良かったねぇ! キャハハハハッ!」

 激痛は背中を中心として広がっている。

 即死しなかったのは、偶然ではなかった。

 とっさに空気の精霊シルフを使い、自分の位置を前へとずらした。一撃死は免れたものの、出血は軽視できない。

 痛みによって、魔術の使用にも影響がでてくるだろう。

「くっ!」

 それでも、生きている。

 まだ戦える。

「火の精霊・サラ――」

 右手を突き出し、相手を燃やそうとしたとき、

「ダァメ。させない」

 手のひらが、深く裂かれる。

 激痛が思考を打ち壊した。

「ああああっ! あああああああああああああ!」

 アンナは断末魔を上げながら、血に染まる右手を押さえる。

 何が起こったのかわからなかった。

 相手は動いていない。なのに、この右手は“見えない刃”によって刻まれていた。

「キャハハハハハハハハハハハ! 悪魔を甘く見ちゃいけないよ! あんた達が使ってる魔術! そもそも、私達の技術でしょうが! 悪魔の技術、つまり魔術ね! 残念だけど、私達の方が何倍も魔術をうまく使える! どう? 悔しい? 自分の取り柄が、相手に追い越されてるのって悔しいよね!? キャハハハハッ!」

「ひ、火の精霊・サラマンダー! 焼き殺しましょう!」

 火炎弾を放つと同時、悪魔も同じ火炎弾を放ってきた。

 アンナと悪魔の間で爆発が起きる。

 爆風に煽られたアンナは背中から地面に倒れた。背の傷を打ち付け、突き刺すような痛みが全身を駆ける。

「あ……ぐぅ……!」

 寝返りを打ち、身を縮まらせる。消えかける意識を必死に保ち、薄く目を開いた。

 目の前には悠然と立つ悪魔の姿があった。

「めんどくさっ。人間って、生きたまま食べるのが一番美味しいんだけど、あんた面倒ね。ぶっ殺してから食うことにするわね」

 剣が持ち上げられる。

 痛みで体の自由を奪われたアンナは、ただただ身を捩ることしかできなかった。

 ――殺される。

 その事実を前に、アンナは耐えきれず悲鳴を上げた。

 剣が振り下ろされる。

「うるせぇな……二日酔いなのに、起こしやがって……」

 甲高い音が鳴り響き、刃が何者かによって弾かれた。

 これほど間近に接近していたのか全く気づけなかった。

 一人の浮浪者らしき男が、すぐそばに立っている。

「に、人間!? いつのまに――」

「うるせぇつってんだろ!」

 悪魔が驚きの声を上げた瞬間、男は悪魔の顔面に鉄拳を打ち込んだ。

 アンナが苦戦していた悪魔をたった一撃。それも何の技術もない拳だけで倒してしまった。

「こっちは、二日酔いで頭がガンガンすんだよ! このクソ悪魔が!! 死ね!!」

 すでに動かなくなった悪魔に暴言を吐き捨て、男――ギードはアンナへと目を転じる。

「おう、おめぇは……えっと……あぁ、そうだ。ルシアの教師だったな……んで、名前は……あー、頭いてぇ」

「アンナ……です」

「そうそう。別に忘れちゃいねぇからな。アンナ=ストレーム。五番目の元素を見つけたフレドリカ=ストレームの子供だよな」

 そう言いつつ、ギードはしゃがみ込んで、アンナの傷を看た。

「傷は――浅いな。待ってろ。今、錬金術師お手製のエリクシール軟膏を塗ってやっからよ」

「そんなことより……生徒達をよろしくおねがいします」

「んなもん、もうとっくの昔に俺の仲間が保護した。ほら、塗るぞ。いてぇだろうが、我慢しろよ」

「っ!」

 乱雑な手つきで背中の傷を塞ぐように軟膏を塗っていく。

「この軟膏、色は最悪だが治りは早いからな」

 不思議なことに、熱を持っていた背中の痛みがすぐに引いていった。

 右手の傷も同様に薬を塗られる。

「おい、立てるか?」

「もう大丈夫です」

 苛まされていた痛みが消えたことにより、アンナは傷を忘れたかのように立ち上がった。

「無茶はすんじゃねぇぞ。派手に動けば、また痛みが戻ってくるからな」

「ありがとうございます、エクソシスト総長さん」

「礼は生き残ってからにしろ。まだクソ悪魔は、五万といんだからな」

 空を指さし、ギードは言った。

 夜空を覆う悪魔の大軍は、いまだにアンナ達の頭上に止まっている。それはまだ本格的な侵略ではないことを示していた。

「急ぎましょう。港の船で生徒達を逃がさなければなりません」

「……それなんだがな」

 ギードが苦虫を噛み潰したような顔になる。

「同盟国の英国側が突然入港を禁止して、出港した船が立ち往生を食らってんだ」

「英国が? まさか、私達を見捨てたとでも……? 同盟の条文では、悪魔との戦いで助勢を惜しまないと書かれていたはずです! 英国は同盟を破棄するつもりなんですか……!」

