第42話 痩せこけた女

篠井しのいクン?…… まいです。ごめんなさい、こんなに遅く……」


 電話の相手は未来みらいのようだった。


「…… もしできれば…… 

 篠井クン、来てもらえないかな、って……」


 それだけいうと、舞はスマホを耳に当てたまま、涙声になった。


「だって、いっちゃん酷いんだもん……

 私じゃない人と付き合ってって…… 」


 そう言いながら舞が一縷を睨む。


「うん…… それでその人呼ぶって…… 

 私ね…… ひとりじゃ…… 」


 舞の言葉を未来はどう聞いているのだろう。


「うん…… ありがとう。待ってます」


 自分の親友であったはずの未来は、いつのまにか彼女サイドの人間として自分と対峙しようとしている。妙な感じがした。


「未来呼んだんだ……」

「だって、いっちゃん…… 三人になれば、ふたりでわたしを諦めさせようとするに違いないから。 篠井クンは困ったら何でも言え、って言ってくれてたから」


 これまで、舞のことを素直で何の穢れもなく、他人の気持ちをストレートに受け止める天使のような子だと思っていた一縷は、彼女のしたたかで計算高い一面を、初めて見せつけられる気がした。涼音すずねのことを打ち明ければ計り知れないショックを受けるだろうと、これまで躊躇してきたことが、なんとなくバカバカしく意味のないことのように思われた。


「じゃあ涼音を呼ぶよ」

「…… 涼音さんって言うんだ。古風な感じ」


 そういうと舞は少し笑った。彼女の笑顔にこんな意地悪な表情はなかったから、一縷の彼女に対するイメージは氷解するようだった。


 届いたばかりの涼音のメッセージを開く。


『来ないつもり? 

 まあいいや。

 ラギにいるから。来るときには連絡して』


 メッセージの中に、この瞬間を知らない涼音がいる。その涼音をどんな言葉で呼び出そうか、返信しようとするが手が止まってしまう。


 ふと、スマホから顔を上げると、そこには強い目線で自分を睨む舞の顔があった。


「こんな人だったんだね…… がっかり」


 そう思われることは仕方ない。一縷は反論する気にもなれない。


「いっちゃんが相手の人のメッセージ読んでるところを見たら、これまでどんな会話してたか想像できた。ふたりで私を笑ってたんでしょ? 

 ガリガリで女の魅力もないのに付き纏うんだよ、迷惑してんだよ、とかなんとか言ってたんだね、きっと」


 舞の想像力はおかしな方向に向かいつつあった。だが、もう言い訳する気にもなれず、一縷は黙ってその話を聞くしかない。罵詈雑言を浴びせて気が済むなら、それでもいいや、そんな捨て鉢な気持ちでもあった。


「あんな女、抱けないよ、生理もないんだってさ。子供も産めないくせに、って笑ってたんだ……」


 彼女の空想は留まることを知らない。


「家に来いって煩くつきまとって、イヤになるよ。ワンパターンの髪型を見るのも飽き飽きだ。あんなに痩せて、拒食症かよ……」


 終わらない。彼女の話は延々と続く。


「バレエも妹に負けちゃって、やめればいいのにいつまでも夢だの何だの…… 早く諦めりゃいいのに、しつこくぶら下がって、バカな女……」


 一縷はさすがに聞くに耐えなくなり、舞に近寄ると抱きしめようとした。


「離せ! 近寄るな!」


 聞いたことのない低い声で舞が拒絶する。やがて、うぉ〜という低い音を喉の奥から絞り出すように泣き始めた。


「離せ! お前なんか…… 離せ!」


 延々と拒否の言葉を繰り返すが、もう立っていられないようで、身体は弱々しく一縷に凭れかかった。

 それでも一縷にはかけるべき言葉が見当たらない。彼女の気が済むまで、このままいつまでも黙っているしかない。




 どのくらい経っただろうか…… 舞の嗚咽が途切れ途切れになる頃、未来が伊咲いさきとともにやってきた。


 ふたりは、目を閉じたまま一縷に凭れかかる舞を見て、部屋に入るのを一瞬躊躇した。だが、時折低い唸り声をあげる舞に、事態はやはり深刻なんだと確認したようだった。


 やがて静かな寝息を立て始めた彼女を、抱き上げてベッドに横たえた。昼間、寒い寒いと零しながら幾枚も重ね着していた彼女が、今は気を失うように眠っている。わずか数時間の間に起こった変化の痛みを、幾筋かの涙の跡で伺い知る。


