第4話 シガー・アンド・スパイス

 瞼に、きらきらと揺れる光が透けていた。

 目を開けると、それは葉の間を抜ける木漏れ日だった。重なる枝葉の隙間から差す光が、四囲を校舎の壁に囲まれたこの狭い空間の、狭い空を透かしつつ私の顔をやさしく撫でていた。

 

 私は体を起こす。乾いたコンクリートに接していた服の背からぱらぱらと砂礫が散る。


 旧校舎の中庭だった。結構広いくせにどこも人がひしめくこの学校の中、ここだけぽっかりと人の視線から解放されることができる空間。私たち三人のお決まりの溜まり場。その中央に一本、立派な樹がそびえて、天からも私たちをかくまうように枝を広げている。

 

 そうだ、まだお昼休みだった。お弁当を食べ終えて、満足してちょっと横になったら眠ってしまったのだ。なんだか……そう、


 今日はすこし、気疲れがして。


「光子ちゃん、煙草ちょっとけむいな」

「いや、なら、離れなさいよ……」

 

 私は声の方に顔を向ける。いっちゃんとみっちゃん。いつも仲よい二人が、今日は特にぴったりくっついて離れずにいる。どちらかといえば――今日は、いっちゃんの方が。




 いっちゃんは今朝、みっちゃん襲撃の話を聞くなり「これからは毎日おうちまで送っていくから」と宣言し、クラスの異なる授業中のほかはずっと、みっちゃんのそばで腕に手を、または指をかけて寄り添っていた。


 そうされるみっちゃんはみっちゃんで、二針縫ったという頭の傷をガーゼが覆い、更に上からネットをすっぽり被せられていて非常に痛々しい。でも、普通なら間抜けにならない筈がないこのネット包帯を着けてさえ、どことなくさまになり退廃的なつやさえ感じるから美少女は恐ろしい。口には出さないが羨ましい。

 私は、みっちゃんの色素の薄い、ショートでもないのにふわふわたっぷりした髪をねたましく見上げる。私の髪なんか黒いわ太いわ固いわでくせっ毛もえらいもんだから、ヘアピンをビシビシ差して抑え込むしかなくて、前髪もワカメになるから作れなくて。お陰でおデコ丸出しの、保護者受けだけはいい髪型で日々を耐えているというのに。

 いっちゃんはといえば言うまでもなく前髪パッツンの、鉱石のように端然とした黒髪ストレートで、そのうるわしさは羨ましいを通り越して拝みたいくらいで。偶に手でかせてもらうと、春先の雪解けの清流に指をひたすようで魂まですすがれてしまう。

 

「ねえ、みっちゃんさあ」


 私がみっちゃんに声をかけると、応えるように寝ぼすけを見る冷めた視線が返ってくる。

 

「結局さ、今日の帰りどうするの? いっちゃんいてくれた方が絶対安心なんだから、一緒に帰ってもらいなよ」

 

 昨日、みっちゃんは背後からの一撃を食らって車に連れ込まれそうになったが、後方への守りにおいていっちゃんの《超感覚》ほど頼りになるものはないだろう。

 

 普段のいっちゃんは、その常人離れした五感による外界からの過剰な情報摂取を防ぐため、ほとんど一日通して音楽を大音量でかけたイヤフォンを着けたままでいる程であり(授業中は耳栓)、それでさえ何ら支障なく日常生活を過ごしている。会話は相手の声を聞くばかりではなく唇の動きを読んでもいるのだというが、目は目で常にほぼ閉じられておりどうやって見てるんだコラという感じがある。

 いっそ超能力だと言われた方が納得できるのだが、あくまで通常の身体感覚の延長上にあるもので、精神感応テレパシー透視クレアボヤンスのような物理法則を超える能力とは控えめな意味で一線を画するのだという。

 

 

