破:すべてが始まる夜

 獣のような咆哮によって、清六と珠代は自室の窓から空を見上げた。

 南の夜空は、まるで靄がかかったような光景だった。

 空に“何か”がいる。

「な、何なのでござるか……?」

 得体の知れない存在を目の当たりにして、悪寒が背中を走る。

 靄の正体が分かった途端、清六は目を疑う。

 それは虫の卵が、一斉に孵化した光景に似ていた。

 悪魔達が、空を制している。

「あんな数の悪魔、どうすりゃあいいんだよ」

 珠代が弱気な言葉を漏らした瞬間、耳をつんざく警鐘が鳴り響いた。

 鐘が、戦を知らせる。

 悪魔の咆哮と混じり合う戦火の産声は、町を包み込んだ。


+++


 浄化正軍を構成する五つの部隊の一つ、戦術歩兵隊は現在の技術から見れば“非力な人間”が集まっている。

 彼らには、一切の魔術の素質がない。

 彼らの武器は、錬金術から派生した“科学”である。

 技術的に科学は魔術に劣っている。故に、彼らは非力な人間であった。

 しかし、それは技術的な面だけの話。

 戦術における科学の力は無限に広げられる。

 悪魔にだって引けを取らない――そう思って、今まで戦術歩兵隊として訓練を積んできた。

 戦術歩兵隊の一個中隊、隊長を任されたマルセル=ブラロー軍曹は、目の前の光景に我が身を引き裂かれるような苦痛を感じた。

 対悪魔用の布陣は完全。

 市街戦のシミュレーションは万全。

 人材、武装は十全。

 なのに……そうであるはずなのに。

 ――なぜ後退しなければならない……?

 マルセルの部隊は悪魔の注意を引く任務を命じられていた。

 民が一人でも多く逃げれるように前線へと出て、悪魔を一匹でも多く討ち取り、一秒でも長く任務を遂行し続ける。

 だが、マルセルの部隊は任務を遂行することは出来なかった。

 現在の部隊は壊滅状態で、残る人員は限りなく少ない。

 理由は至極単純。戦術は通じたが、戦術を凌駕するほど悪魔の数が多いのだ。

 その怨敵である悪魔の姿は多種多様だった。

 ただ共通することと言えば、人の肌を炙ったような焦げ茶の皮膚をし、背には翼が生えている。後は羊のような角の有無や太さや形の異なる尾で、個々の容姿の差別化が明確になっていた。

 そんな悪魔達に向けて小銃を撃つ。

 狙いなど定めていない。牽制のためだけにマルセルは後退しながら、小銃のトリガーを引いていた。これほど無意味な行為はない、と奥歯を噛みしめて。

「うあああああああ!」

 隣にいた仲間が、二匹の悪魔に宙へと持ち上げられる。

 他の隊員は自分の身を守るのに手一杯で、瞬時にフォローできる人間は自分しかいなかった。

 マルセルが動こうとする。

 しかし、

「やぁ! 助けてぇ!」

 逃げ遅れた女性が先ほどの仲間と同様にさらわれた。

 自然と向けた目が、女性とぶつかる。

 涙で真っ赤に腫れた目。その瞳は絶望と恐怖に染まっていた。

 その一瞬、マルセルは躊躇ってしまった。

 仲間の命と市民の命。

 仲間意識が働こうとすれば、人道意識が邪魔をする。

 弱い者を守るのが兵士の役目だが、今の任務は市民を直接守るのではない。敵の注意を引くことなのだ。

 一秒にも満たない葛藤の後、銃口は敵を定めた。

 撃墜。

 地面に落ちたのは、悪魔と――女性だった。

 すぐに照準を切り替える。しかし、そのときには仲間は事切れていた。

 貪り、食われる仲間の体。

 憤りとやりきれない思いが、マルセルの胸を抉る。

 一瞬でも迷わなければ、仲間を助けられたかもしれない。

 先に仲間を助ければ、両者を助けられたかもしれない。

 市民を守りたいという道徳心に突き動かさなければ――と、穴の空いた柄杓で水を掬うような考えが生まれ続ける。

 それでも彼は動いていた。

 後悔は、後にしなければならない。

 今はせめて自分の出した結果を守る。

 泣きじゃくる女性を叱咤し、起き上がらせる。

 その間にも悪魔は、マルセルの前に飛来してきた。だが、すぐに襲ってくることはせずに下卑た笑みを浮かべる。

「ウヒャッ! 人間! 取り引きしないか!? 俺、女の肉が大好きなんだ! というわけで、その女を寄越せば、お前の命を保証してやる! どうだ!? 他人の命一つで、自分が生き残れるんだ! いい話だろう!?」

