第3章

彼女の目的!

3−1

「……聡介!」

 誰かが手を掴んだ。華奢な手だ。だけど温かい。

 重い瞼を持ち上げると、ぼやけた視界に女の顔が目の前にあった。

「よかった! 死んじゃうかと思った」

 そう言って、ヒトミは聡介の腕にしがみついてきた。

 あんたのせいだろうが……。

 そう思ったが声にはならない。代わりに胃液がこみ上げる。

 ヒトミを押し退けて慌てて起き上がり、トイレに走った。身体中が軋むように痛い。便器に顔を突っ込んだが、吐くものは何もなかった。

 確かに変身したら超人的な力が発揮できた。

 しかし変身を解けばただの人間だ。普段ちょっとジムに行っている程度の体力で耐えられるような動きではない。戦闘時の疲労で、身体中が悲鳴を上げている。

 それに、今も拳に残っている。あいつを殴ったときの感触。

 聡介は殴り合いの喧嘩などほとんどしたことがない。少しばかり目つきと口は悪いが、基本的には温厚な性格だ。

 一度だけ、どうしても許せない暴言を吐かれたときに相手を殴った。相手は口の中を切ったようだが、聡介の拳も痛かった。

 あのときの感覚とは全然違う。あのワニマッチョを殴り飛ばしたときは、拳が肉にめり込んで骨が砕けたのがわかった。そのときの音まで耳にこびりついている。

 致命傷ではなかったが、起き上がったワニの顔面は陥没して、原型を留めていなかった。

 それに……あのときの気持ち。確かに昂揚していた。

 身体中の血が騒いで、歓喜していた。もっと傷つけて、壊してしまいたいと思った。

 ダメだ―――。

 思い出すと気持ち悪くなり、しかし吐くに吐けず、咳き込むだけだった。

 トイレを出て口を濯いでいると、有馬が顔を出した。

「聡ちゃん! 目が覚めたんだ。心配したよ、もう」

 買い出しに行っていたらしい有馬がほっとしたように頬を緩ませた。

 レジ袋の中にはスポーツドリンクやレトルトパウチのおかゆが入っている。それから、プリンやヨーグルトも。

「お店は臨時休業って張り紙しておいたから。常連さんたちも心配して何度も顔出してくれて」

 有馬の言葉を聞きながら、聡介は額を抑える。少し頭が痛んだ。

 あのワニっぽいやつはなんとか撃退した。そのあと、どうしたんだっけ。

「覚えてない? 聡ちゃん、雨の中倒れてさ。ひどい熱で……救急病院行って、翌朝意識戻ったからタクシーで帰ってきたんだけど」

 家に着いたらまたぶっ倒れたらしい。それが、おとといの出来事だと言う。

 二日間眠っていたということか。救急車を呼んでくれたのはあの中年男だそうだ。聡介が倒れてヒトミと有馬が騒いでいたので目を覚ましたのだろう。

「そうか。迷惑かけたな」

 徐々に意識がはっきりしてきたところで、はたと気づく。

 変身を解除したところを有馬に見られたような気がしたんだが……平然とした様子だし、気のせいだったか。

「どうしたの?」

「いや」

 気づいていないのならいい。余計なことに有馬を巻き込まないで済む。

 ほっとして、有馬が注いでくれたスポーツドリンクに手を伸ばす。一口飲むとひどく喉が渇いていたことに気づき、息をつく間もなく二杯目を飲み干した。

「ところで、聡ちゃん」

 聡介が人心地着くのを待っていたかのように、有馬がそわそわとした様子で問いかけてくる。

「これ、何?」

 目の前に掲げられたのはスマートフォン。

 画面で再生されている動画には、変身した聡介の姿が映っていた。

 黒いボディに血脈のような赤いライン。頭部と背中には棘のような突起が並んでいる。

 動画はちょうど、聡介がワニマッチョの横っ面を殴ったところを捉えていた。

 なかなかいいアングルだ―――じゃなくて。

「なっ、何撮ってんだよお前っ!」

 いつからいたんだ? 全然気づかなかった。あの状況で動画撮るなんてどういう神経しているんだ。いやとにかく、有馬が無事でよかった。

 驚きと怒りと安堵で頭の中がぐるぐるする。

「だいたいヒトミさんに話は聞いたんだけど、今ひとつ彼女の話は要領を得なくて」

「は? 話したのか?」

 有馬が買ってきたヨーグルトを勝手に食べていたヒトミは、きょとんとした顔でスプーンをくわながら聡介を見る。悪びれもしない顔にいらっとした。

「話した。訊かれたから」

「なんっで話したんだよっ!」

「有馬は友達なんだろう? 何か問題でも?」

 友達だからって、何でも知られていいわけではない。大切だからこそ知られたくないこともある。

 そういう機微をこの女に理解しろというのは無理かもしれないが。

「有馬を呼んでおいて正解だったな。わたしではこちらの世界のやり方がわからないからな」

「え? 今なんて言った」

「あらかじめ、有馬に声をかけておいたんだ。聡介を助けてやってくれって」

 目眩がした。あの場に有馬がいたのはヒトミの差し金か。しかし議論するには体力を消耗しすぎている。また熱が上がりそうだ。

「ごめん、聡ちゃん。家の前でヒトミさんに声かけられて。何のことかわからなかったけど、聡ちゃんが困ってるならと思って」

 しゅんと俯く有馬に、聡介は黙って首を横に振った。

 自分だってわけがわからなくても友人が窮地に陥っていると言われれば、疑いつつも駆けつけるに違いない。事情を知っていそうな奴がいたら話を聞くだろう。

 有馬は悪くない。ヒトミのような怪しげな女の話を聞いて、一も二もなく駆けつけてくれたことには感動すらしている。

 動画はともかく、だ。

「彼女から……何を聞いた」

「えっと、ヒトミさんが異世界からきたこと。聡介を変身させたこと。それから、彼女はあっちの世界の偉い人の奥さんで、子供もいるって」

 なんだよそれ。既婚で子持ち?

 本当に熱が上がってきた。くらくらして視界がぐんにゃりと歪む。

 これ以上会話は無理だ。

「……悪い、もう無理。寝る」

 よろよろと立ち上がると、有馬が肩を貸してくれた。

 有馬は聡介をベッドに寝かせると必要な物があったらメールしてと言ってくれた。 それから、ヒトミに買ってきた食料の食べ方や、電子レンジや洗濯機の使い方を一通り説明して帰って行った。細かいところまで気の回る男だ。

 幼なじみの機転に感謝しながら、聡介はもぞもぞと布団に戻る。

 とにかく身体を回復させなければ。


 また、あの夢を見たら嫌だな……。

 不安は過ぎったけれど疲労には抗えず、聡介は眠りに落ちていった。

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