変身なんてしたくない!

絢谷りつこ

プロローグ

遠ざかる平穏な日常……!

 変身なんてしたくなかった。 

 正義のヒーローはフィクションの中にしかいない。異形の姿も、超人的な力も、その力ゆえの苦悩も、すべて作り物だ。

 そんなこと、子どもの頃から知っている。

 どこかにいればいいなと想像したことはあるし、主人公に自分を重ねて夢中になった時期もあるにはあった。男の子にはそういう時期がある。それだけの話だ。

 自分自身が変身して悪と戦うなんて、まっぴらごめんだ——。


 志木聡介しきそうすけはそう思いながらも、袖をまくり上げる。

 右腕には、幅五センチほどの銀の輪が填まっている。

 古代文字のような刻印にそって赤い宝石をスライドさせると、カチカチと小気味よい音を立てて腕輪は分解を始める。

 その下の肌には、赤い輪のような痣があった。力を得た証だ。

 全身が熱を帯び、視界が真っ赤に染まった。

 帯状の真紅の光が身体を取り巻く。次に襲いくる異変に備え、聡介は身構える。

 何度やっても慣れることはできない。

 ひどい気分だった。

 血液が可燃性の液体に変わり、引火したような。身体中に炎が駆け巡る。熱さと痛みに全身が震えた。

 己の肉体に起こる変化に戦き警鐘を鳴らす理性。しかし心は確かに昂揚している。

 血が滾る。そう表現するのだろうか。

 これが変身による作用なのか、自分の奥に潜んでいた本能なのか判然としない。

 答えを求めている暇は、なかった。


 深夜の町に敵の咆吼が響く。月はないが街灯は仄かに夜を照らす。聡介は周囲を窺う。いつもよりも視界はクリアだ。

 いた――。

 視界の端に敵の影を捕らえたと同時に、足は地面を蹴り出す。

 考えるより先に身体が動く。

 隠れるのを諦めた敵が姿を現す。

 聡介の知る世界とは別の進化を遂げた容貌は、奇異ではあるがどこかで見たような既視感を覚える。伝説に残る妖怪や魔物の類いはこいつらのことかもしれないと思う。

 かく言う自分も、異形の姿になり果てていた。

 闇夜に紛れるような漆黒のボディに血脈のような赤いラインが走る。頭部や背中、肩には棘のような突起が幾つも並んでいる。右腕にはシルバーの金属が規則正しく並ぶ。双眸は大きく、つり上がり発光している。胸や腹にも発光する器官があった。

 特殊なスーツを着ているようにも見えたが、質感は奇妙に生々しい。

 これが自分かと思うとぞっとする。

 もう元の自分に戻れないのではないかという恐怖感をねじ伏せ、拳を握り締めた。

 戦況は有利だった。この身体にも慣れ始めている。勝てる、そう確信できた。

 だけど聡介の心は苛立ちが募る。


 どうして、こんなことになったんだ。

 贅沢はできなくともそれなりに生活できる程度に働いて、休日には友人と趣味にいそしんで、そのうち結婚もして家族を作って、多少の苦労はありつつも平凡に暮らしていければそれで充分だった。

 全ての元凶は、あの女だ。

 ヒトミと名乗る女と出会ってから、聡介の平穏な日常は狂い始めた。

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