 返事の代わりにマルセルは、撃鉄を打ち鳴らす。しかし、悪魔はひらりと銃弾を躱した。

「おいおい! そりゃあないだろう! こっちは優しさで言ってやってんだからよ! ほら、周りをよく見ろ! もうお前とそこの女以外、生きてる人間はいないぜ!?」

 悪魔の言葉に視線を周囲に向ける。

「……っ!」

 声が出なかった。

 周りに立っている人間が一人もいない。

 地面に伏して、血溜まりを作る大量のアレは、つい先ほどまで生きていたはずの――

「ひっ!」

 女性が息を吸うような悲鳴を上げた。

「条件を一つ付けるぜ。その女を引き渡して、俺達を沢山の人間が集まる場所に連れていけば、お前を見逃してやる。何なら、お前の家族も助けてやってもいいぜ?」

 悪魔の目が弓になる。それは加虐的で、この状況を楽しむ者が作る表情だった。

 わらわらとマルセルの周りに、悪魔が集まり始める。

 逃げ道は断たれた。

「命は惜しいだろ? 安心しろ。これは契約だ。悪魔は契約を交わした者を裏切らない。絶対に、だ」

 甘味のような問いかけは道徳を踏みにじり、人間の生存本能に直接囁かれる。

 交渉に応じるのは簡単なことだった。

 女性の手を引っ張り、悪魔に突き出せばいい。

 強い誘惑が、マルセルの心を揺さぶる。

 誰だって我が身は可愛い。

 誰だって死にたくない。

 誰だって――。

 聞こえもしない誘惑が、マルセルの道徳心を犯していく。

「ウヒャヒャヒャッ! ほら! 渡しちまえよ! 誰もお前を咎めはしない! みんな死ぬよりか一人だけ死んだ方が賢い選択だからな! さあ! その女を渡せ!」

 マルセルは女性の腕を掴む。

 渡してしまおう。

 生にしがみつき、惨めに生きていく――そんな生き方も悪くはない。

 もう沢山だ。

 プライドを引き裂かれ、仲間を殺され、悪魔に良いように弄ばれている。これ以上の地獄はなかった。

 ならばせめて、自分と家族の命だけは守ろう。両親がいる。結婚八年目の女房もいる。ようやく授かった娘もいる。せめて……一人の女性を守れなくても、自分の幸せだけは守りたい。