 さておき、妥当でしかないはずの私の提案は、しかし気乗りしなさそうなウーンといううなり声に受けとめられる。

「でもなあ、他人を巻き込みたくないし」

 みっちゃんは煮え切らない。『他人』という言葉に微かに反応を示したいっちゃんは、

「いちまだってさあ、毎日アンテナ張ってたら疲れるでしょ」

 と更に振られてぷっと膨れる。

「そんなの、寝るまで光子ちゃんの心配してる方が疲れちゃうわよ」

 そう、実際に、《超感覚》により注がれる大量の感覚そのものより、その情報を脳髄が勝手に解析し始めるための身体的、精神的負荷の方がもの凄く、他のことが考えられないこともある程なのだといっちゃんは言う。その制御が全く利かなかった小さい頃などは、降り注ぐ世界資料の滂沱たる豪雨と巻き起こる解析結果の洪水に、意識さえ何度も遠い果てに流し去られていたのだと。

 それでてっきり、自分の頭の中にはもう一人小さな宇宙人だかなんだかが棲んでいて、自分はそいつが地球を調査するための観測ロボットのような存在なのではないかと半ば本気で思っており、幼な心に人生すら諦めかけていたと——そう聞いたとき、私は共感して少し泣いてしまった。

 

 また、そんな小学生の段にはその能力をかした? 霊感少女として結構聞こえた有名人であったそうだが、私はまだ豚のお世話になっていた頃であるため、残念ながらその評判がどれ程のものであったのかは知らない。

 いっちゃんに直接訊いても、「あの頃は、私も割とその気になってたから、恥ずかしくて……」と消え入りそうに顔を覆ってしまい、詳しくは聞かせてくれない。

 

「ほら第一さ、分かんないじゃん。狙われてるのがみっちゃんだけって決まってないし。みっちゃんといた方がいっちゃんだって安全でしょ」

 私は場をいなす。いっちゃんとみっちゃん、関係が長いこともあり、意外と喧嘩するのだ。件の——いっちゃんが霊感少女の時分から、みっちゃんも既に当代切っての美少女として鳴らしていたそうで。顔や評判はお互いよく知っていたらしい。

 二人が実際に会話するようになったのはもっと後、中学校に上がって以降であるそうだが、小学校時代の話題も日頃よくしているし。まあ幼馴染と言っていいのだろう。

「いや、そんなことない。あいつの標的はあたし」

 私の気遣いをしかし無下にして、みっちゃんは言い切る。

 

「あいつ、言ってたもん。であたしが分かったって」


 ……え。

 

 待ってなに今。すごい大事なこと言った?

 

 いっちゃんの方を見ると、いっちゃんも顔を『え』の形にして固まっている。

「え、え、みっちゃん。襲われたとき会話したの?」

「少しだけど」

「それ警察の人に言った?」

「ふっふっふ。内緒にした」

 坐っててよかった。蹴りそうになった。

「なんで——何で言わないの。けさ、今朝はどうしたの」

 いっちゃんが取り乱している。

「普通に歩いてきたよ。まあ、家からはタクシーに叩っ込まれたんだけどさ。途中で降りてきた」

 みっちゃんは飄々としている。

「あいつさ、憶えたぞーって言ってたじゃん。あれ、あたしの香水を憶えたってことみたいでさ。確かにこれあんまり着けてる人いないしね、高校生なら尚更」

 いっちゃんが次の言葉をくして口をぱくぱくさせている。みっちゃんは新しい煙草を一本引っ張り出し、何をか知らねど得意げにしながら、ライターで火を点けようとする。

 でも、その手が抑えられて、動きが止まる。

 

 いっちゃんが、みっちゃんの手を両手で握り込んでいた。

「光子ちゃん」

 いっちゃんの声は、震えている。何かを拒否するように、小さく首を振っている。

 その目が、睫毛の奥、薄く開いている。

「警察、行こう。じゃなくて、呼ぼう。私もついてく。犯人捕まるまで学校休もう」

 みっちゃんの目を覗き込む。みっちゃんは煙草を咥えたままでその微かな瞳を受け止める。

「いいよ、ね?」

 いっちゃんが含めるように言う。が、みっちゃんはすっと視線を外す。

「面倒くさいからいいや」

 素気すげない言い草に、それでもいっちゃんは退かない。改めて火を点けようと動く手を、また強く抑えつける。二人の手が揺れる。

 

