第35話 大人の笑み

 シャワーを浴びて戻ると、ベッドに潜り込んだはずの涼音すずねが、ヘッドボードに凭れて膝を抱えている。


「あれ? 寝ないの?」

「…… うん」

「寒いからベッド入るよ。いい?」

「入れば…… 」


 そういって彼女は壁側にひとり分のスペースを空けた。だがさっきまでとは打って変わり、一縷いちると視線を合わせようともしない。このわずか10分に満たない時間に、彼女の中に一体どんな変化が芽生えたのか、一縷には想像もできないでいた。布団に潜り込んで誘いの手を伸ばすが、彼女はそれを拒み、ベッドから降りて座り直してしまった。


「どうしちゃったの?」

 不安な一縷は問いかけずにはいられない。


「あなたがあまりに強引だから……」

「…… 」

「私には彼氏がいて、あなたには彼女がいるもの……」


 俄には信じ難い言葉だった。10分前にはその事を忘れていたとでも言うつもりだろうか?


「……? なぜ急にそんなこと言い出すの?」

「だって…… 思い出した」

「何を?」

「あの人のこと……」

「あの人って?」


「メッセージが届いた…… 」


 一縷は慌てて自分のスマホを探した。だが、脱ぎ捨てたズボンのポケットの中で、スマホは静かなものだった。


「何も来てないよ…… ほら」

 涼音の隣に座り直して、一縷はスマホの画面を彼女に見せる。


「…… バカ」

 そう言われて、一縷はようやく事態を理解した。

「そういうこと……」


 それ以上の言葉が見つからず、一縷はそそくさとベッドに戻る。


 確かにいつだったか遠距離恋愛中の彼氏がいることを聞かされた。だが、その存在を伺わせる具体的な何かに巡り合ったことがない。僅かに、涼音の再従姉またいとこがそれを匂わせたが、それすらほんの一時いっときのことで、日が経つにつれ、そのこともすっかり忘れてしまっていた。


「嫌でしょ?」

「ん~…… わかんない」

 正直な気持ちだ。なぜなら、この部屋のどこにも男の存在をうかがわせる気配がなく、一縷にはリアリティーが欠けたままだったのだ。


「私はイヤ。さっきあなたがスマホ見ただけでイヤ!」

「だけど…… 涼音があんなふうに言うからスマホ見たけど、彼女は彼女じゃないよ」

「彼女は彼女じゃない、だって…… バカみたい」

 

 涼音が少し笑う。一縷には、背を向けた彼女の肩が少し揺れた程度にしか見えなかったが、それでも突き放されたところから、ようやく取り付く島が見えた気がした。


「ねぇ…… 寒くない? 一緒に寝ようよ」


 涼音に向けて手を伸ばすものの、彼女はそれを無視し、渋々といった様子でベッドに潜り込んで来た。


 一縷は彼女をどう扱うべきか迷った。今日はこのまま静かに寝るべきなのだろうか……


 そんな逡巡を知ってか知らずか、しばらくすると涼音は急に一縷に向き直り、いきなり彼の首に両手を巻き付けると、鼻が触れ合う距離にまで顔を寄せた。


「ホントに私が好き?」


 涼音は瞬きもせず強い視線で一縷の瞳に訴えかけた。


 そう…… この視線なのだ。ふわっと見つめるまい伊咲いさきとは明らかに違う、自分だけを観るように強いる視線。時々感じる彼女の強い視線に、一縷はずっと捕らえられたままなのかもしれない。


 薄明かりの中、一縷は無言で涼音の部屋着の裾をたくし上げた。無抵抗の彼女は、豊かな胸が露わになり無防備に晒されても、強い視線を逸らそうともしない。

 右手で彼女の片方の乳房を柔らかく包み込む。白い肌が彼の指先に艶めかしく反応するが、それでもなお、彼女は一縷の瞳を探ろうとする。


「ねぇ…… 私だけだよね?」


 涼音の声を無視し、一縷はその手を彼女の腹部に滑らせ、ショートパンツを脱がせにかかった。脱がせやすいよう彼女が腰を浮かせると、あっという間に、下半身も一縷の視線から逃れようがなくなった。


「一縷…… 私…… 」


「黙って」


 一縷はたまらず涼音の唇を塞ぐ。もう言葉も、あの強い視線も必要ない。今はただ、彼女が受け入れてくれることだけが意味を持つ……


 柔らかくぬらめく舌が絡み合うと、頭の中から全ての考えが抜け出て、彼は目の前にある白い肉体に何も考えず挑んだ。ひたすら白く柔らかなその肉体は、彼の思うままにされることを待っている。艶めかしくゆらゆらとくねり、生暖かく熱を帯び、涼音の鼓動とともに波打つ。一縷はその全てを両手と口と、そして彼自身で感じたい本能的な衝動に突き動かされた。