 女性を引っ張ろうとしたが、マルセルは彼女が自分の服を強く握りしめていることに気づいた。

 服を引きちぎらんばかりに掴み、小さくなって震えている。

 その細い腕一本に――失いかけていた誇りを繋ぎとめられた。

 たとえ、それが正しい選択であっても、自分を裏切ることは死ぬことよりも辛いことだ。

 自分は今まで何のために技術を磨いてきたのか。

 自分は今まで何のために戦術歩兵隊に所属していたのか。

 解はあった。

 だから。

「任務を続行する」

 小銃を握りしめ、女性に囁きかけた。

「俺が悪魔の注意を引きつける。その間にアンタは逃げろ」

「え……?」

「行け!」

 正面の悪魔に射撃。

 相手が回避運動をしたのと同時にマルセルは女性の腕を引っ張り、前へと送りだした。

 女性に近寄ろうとする悪魔に銃弾を撃ち込む。

 拙い走りでも女性の背は確実に小さくなっていく。

 しかし、マルセルにはその女性を最後まで見届けることはできなかった。

「かっ……!」

 衝撃が走る。

 視線を下ろすとマルセルの胸には三つ叉の槍が突き刺さっていた。

 世界が闇に染まっていく。

 それでも、マルセルは心臓の鼓動が止まる最期までトリガーから指を離すことはなかった。


+++


 反響する悲鳴、砲音、咆哮、騒音、怒声。

 目の前の光景は、異世界に紛れ込んでしまったかのようだった。

 生まれ育った町並みが、見慣れない遠い町のもののように感じる。

 空が見えない。町の上を覆うのは悪魔の絨毯。頭上にとどまる悪魔達は、まるで人々が逃げまどう様を空から眺めているようだった。

 南部から港へと繋がる一本道を、人々は我先にと進んでいく。

 その流動する人々の中にルシア達の姿があった。寝間着姿にローブを羽織っている三人――ルシア、ジネット、マルティナ。

 彼女達は逃げまどう人の群の中でも後方にいた。

「もうっ……足が……!」

「ルシア! もうちょっとだよ! 諦めちゃだめ!」

「人混みから外れたら危険よ!」

 ジネットとマルティナの叱咤により、ルシアは歯を食いしばって痛む両足に力を入れる。

 足がもつれそうになったが、とっさにマルティナがルシアの手を掴み、バランスを保たせた。

「しっかりしなさい!」

「う、うん」

 力強く握られた手はルシアの不安を少しだけ拭ってくれた。

 しかし、次の瞬間、一陣の風が吹く。一匹の悪魔が飛来し、鳥が魚を捕食するように男性を掬い上げた。

 金切り声が空へと打ち上がる。

 男性の悲鳴が止むのと同時に、赤色の雨が降った。

 赤く、粘り気のある雨粒はルシアの頬に付着した。

「ひっ!」

 恐怖は一瞬にして周囲へ伝播する。真水に焼け石を放り込んだように、人々が恐怖に染まった。

 押し合い圧し合いの混沌が生まれ、人の波がルシア達を呑み込む。

 後ろから押され、

 脇から突き飛ばされ、

 繋いでいた手が解かれた。

 体のバランスが崩れる。

 いけない、とルシアは思いながらも疲弊した体は言うことを聞かない。

 手のひらと膝をすらせ、転倒した。

 痛みに身をよじらせる。だが、地面に小さくなるルシアの背を誰かが踏みつけた。

 息が詰まり、地面に頬を打ちつける。腕を付き、起き上がろうとするが、それを許さぬように背を蹴りとばされた。

 激痛。

 ルシアは痛みから逃れるように、ただただ身を縮まらせる。頭をかばい、目を瞑って身を震わせた。

 痛い。

 痛い痛い痛い痛い痛い!

 何度も助けてと叫んだ。

 何度もやめてと怒鳴った。

 それでも、人々はルシアを無視して、踏みつぶし、蹴りとばしていく。

 長い苦痛の時間は人々の声と共に消えていき――

 悪魔の咆哮だけが残る。

 刹那、ルシアは安堵よりも先に泡立つような感覚を味わった。思い出されるのは、マルティナの言葉。

 ――人混みから外れてはいけない。

 はっとして、ルシアは顔を上げる。

 一本道にはゴーストタウンに迷い込んでしまったかのようにルシアしかいなかった。先ほどまで一緒にいたジネットとマルティナの姿もない。

 真っ白に焼き付く思考。

 そんな彼女の前に、翼の羽ばたく音が聞こえてきた。

「逃げ遅れた子羊ちゃん。美味しく美味しくいただいてあげますから、逃げちゃいけませんよ」

 死を携え、一匹の悪魔が降り立つ。その手に握りしめているのは、苦悶の表情を浮かべた人間の生首。だらしなく開いた口から舌が垂れ、大きく見開かれた目には、あるべきはずの眼球がなかった。

 この世のものとは思えない、その異常性をルシアは真っ正面から見てしまう。

 意識が狂気に浸食される。

「いぃ、やあああああああああああ!」

「ん~、甲高くて良い響き……」

 恍惚とした悪魔が生首を手放して、頬に手を当てる。

 グチャリと湿り気のある音を立てて、生首が地に落ちた。

 首が転がる。

 死が転がっている。

「ああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

「これはこれは悪魔も聞きほれる美声ですね。愛らしい手の小指を食べたら、どんな声で鳴いてくれるんでしょうかね」

 赤く染まった手が突き出される。

 半狂乱になったルシアは腕を振り回して抵抗するものの、意図も容易く右腕を掴まれてしまった。

 殺される。殺される。殺される。

 コロされる!

