第5話

 画家から絵のモデルを頼まれて、随分時間が経った。ほぼ一ヶ月、夏休みの間丸々を使って、彼は絵を描き上げた。頼まれていた仕事ももう終わりそうだから、夏休みの最終日に改めて来てくれと伝えられた。その日までまだ5日ほどの余裕がある。私は決心して、県外にある父親の実家を訪ねることにした。久々……というか父母が離婚して以来に父親と会いたかったし、少し聞きたいことが出来たからだ。準備をして、私は電車に乗り込んだ。母親のための食事は用意しておいた。彼女は何もしない人ではあるが、何も出来ないというわけではない。少なくとも良い大学を出ただけの能力はある。心配する程ではないだろう。

 電車に揺られて数時間、田んぼと畑ばかりの静かな場所にやってきた。父は実家から会社に通っているという。私は地図を広げ、時折道行く数少ない人から道を聞きながら父の実家に辿り着いた。豪農の家であり、この田舎では十二分なまでに大きな平屋だった。チャイムがなかったので引き戸をノックして、自分の名前を告げると、やがて一人の男性が私を出迎えた。もう40を過ぎているのに生気に満ちる精悍な顔立ち、私によく似た目元、記憶にある面影より少し老けはしたが、それは私の父親で間違いなかった。


「お前、なんで、アイツは……」


「母さんは来てない、家にいるよ、私一人で、父さんに会いに来たの」


「そうか、そうか……まあ上がりなさい、おばあちゃんもおじいちゃんも、お前の顔を見たいだろう」


「連絡もせず突然来てごめんね」


「いや、気にするな、お前は俺の娘なんだから……こちらこそすまない」


 父は罪悪感に苛まれているようだった。私に不自由な生活を強制させてしまったこと、そして母親を押しつけてしまったことにだろう。


「それじゃ上がるね、おじゃまします」


「ああ、ようこそ」


 私は家に上がって、これも久々に会う祖父母に挨拶した。祖父母は甲斐甲斐しく私に夕食を振る舞い、今日は泊まると言った私のために床の用意もしてくれた。家族、というものを実感出来る時間だった。家での生活は、主人と奴隷だったのだと再確認してしまう、暖かな時間。


 その夜、私は浴衣を着せてもらって花火をして遊んだ。私の線香花火の玉が、父のそれより早く落ちて、私の足元が暗くなる。数秒後に父のものも落ち、それで花火は尽きた。


「ねえ、父さん、聞きたいことがあるんだけど」


「なんだ?」


「父さんは、なんで母さんと結婚したの?」


 私の問いに、父さんは複雑な表情を浮かべた。酷な質問をしたと思う。父さんは多分、母さんのことを忘れたいだろうから。


「そうだなあ……俺はアイツを救ってあげたかったんだよ、あんな不器用な生き方しか出来ない女の子を、若い正義感を持った俺はおこがましくもね」


 そう話す父は辛そうではなかった。過去の自分を思い出して照れているような、そんなありきたりの表情。


「でもダメだった。付き合ったり、結婚することを許された時は、遂にやったぞと思ったんだ、けど結局アイツは何も変わっていなかった。彼女と同じ一流の大学に進学して、収入の良い仕事をしていた俺が、アイツの理想に近かっただけだったんだ。全く、自惚れ屋だったんだなあ、その結果がこれだ。アイツから娘を取り戻すことも出来なかった。辛かったろう」


「辛くはなかったけど、何も無かった、が正しいかな、毎日、当たり前のように母さんの言うことを聞いてた」


「今日はどうしてここに来られたんだ?」


「私が母さんを拒絶したから。母さんは凄くショックを受けたみたいだったけど」


「そうか。それが良いことか悪いことか、世間的にはどうかわからないけど、娘がこうやって会いに来てくれたのは素直に嬉しいよ」


「そうだ、私今絵のモデルしてるんだよ、それも、天才って言われてる人の」


 聞きたいことは聞けたから、話題を変えた。それは私が唯一何の屈託もなく報告出来る事柄だった。


「へえ、お前、美人だもんなあ」


「私って美人なんだ」


 他人に何か評価をされるというのに慣れていなくて、平坦な口調でそんなことを聞き返してしまった。父も軽く吹き出している。その笑みが私が今日初めて見た父の笑顔だった。

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