 乳首を口に含む。舌で愛撫すると次第に弾力のある硬さに変化し、甘噛みしたくなる。


「あぁ……」


 涼音が切ない吐息を漏らす。その微かな喘ぎを耳にすると、それだけで身体の芯が反応する。もう一度、乳房を大きく包み込み、その弾力を手のひら全体で感じる。これまで手にしたことのない感触に、指先のひとつひとつが吸い付くように動き始める。やがて指先は、何かに誘われるように腹部からさらにその下に向かうと、ややざわついた抵抗を感じたのち、明らかな潤いに届き、一瞬驚く。


 女性を知らない一縷の指先は、その潤いの源泉みなもとを知りたがり、さらに奥へと突き進む。


「恥ずかしい……」


 涼音の震える声が耳元に届き、その言葉と裏腹な熱が彼女の全身から伝わってくる。彼女の潤いは一縷自身を唆かし、奥の奥まで貫ぬけと本能を呼び覚ます。もはや、彼の頭の中には何もなく、ただひたすらその源泉に自身をあてがおうともがく。ところが欲望に反して思うようにそこに辿り着けず、一瞬、どうすればいいのか混乱する。…… が、何かに導かれてようやくその場所を探し当てる。


「…… あぁ」


 瞬間、涼音が短く低い吐息を飲み込む。


 一縷は、柔らかく温かい潤いで包み込まれたことを実感する。それはほんの局部だけのはずなのに、全身が潤いに包まれたような錯覚に陥る。

 全ての重みを涼音に預ける。その重みが涼音への想いの全てとして、彼女もそうされることを待っているような気になる。


 そして緩やかに律動を始める……。


 だが、微かな肌の擦れ合いですら一縷自身の耐え得る限界をあっという間に超え…… 果てる……。


 ……


 …… 一縷はあまりにあっさり果ててしまったことが恥ずかしく、そそくさと彼女から身体を離すと、しばらく仰向けに天井を眺めていたが、ふと涼音の視線を感じて顔を彼女に向けてみる。



「うふふふふ」


 彼女が顔だけを一縷に向けて穏やかにほほ笑んでいる。あの射貫くような強い視線ではなく、彼女には一度も感じたことのない、赦され包まれる感覚が伝わってくる。

 すると猛々しい欲情は一旦静かに消え去り、粗相してしまった子供のように恥ずかしさが沸き起こる。それなのに、なぜか笑い話にできそうな安心感もあり、一縷は我知らず笑いが込み上げてきた。


「はぁ…… 終わっちゃった」


 お互いを互いの瞳の中に認め合うと、ふたりで笑い合いたくなる。小さな笑い声が徐々に大きくなり、やがてゲラゲラ笑い出すと、それまでの緊張が互いにすっかり緩んで消えた。


「ねぇ……」

「なに?」

「あんなに濡れるものなの?」

「…… 知らない!」

「びっくりした……」

「…… もぉ、止めなさい!」


 その時の涼音の顔はそれまで見たどの顔より愛しく可愛らしかった。


「向井さんに聞いてみよ、どのくらい濡れるもんですか? って」

「イヤだぁ! 絶対やめてよね!」


 そう言うと、涼音は一縷に覆いかぶさった。一縷はみるみる反応する。


「もう一回する?」

「……バカ! エッチ」


 言葉と裏腹に、涼音は一縷に深いキスを求めた。




◇ ◇ ◇


 翌朝、一縷が目覚めると、涼音はもう起き上がってドレッサーの前で化粧を始めていた。今朝は一縷が彼女の後ろから手を回して鏡の中にふたりの顔を並べた。


「化粧すると雰囲気変わるよね」

「そう? どっちもあなたよりお姉さんの私だけど」


 いつものように涼音は年上の女性を振る舞いたがる。


「よく濡れるお姉さんだね」


 一縷がからかう。

 涼音は一瞬はにかむが、照れを押し隠すように鏡の中の一縷を睨む。だが、一縷は意に介さず涼音の胸に手を這わす。


「もぉ…… 一縷は……」


 微かな抵抗を試みるが長続きしない。一縷が唇を求めると、涼音はさらに深いキスを求める。


「アハハハ、ほらみてみ、口紅が移った」


 鏡の中に、掠れた紅を残した自分がいる。その姿は、一瞬、かつて自宅の玄関先で見かけた忌まわしい光景を思い起こさせる。だが、あの時の、理由なき怒りは今はなく、傍でほほ笑む彼女の顔がそれに置き換わろうとしていることを、一縷は実感していた。


 軽いキスを交わすと一縷は涼音から身体を離し、無言で身支度をすませた。


「紅茶? コーヒー?」

「コーラ」


 涼音が笑うと、一縷に初めて大人の笑みが僅かに浮かんだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る