 目の前が真っ白になる。

 この国では、唯一の逃げ道が海にしかない。その退路を確保してくれるのが同盟国・英国だ。

 市民の一時的な保護と英国海軍の支援が来る。そういう約束のはず、それなのに……

「英国の奴らは何か企んでやがる。精霊塔に人を集めて“何か”をするつもりだ」

 ギードの表情から、その企みが良くないことであることは分かる。

「おめぇは港に行け。海に出れなくても、あそこの守りは万全だ。おめぇの大切な生徒もそこにいるだろうよ」

「あなたは精霊塔に行くつもりですか?」

「嫌な予感がすんだよ」

 まるで英国のやろうとしている事が分かっているようだった。

 ふとアンナの脳裏に、ある仮説が思い浮かぶ。

 英国の不審な行動、精霊塔、ギードの奔走、そして悪魔の襲来。

 わずかな情報でアンナは、一つの結論を見出した。

 もしアンナの結論が正しいのなら、これから起こるシナリオが手に取るように分かる。

「まさか、英国は――」


+++


 精霊塔には何十人との騎士達が陣を組んで守っている。

 その精霊塔の一階部分に当たる聖堂に、避難した人々が集まっていた。

 聖堂内に漂う空気は人々のため息を吸い込むように重い。

 先の見えない未来が人々の心を病ませているのだ。

「ねえ、マルティ。やっぱりいないよ」

 聖堂の長椅子に座るジネットは、ずっとルシアの姿を探していた。

「……」

 一方のマルティナは目を瞑り、何かを考えているようだった。

「まさかルシア、逃げ遅れて――」

「悪魔に食われた、と考えた方が妥当ね」

「――っ!」

「英国騎士の話からすれば、港への通路は悪魔に封鎖されている。あの子一人で、港に行けるとは思えないわ」

 淡々と告げるマルティナ。しかし、その声は震えていた。

「私があのとき手を離さなければ……!」

 マルティナの背が丸くなり、強く握りしめる手が白ばむ。

 後悔の念が胸を締め付けてくる。

 なぜもっと力強く握ってやらなかったのか。

 自分を責める言葉がいくつも浮かんで蓄積していく。

 ――私は後悔しかできないの?

 自分のことを屑だと思えた。

 魔術学校の座学では主席に座していたのに、自分は愚かな選択ばかりを犯す。ルシアを傷つけるのも飽きたらず、あろう事か殺してしまった。

 ――不可抗力?

 そんなものじゃない。あれは完全に自分のミスだった――いや、ミスと呼ばれるものでもない。

 ルシアの手を離す直前、混沌とした人混みの中でマルティナは手を繋ぐルシアのことなど考えていなかった。頭は自分が助かることだけ。

 だから、自分はルシアを切り離したのだ。

 我が身の大切さ故に!

 一秒でも早く悪魔から逃れるために!

 友達を蹴落とした!

「最悪よ……私」

 自分の命を守るためならば、それは正しい選択だった。しかし、友達を見捨てて生き残った命に何の価値があるのだろうか。

 道徳的感性から、マルティナはそんな生き方は汚れていると思えた。

「探しに行ってくる」

 やけに落ち着きある澄んだ声は、ジネットのものだった。

「ジネット、何を考えてるの? もうルシアは――」

「勝手に決めないでよ! ルシアがまだ死んだとは決まってない!」

 噛みつくように、ジネットは怒鳴る。

 その気迫にマルティナは喉まで出かかった言葉を呑んでしまった。

「少しでも生きてる可能性があるなら、あたしは助けに行く! どこかで隠れてやり過ごしてるかもしれない! だから! 自分で可能性を潰すようなことは、あたしは絶対に嫌だ!」

 声を掠らせるほど強く、ジネットは主張した。

 ジネットの言いたいことはよく分かる。だが、その考え方は眩しすぎた。

 理想的すぎる。聖人君子を目指しているようなものだ。

 しかし――マルティナにはジネットを否定できる言葉を持ち合わせていなかった。

 ここでジネットを止めたとき、おそらく自分は後悔する。その可能性を恐れてしまった。

 そして何よりも、ジネットがここまでルシアに固執する理由を知っていたから――口を開けなかった。

「ここで止まれば、生き残れるかもしれない! だけど! あたしは利口な生き方なんて真っ平ごめん! 良い子でいても……結局、何も出来ないまま失うんだもん……」

 強かった口調が急に弱々しくなる。

 ジネットの目には涙が浮かんでいた。

 その涙の理由が痛いほど分かる。

 彼女も、またルシアと同じくエローラの血を引いているのだ。エローラとしての血は薄く、家族は魔術とは関係のない人間であったが、国はジネットの両親を結界の向こう側に追いやった。

 同じなのだ。ジネットもルシアも何も出来ずに大切な人を奪われた。

『良い子にしてるんだよ?』

 両親に言われた最期の言葉は、いまも彼女の心を束縛している。

 良い子なんかになりたくない。悪い子にしてるから早く帰ってきて――彼女の悲痛なメッセージは届くことはない。

 それでもジネットは良い子にはなりたくなかった。

 いつか帰ってきてくれると信じて……。

「行くよっ。あたしはルシアを助けに行く!」

 今にも飛び出してしまいそうなジネットに、マルティナはかける言葉を選んでいると、不意に聖堂の扉が開かれた。

 避難者の視線が扉へと向く。

 そこには二人。英国の騎士団副団長と、健全なルシアの姿があった。

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