 未来も伊咲もかける言葉がなく、三人は黙ったまま、舞が起き上がるのを静かに待った。




◇ ◇ ◇


 最初に口を開いたのは未来だった。


「お前、夏休みからあの女と付き合ってたらしいな」


 低いが、はっきり怒気を込めた声だった。ここに来るまでの道すがら、伊咲から聞かされた憶測交じりの話を真に受けているのだろう。しかし、その誤りを指摘したところで今更なのだ。壊れかけた舞の気持ちが修復される訳でもない。一縷は何も言い返せなかった。


 しばらくの沈黙のあと、今度は伊咲が静かに口を開いた。


「…… 私が悪かったのかも。私はあんたの気持ちは知ってたから。なのに舞ちゃんをけしかけるようなこと言っちゃってた…… どこかで、舞ちゃんも振られちゃえ、って思ってたのかも……」


 自分を責めようとする伊咲を、未来がそれ以上言うなとでもいうように肩を押さえた。


「あの人と一縷が近づくのは最初から嫌だったんだよ」


 伊咲の顔から目が離せなかった。ひとりでこの部屋にやってきた夜のこと、バーベキューからの帰り道のこと、母親と一緒にいるのが嫌で呼び出した居酒屋でのこと、涼音と別れた夜、深夜に交わしたメッセージのこと…… 一縷にとって、いつも自分を受け入れてくれる伊咲のことを思い出した。彼女がその時々に抱いた感情は、ベッドで眠る舞と同じだったのかもしれないとようやく気付く。だが、彼女にかける言葉もまた見つからない。




「…… いっちゃん、…… いっちゃん」


 目覚めたのか、舞の弱々しい声が重い沈黙を破る。


 ベッドに近寄り顔を覗き込むと、彼女は細い両腕を一縷に向けておぼろに伸ばした。その手を取ろうと一縷も手を伸ばすが、舞はその手を遮り、顔に触ろうとする。彼女への罪の意識からか、一縷はベッド脇に座り込み顔を近づけた。


 舞は一縷の首に手が届くと、両手で彼の顔を引き寄せ、頬を静かに合わせた。




「舞ちゃん、帰ろ?」


 伊咲が離れた場所から小声で呼びかける。


「迎えに来たよ、一緒に帰ろう」


 未来も優しい声を出す。その声に舞は涙で反応する。やがてその涙は一縷の頬を濡らした。


「帰りたくないよぉ…… 」

 子供のような声で泣き始める。

「いっちゃん、いっちゃん、いいでしょ? ここにいていいでしょ?…… 」


 伊咲も未来も、舞にかける言葉が見つけられない。


 一縷もどうしていいかわからない。いつか、自分を見限った舞が自然に離れてくれればいい、そんな身勝手な考えを、今この瞬間もずっと抱いている。


「舞ちゃん! 起きて帰るよ! ここにいても舞ちゃんが傷つくだけだよ! もうお願いだから起きて!」


 とうとう伊咲が涙声になって叫んだ。


「一縷! もうあんたとは絶交する…… こんな酷いこと…… 

 なんであんたからちゃんと舞ちゃんに言わないの?! 卑怯すぎるよ!」


 この期に及んですら、一縷には誰の心も伝わらないと悟ったのだろう。伊咲は自分自身をも叱咤するように声を張り上げた。だが最後は、一縷自身がこの場に決着をつけるものと思い、その言葉を待った。ところが…… 


「いいよ、気が済むまでここにいて」


 伊咲と未来は信じられないという表情で顔を見合わせた。その瞬間、部屋を強い怒りが支配した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る