第41話 舞の独白

「変だと思ってたんだよね…… 」


 まいは力なく笑うと、独り言のように話し始めた。


「全然おかしいもん。いくら誘ってもお家には来たがらないし、アパートに誘われることもない。土日は全部バイトで埋めて、会うのは美術館のカフェでだけ…… 誰に聞いても不自然って言われたから」


 そこまで話すと、また寂しそうに笑った。


 一縷にはそんな彼女は意外だった。無邪気な顔の裏側で、誰かに恋の悩みを打ち明けているなんて想像ができなかったのだ。


「だけど、いっちゃんはいつも優しいし、舞を恋人だと思ってくれてると信じてた。篠井しのいクンに教えて貰ったんだよ、伊咲いさきさんとは関係ないって。2年生に憧れの人がいたけど、それも相手にされてないから心配ないって。

 

 伊咲さんも、いっちゃんの年上の人好きは麻疹みたいなものだから、気にしない方がいいって。髪の毛のサラサラした人がタイプ、なんてのもテキトーな話だから相手にしちゃダメだって……


 みんな私に大丈夫って言ってくれるけど、私はずっと心配で、ここに来たくても来るわけにもいかないし。いっちゃんと小さなちゃぶ台でご飯食べたくて、今日、ホントに勇気振り絞ってきたのに……。


 いっつも我慢してた。恋人なんだから、いつかそんな日がきっと来ると信じて我慢してた」


 スカートの裾をギュッと握りしめて、涙を堪えて話し続ける。そんな彼女を一縷は直視できないでいる。


「ママがね、言ってた。大事にされてるねって。いっちゃん優しいって。ママはホントにいっちゃんに会いたがってて、いつでも連れてきていいんだよ、って言ってたから……


 いっちゃんが土日を全部バイトにした時、私ね、ママに泣きながら言ったの。いっちゃんは私のこと全然好きじゃないかも、って。そしたら、ママが、待ってれば必ず連絡があるから、待ってなさいって言ってくれて……


 その通りになった。いっちゃん連絡くれたよ、次の日の夜。バイトが終わって、歓迎会で遅くなったけど、今、バス停で待ってる、声が聴きたいって言ってくれた。もう忘れた?


 私、ママにいっちゃんからのメッセージ見せて、お家を飛び出した。あの時もママがね、連れてきていいからね、って言ってくれたんだよ。いっちゃん帰っちゃったけど……


 あの夜、私、本当に嘘みたいにぐっすり眠れた。それまでは、あ~、お腹空いたなぁとか、ターンができないとかジャンプが下手とか、はなにはできるのになんで自分はできないの? 私はなんて出来損ないなの? とか、ずっと思ってて、ちゃんと眠れない日も多かった。生理も高校生になって止まって、面倒だからなくてもいいや、って思ったりもしたけど、あの夜のあと、何日かして生理が始まって、なんだかすごく嬉しかったんだよ……。

 いっちゃんだ! 私の心と身体を受け止めてくれるいっちゃんが現れたから、自分はこれから生まれ変わるんだって思った。


 それからは急にレッスンが楽しくなった。最初はいっちゃんのこと考えながら練習するのは集中力がないからだ、と思って嫌だったんだけど、そんなの関係ないや、いっちゃんが遠くで見てくれてるんだし、と思うと、なんだか楽しくなるんだよね。


 肌も綺麗になってきて、先生が子供たちを教えてくれる? って言ってくれたのもその頃だった。


 それもこれもぜーんぶいっちゃんのおかげなんだよ。私にはいっちゃんが絶対必要だって思った。だから、いつかキスできると思って、いっちゃんが部屋においでって言ったらもう絶対断らないって決めてたのに…… でも誘われないから、押しかけてきちゃった。


 魅力なかったんだね、私に……。 自信ないから仕方ないよ。いっちゃん、私には全然関心なかったもん。見られてる気がしないもん。男の人に見られるのは怖かったんだけど、いっちゃんは全然見ないから、最初はそういう人かと思ってたんだけど、そうじゃなかったんだよね。そういうことでしょ?


 いっちゃん…… 私はいっちゃんじゃダメだよ。立てないくらい。もう全部やる気がなくなった。バレエも大学も辞めたい。どこにも行かず、ずっとここにいたい。それだけでいいの。いっちゃんとこうして話していられるだけでいい…… 」


 そういうと、彼女は大粒の涙を零しながら、その場に突っ伏してしまった。細い体を折り曲げて、子供のように泣くのだ。一縷いちるは、愛する女というより、幼い子供を泣かせてしまった時のような罪悪感に襲われた。あとでこの子の親に延々と叱られるに違いない、そんな気がしながら彼女を見つめた。かける言葉もなければ、そっと肩を抱くこともできなかった。



 トゥルルル


 涼音すずねからのメッセージが届く。そのリングトーンの意味を理解した舞は、今度ははっきり一縷に目で訴えかけた。


「彼女なんだね…… 」


「…… 送っていこう。舞がお家の玄関に入るところまで、ちゃんと一緒に行くから」


 その場に座ったまま、舞は一縷から一瞬たりとも目を離さない。


「彼女が来るから?」

「いや、そうじゃない」

「ウソ! ウソは聞きたくない!」


 その言葉に乗ればいいのだろうか。思ってることをすべて正直に彼女に伝えればいいのだろうか、考えても考えても、一縷には結論が出せない。


「ねえ、いっちゃん! 戻って! 前のいっちゃんに戻って!」


 急に起き上がった舞は一縷の身体を強く揺さぶった。悪霊に取り憑かれた恋人を、現世に取り戻すかのように。


「舞…… ボクは初めて会ったときから変わらないままなんだよ。何も変わらない」

「初めから好きじゃなかったってこと?」

「そうじゃなくて…… 何も気持ちは変わってない。舞を大切に守りたい。舞が夢に向かえる手助けをしたい。その気持ちは何も変わってない」


「そんなの求めてない! 私が求めてるのは私だけを見てくれるいっちゃんだよ。腕を組んで歩きたいの! 普通の恋人みたいに、キスしたり、抱き合ったり…… それだけでいいの! 何をしてくれなくてもいいの! 傍にいて!……」


 同じだった。涼音は手を伸ばして届くところにいればいいと言った。彼女が言いたいことは、肌を重ねたことで、もはや言葉すら必要ない次元で伝わった。しかし、舞とも、言葉を交わさなくても言いたいことは伝わる。


 なぜどちらかなのだ? 付き合うってことはこんなにも不自由なことなのか?


 一縷にはわからなかった。相手のことを考えている時間が全てでなぜ悪いのだろう。自分の存在は、『恋人』という約定がなければ、舞に何も与えないのだろうか? 逆に、『恋人』になった涼音には、自分の存在がそれまでと違う何かを与えているのだろうか?


「わかんないよ、もう……」


 結局、「付き合う」ということも、「恋人」ということも、「愛する」ということも、具体的なことを指しているわけではない。その時々の心の状態、その状態を抱いた人との関係、間柄を示しているに過ぎない。


 一縷は考えることを諦めた。そして残酷にこう告げた。


「じゃあ会ってみる?」


 一瞬、なんのことを言われているか理解できなかった舞は、やがてすっくと立ち上がるとスマホを取り出し、誰かに電話を始めた。その相手が母親でないことだけは、彼女の視線から一縷にもすぐにわかった。

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