第36話 運命の人
アパートに戻るバスの中で
平日昼前のガラガラに空いたバスの中で、一縷の顔は緩んだまま、さっきから締まりがない。もし、この顔が男になった証なら…… なんとも情けない。
チリンチリン チリンチリン
「もう着く?」
「ん?…… あっ!…… 」
電話は空港からだった。妹の転校と本格的なレッスン開始が年内に前倒しされ、彼女は学園祭の期間を利用して東京まで付き添うことになっていたのだった。
「
「今、向かってるから!」
「…… 」
一縷は慌てて地下鉄に乗り換えた。約束の時間には遅れるが、今ならまだ間に合う…… はず。。
「遅い! あんたどこで何やってんのさ! 昨日、別れた後で、まだ飲んだくれてたでしょ! ちゃんと見てるんだからね!」
電話の声が突然伊咲に変わった。
「み、見てたの?…… そ、そう、あの先輩ふたりに捕まって、朝まで飲んでて……」
咄嗟の嘘だったが、この際、この嘘は方便だ。
「間に合うかなぁ…… まぁ、間に合わなきゃ、デッキから旗でも振んなさい!」
伊咲の乱暴な言葉に、電話口から
「旗、振ってね~~!」
涼音と結ばれた翌日、何も変わらない現実があって、それはそれで心地よくもある。
「いっちゃん! これは相当なペナルティーですからね!」
なぜかホッと胸をなでおろしている。一縷はそれほど上手に嘘がつけるわけでもないが、とりあえず今日はなんとかなったようだった。
「ホントごめん! とにかく気をつけて。」
「ありがとう、いっちゃん!」
ありがとう…… 今の一縷にこれほど不似合いな言葉もない。それを彼自身が一番知っている。
「舞……」
「ん? なに?」
「…… いや、何でもない。…… とにかく気をつけて」
罪悪感に背中を押されて言いかけた言葉を、中途半端に飲み込んでしまう。舞が変に深読みしなきゃいいが…… と、やや不安になったところに
「いっちゃん…… まさか飛行機が怖い人? 何度も何度も気をつけて、なんて……」
「ん? …… っん???」
ボケてるのか天然なのか、舞のこんなところは、やっぱりかわいい……
「怖い人です。新幹線派です!」
「うっそ!…… ひくわぁ〜。今どきいませんから! そんな人」
「ばか! 本気にするな!」
「…… いや、どうもマジっぽい」
「はいはい、ではそういうことで、さいなら」
「あーーーーダメ! まだ切っちゃダメ!」
「うるさいよ、もうめんどうくせーなぁ」
「あ~~~~、まためんどくせー、って言った!……」
いつの間にか、いつもの舞との会話になってしまっている。涼音との関係がどこまで深まろうが、一縷にとって舞は別の意味でなくてはならない存在であり続ける。彼女と、このままずっとこんな関係が続けば楽しいだろうに……
そう思うのだ、心から。
だがその一方で、やはり、このままでいいとも、一縷は思っていなかった。
◇ ◇ ◇
その週の金曜日、一縷はバイト帰りの涼音から呼び出された。
「今、キャンパス下のカフェにいる。来て」
言われるままカフェに出向くと、そこには既にほろ酔い気味の涼音がいた。
「遅い! なにしてたの!」
「なにって言われても、特に……」
「授業にも出ないで、毎日なにしてんの?」
「本読んだり…… 考え事したり……」
「ホントかなぁ」
「ホントだよ。あとは散歩したり」
「アハハハ、あなたいくつ? おじいちゃんじゃないんだから」
いつか、公園で散歩してるから待ち合わせの時間は気にしないで、といった時の舞の反応によく似ていた。今なぜそんなことを思い出してしまうのか、一縷にも自分が不思議だった。
「今日は泊めてもらうよ。全部用意してきたから」
そう言って涼音は足元の真っ赤なキャリーバックを指さした。
「えっ!……」
「なにその顔? わっかりやす~~い男! アハハハハ」