「いただき……」

 すべてを飲み込みそうな口が開く。

 肉を削ぐような歯を覗かせ、蛇のような舌がヌルリと這い出てきた。

「ま、す!」

 口が閉じられる瞬間、悪魔の口から剣が生えた。

 白刃は赤黒い鮮血を滴らせ、悪魔の後頭部から口外へと貫いている。

「あ……かっ……?」

 串刺しにされた悪魔は、舌をも両断する白刃に視線を向ける。

「後ろから失礼します。淑女をお守りするのが、僕の役目ですので、不意打ちという騎士らしからぬ事をさせていただきました」

 悪魔の背後に立つ男は、凛とした声を発した。

「ルシア=エローラさん、目を閉じていてください。少々、お見苦しい光景になりますので」

 呆然とするルシアは、男の言葉をうまく理解できず――

「ひっ!?」

 悪魔の頭部を両断する光景を、目に入れてしまう。

 飛散する血と脳漿。

 朽ち果てる悪魔。

 倒れた悪魔の代わりに見えてきたのは、金髪の騎士だった。

 騎士の剣には大量の悪魔の血がこびり付いている。が、まるで血は蒸発するように淡い霧となって消滅した。

「お怪我はありませんか?」

 悪魔に残虐な事をしておきながら、騎士タリス=オールドリッジは異様なほど爽やかに問いかける。ルシアの答えを待つことなく話し始めた。

「――ふむ、怪我はないようですね。ここは危険ですので移動します。港へのルートでは悪魔達がはびこっているので、一度精霊塔に向かいましょう」

 タリスの柔和な笑みに、荒立っていた気持ちが落ち着いていく。

「そ……そこにいけば安全なんですか?」

「安心してください。我ら、英国騎士団が名誉と誇りをかけて、悪魔からお守りします」

 優しく、手を握られる。

「さあ、行きましょう」

 すがるような気持ちでルシアはタリスの誘導に従った。

 タリスの進むスピードは速い。それでもルシアが足をもつらせる事はなかった。

 街道に次第に人影が見え始める。だが、市民ではなく、兵士――浄化聖軍の歩兵戦術隊の人々だった。

「マルセルの部隊が全滅……本当なのか?」「あぁ。我々だけでなく、錬金術師や魔女も苦戦しているらしい」「防衛線を下げるしかあるまい。ラインBからラインCまで後退する」「相手は空からやってきてんだ。今更、防衛線など関係ないぞ」「けど、それにしても奴らの動きは読めないわね……人の動きは港に集中しているのに、西部の港には一匹も悪魔がいないじゃない」「これはおそらく誘導。港に集中した人間を一網打尽にするつもりなのだろう」「これじゃあ、狩りじゃねぇか! あいつらにとって俺たちは腹を満たすだけの餌でしかねぇのかよ! クソッ! この350年! 俺たちは何をしてきたんだ!」

 通り過ぎ様に聞こえてくる悲観の嘆き。

 ルシアは足下がふらつくような不安に煽られた。

「大丈夫ですよ。人間は悪魔に負けません。彼らは悲観していますが、浄化聖軍の中でもエクソシスト連合と英国騎士団が功績を挙げています。特に、あなたの伯父――ギードさんなんて千の悪魔を相手取っても、勝ち残れる強者ですからね。あの人が、人間でいてくれて助かりました」

 普段、三度の飯よりも酒が好きな伯父であったが、ここぞというときはいつも頼りになった。

 誰よりも自分を理解してくれた唯一の親類――その人が戦いに身を投じている。

「死なないで……」

 空へと向けて、切なる願いを呟く。


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