「だめだよ。ほんとに死んじゃう。殺されちゃう」

 いっちゃんの言葉は力強い。二人の視線は合わない。

 フゥーッと、みっちゃんが煙草も点いていないのに長い息を吐いた。いっちゃんは続ける。

「ねえ、は本当に苦しんだし、苦しみが終わったあとも本当に酷いことをされたよ」

 いっちゃんの頬が白くなっている。それはきっと、外気の冷たさのためばかりではない。いっちゃんは口を開きかけて、躊躇い、また開きかけて。幾度かの逡巡ののち、短く、だけど意思を込めて言う。

「……聞く?」

 あの時、いっちゃんが感覚したもの。いっちゃんを錯乱させたもの。ニュースか何かで見た文字列が、私の頭の後ろらへんでちらちらする——

 

 

 チッ

 

 

 舌打ちが聞こえた。

 私はいつの間にかうつむいていた。見ていなかった。でも見直すまでもなかった。みっちゃんが舌打ちした。

 みっちゃんは、今度はフゥッと短く息を吐くと、いっちゃんの手を引き剥がすように強く振りほどいた。

 

 自由になった手で、煙草に火を点ける。深く吸い、肺にとどめる。

「……あのさ」

 そのまま喋るので、言葉が煙に紛れる。みっちゃんの顔の周りを煙が舞う。髪に、髪に煙草の臭いが付いてしまう。

「ほっといてよ。あたしが死のうが苦しもうが——」

 煙が舞う。

「いちまに関係ないじゃん」

 風が吹く。煙が流れる。

 みっちゃんといっちゃんの間を、風が吹き抜ける。

 

「——そう」


 いっちゃんは解かれた手を下ろして、すっと立ち上がった。

 

 

 

 いっちゃんがそのまま虚ろにしているので、みっちゃんがその手を掴もうとした。

 多分、また坐らせようとして。手首に指がかかる。

「いちま」

「やめてよ!!」

 伸ばされたみっちゃんの手を、いっちゃんはびっくりするほどの激しさで振り払った。

 

「においが移ったら、狙われるんでしょう!!」


 聞いたことのないいっちゃんの尖った大声に、場が凍りつく。

 

 いっちゃんはもっと何か言おうとしたけれど、不自然に言葉を切って顔を背けた。

 そして自分の鞄に駆け寄り拾い上げ、顔を伏せて私たちに見せないまま、校舎の角に駆け込んで姿を消してしまった。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 残された私とみっちゃんは、無言で気まずい空気を呼吸していた。いっちゃんが見られまいとしたものが、私たちの話題に目詰まりを起こしていた。

 お昼休みが終わろうとしており、どちらからともなく、立ち上がり歩き出した。

 

 

「私、いっちゃんあんな怒ったの初めて見たよ」

 重い空気に耐える理由のない私が、先に口を開いた。

「そう? いちまは怒るよ」

 みっちゃんは虚空に視線を投げたまま答えた。

「ほんとに?」

「ほんとほんと。ていうかあの子感情的な方だし」

 口を利いたら気が紛れたのか、みっちゃんの口調が軽くなる。

「ほんとに?」

「普段からよくむくれてんじゃん。あきらも見てんでしょ」

「あんなに?」

 ……沈黙。

 

 みっちゃんは随分短くなった煙草の最後のひと吸いを吸い、からそうに煙を吐く。

「あんなに怒ったのはあたしも初めて見た」

「そうでしょ」


 みっちゃんが歩みを緩める。私も緩める。

 みっちゃんが止まる。私も止まる。

「どうするの」

 みっちゃんの視線が虚空から地面に降りている。片手で携帯灰皿をいじくりながら、眉をしかめ唇を歪めて、思案に暮れている。

「……明、手伝って」

「いいよ、いいけど」

 どうするの。

 

 みっちゃんは顔を上げ、高い空を睨みながら、煙草を灰皿でひねり潰す。

「——あたし達で、通り魔ジャックを捕まえる」

 謝るんじゃないのかよ。

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豚食って魔法 ラブテスター @lovetester

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