彼女の指摘はまったくもって正しい。誰がどう見てもニヤついた、だらしない顔だ。
……
酔ったふたりは、部屋に戻るなり唇が腫れるほど深くキリのないキスを貪った。まるでそれは、一縷から全ての思考を奪い去るように激しく濃密だった。
キッチンで互いの着衣を剥ぎ取ると、浴室のドアに涼音を凭れさせ、一縷は立ったまま彼女の潤いを突き破る。あっと言う間に果てると、そのまま浴室に入り、シャワーを浴びながら再び彼女の中に深く自らを沈めた。
ベッドでさらに飽きるまで抱き合い、ようやく一縷は涼音の身体から離れた。
「うふふ…… 満足した?」
涼音が一縷の横顔に手を伸ばしてそう囁く。
「キリないね。何度でもできそう」
天井を眺めながら素直な言葉を吐く。
「私が忘れられなくなりそう?」
その言葉に、一縷は彼女に向き直り、じっと瞳をみつめて答える。
「うん」
「身体が、でしょ?」
「うん」
「バカ正直な男」
「がっかりした?」
「うん」
「えっ? そうなんだ。そんなこと関係ないかと思ってた」
意外なことを聞いた気がして、一縷は半身を起こして涼音の顔を覗き込む。
「だって、あなたはきっと見え透いて歯の浮くような言葉を、あの子には言ってるもん」
涼音は明らかに舞を意識していた。今にして思えば、夏休みのあの日、バスの中で不機嫌だった頃からずっと、涼音は舞を意識し続けてきたのだろう。
「私ね…… あなたを見かけた時からこうなる予感がしてた」
「いくらなんでもそりゃ嘘でしょ?」
「ううん、あなたが会議室に入ってきた瞬間、そう思った」
「そっか…… そんなふうに言われると、なんとなくわかるかも。ボクは大講義室で涼音を初めて見た瞬間に特別なものを感じたから」
「そうでしょ? あるのよ、そういう運命的な出会いって。私は信じる、そういう運命を。あなた、他の人にそんな運命、感じたことある?」
伊咲と舞を思い出していた。伊咲は物心ついた時にはもう傍にいた。舞は、彼女があの分厚いフランス語の本を目の前に置くまで、一緒のクラスにいたことさえ気付いていなかった。そのことの意味を涼音が言っている気がした。
「運命か……」
「そう。だから肌も合う。あなたと抱き合うのはとても自然な気がする。ここを触って欲しいと思うところにあなたの手が必ず届く」
とても恥ずかしいことを話しているはずなのに、涼音は少しも恥ずかしい素振りを見せない。
「ボクがどうしたいかもわかる?」
「うん、わかる。私もそうして欲しいと思ってる」
「…… またできそう、アハハハ」
「いいよ…… して」
一縷は涼音の白い後ろ姿を眺めながら、やはりあっと言う間に果てた。そのまま涼音の背中に全体重を凭れかけると、これまで漠然と抱き続けてきた、捉えどころのない不安や憤りの全てが消え去る気がした。
「涼音…… 涼音はボクのもの?」
「今は……」
「どういう意味?」
「だって彼氏はいるからね」
「…… 」
「悪く思わないでね」
「…… 」
「アハハハ、カワイイ」
そう言うと、涼音は一縷のトレーナーを羽織ってお茶を沸かし始めた。そしてキッチンからベッドの一縷に声をかける。
「紅茶? コーヒー? それともコーラ?」
「コーヒー」
「アハハハ、急に大人! ん?…… コーヒーどこ?」
「ないよ、そんなもん!」
涼音をからかって、一縷は少し気が晴れた。
「さっきの話だけど……」
「なに? 」
「彼氏ってホントのこと?」
「フフフフ…… 」
涼音は、はっきりとは「彼氏」の存在を否定しなかった。ただ、その時の一縷には、それはどっちでもいいことのように思えた。
紅茶で身体を温めて、ふたり抱き合って眠った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます